ペレグとヨクタン~ヘブル人の故郷を探る③~
前回⇒エベルの民のつづき。
エベルには二人の息子がいた。
ペレグとヨクタン。
彼らが大人になり、子孫と家畜が増えると、同じ集団として遊牧生活を送ることが困難になる。
そこで、彼らは二手に分かれることにした。
ペレグチームはのちにヘブル人と呼ばれるようになり、ヨクタンチームはアラブ人となる。
なぜペレグの子孫はペレグ人ではなくエベルの名で呼ばれるようになったのだろうか?
さっそくはじめよう。
ペレグ
さて、ペレグの子孫はなぜ「ペレグ人」ではなく「ヘブル人」と呼ばれていたのだろうか?
その答えは、下の寿命グラフにある。

ペレグの代から急に寿命が短くなっているのがわかる。
いや、昔の人の寿命長すぎておかしいだろ……というのは現代人の感覚である。アラブにもイランにもインドにも、大昔の人間の寿命は非常に長かったという伝承がある。先祖の方が知的にも肉体的にも優れていたというのが、古代世界の感覚である。2千年前のインド人が先祖と自分たちを比べて未来の子孫の状態を危惧したとおり、現代人は若くして白髪が生え、百歳にも満たずに死んでいくのである。
エベルは遺伝的な欠陥の少ないスーパー長寿の最後の世代であった。
おそらくだが、集団を二つに分けたとき、父エベルはペレグとともにいたのだろう。
そして、ペレグは239歳で亡くなる。父よりも先に老いて死んだ。
ペレグ以降の子孫も、ペレグ→レウ→セルグ→ナホル→テラ→アブラハムに至るまで、全員エベルよりも先に死んでいる。
そういうわけで、エベルの子孫たちは、「誰の子孫だ?」と聞かれたときに、ずっと生きているエベルの名を持ちだしたのだろう。
……例えば、田舎の家に長生きの「権左衛門」じいさんがいたとする。
その息子と孫が若くして亡くなった場合、その子孫が地域の人に「誰のうちのものだ?」と尋ねられたら、当然のように生きている「権左衛門」の名前を出すだろう。
そんな感覚である。
だから、ペレグの子孫たちはエベルの民を名乗り、周辺の民族もそのように認識していた。
それで、「ハ・エベル」(the Eber)、ヘブル人と呼ばれるようになったものと考えられる。

ヨクタン
エベルのもうひとりの息子ヨクタン。
ヨクタン人はアラブの伝承にあるカフターン人に比定されている。
「ヨクタン」と「カフターン」の語根はどちらもקטןカタン(小さい)で共通しているのではないかと言われているからだ。
カフターン人は「真のアラブ」と呼ばれている。
アブラハムの子孫のアラブ人は「アラブ化したアラブ」に分類される。
モーセの時代、ヨクタンの子孫はイスラエル人の居住地よりも東の山地に住んでいた。
ヨクタン人の居住地とそのより詳しい論拠は拙書『エデンの園の本当の場所』で解説している。
ヨクタンの子孫はヘブル人の兄弟民族である。
だから言葉も習俗も近く、そのためアブラハムの後妻ケトラの息子たちは東のヨクタン人の土地のほうへ送り出され、その結果アラブ化したわけだ。
もしかすると、ケトラがヨクタンの子孫であったのかもしれない。
さて、ペレグの項で、父エベルはペレグとともにいたと推測した。
父エベルと別れたヨクタンだが、彼の側にも心強いキーパーソンが同行していたものと思われる。
寿命表を見てみると、エベルの3代前の父祖「セム」も超長生きであり、彼もアブラハムよりあとに死んでいる。

そして、セムの記憶を受け継ぐ民族こそが、アラブ人である。
カフターン人は、いつの時代からか南アラビアに移り住んでいる。
イエメンでは今でも、セムがイエメンに住んでいたと信じられている。
補足
一応、紀元前3千年期にカフターン人はすでに南アラビアに定住していたとする研究もあるが、考古学の年代に関しては「はっきりわからない」というのが実情だ。
はっきりわかるなら、エジプトの第何王朝はメソポタミアの何王朝の時代なんだろうなどと悩む必要はないし、新資料が出てくるたびにいちいち修正しなくても済む。
でも、実際は誤差が非常に大きく全然よくわからないものだから、粘土板に書かれた文字資料なんかが重要になってくるわけだ。
そんなわけで、紀元前3千年期のシュメールの資料から南アラビアのカフターン人に関する言及か、その逆が見つからないかぎり、その時代にカフターン人が南アラビアにいたと確定することはできない。
もし、通説のとおりカフターン人=ヨクタン人であるとするならば、セムはヨクタンとともに行動していたものと考えられる。
もしかすると、そのことが「真のアラブである高貴なカフターン人」としての由緒になったのではないだろうか。

ではなぜ、ヨクタンの方は「セム人」にならなかったかといえば、これは簡単な話である。
セムの子孫はすでに複数の民に分かれていた。アブラハムの出身地の主要民族アラムもその一つだ。
セムをルーツとする民族が複数あるため、セム人と言ってしまうと「どのセム人?」となってしまうので、ヨクタンの名を掲げたのだろう。
もし、超長生きのセムがヨクタンの子孫の中で暮らしていたとするならば、『創世記』の謎が少し解けるのだ。
アダムからはじまる大洪水前の歴史や、大洪水時のノアの年齢などの詳細な情報、父祖たちの年齢を含めた完全な系図を、モーセはどこから入手したのだろう?
創世記を読んでいると、ときどき二つのテキストを併記しているように感じる箇所がある。
もしかすると、モーセはエジプトにいたイスラエル人のあいだに伝わっていた歴史と、ヨクタンの子孫が保存していた歴史の両方を参考にしたのではないだろうか。
出エジプト後のイスラエル人は、ヨクタンの子孫の居住地のそばを通ってカナンの地に入っている。当然のように接触があり、だからこそヨクタン人についての情報はほかの民族よりも詳しく書かれている。
『ヨブ記』の主人公「ヨブ」も、イスラエルの東北にあるウツの地の人物であったようだが、彼は何人とは書かれていないが、イスラエルと同じ神を崇拝する人物であった。ならば、彼はヨクタンの子孫か、アブラハムの子孫ということになる。
そして、「アイユーブ」の名でヨブの記憶を受け継ぐのもアラブ人だ。
『ヨブ記』は長い。口伝ではなく、テキストがあったのだろう。
同じく、先祖の寿命や大洪水の年月日なども、洪水前と後の世界を知るセムがテキストとして残していたのではないだろうか?

カフターン人の中から派生したカタバーン族は、のちに南アラビアに王国を建てる。
カタバーンとは「書く」を意味するセム語の語根〈ktb〉から来ているのではないか?
アラビア語で「本」を意味する「キターブ」という言葉も同じ語根から派生している。
ヘブル人とは別に、ヨクタンの子孫の中にセムが残した記録を保存する、一種の啓典の民がいたのではないだろうか?
……まあ、これは妄想の域を出ない話ではある。

というわけで、エベルの子孫はヘブル人とヨクタン人に分かたれた。
ペレグとエベルがいるグループと、
ヨクタンとセムがいるグループ。
一つの民族が二つに別れたのなら、彼らは隣り合った土地に暮らしていたものと考えられる。
では、彼らが住んでいた土地とはどこにあったのだろうか?
つづく。

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