白百合の天使は雨の中
私はカフェにいる。外では雨が降り、灰色の世界が広がっている。ただ、ゆったりとした時間が流れる。オレンジの照明が店内を照らす。木とコーヒーの香りが、しっとりとした風に乗って運ばれてきた。コーヒーを片手に穏やかな時間を過ごしていた、はずだった。
「一緒に、死のう?」
カフェで話されるような会話とは思えない言葉が宙を舞った。これは冗談なのか、それとも、通報すべきか。
私は、隣を見た。儚げな女子たちが、そこにはいた。白く、輝いているように見えた。メロンクリームソーダに刺さるストローを掴む、細い指。青白い肌、どこか遠くを見る透き通った瞳に、一目惚れした。魂の共鳴を感じた。通報という言葉は、とうに頭から抜けていた。
私は衝動的に飛び出したらしい。いつのまにか、カフェの外だった。あまり記憶がない。感じるのは、肌を刺す冷たい雨。少し離れた前を傘を差して歩く、二人の女子高生。
要するに、私は今、異常者だ。仕方がない。あんな会話を隣で、あの美しい天使たちが話していたら、誰だって気になる。
天使が、私を操ったのだ。
私は路地を通り抜けて、川の前に来ていた。雨の降る川は、人を呑み込もうとしているかのように暴れている。
「これで、一つになれるね」
彼女たちは、川に飛び込んだ。音が世界から消えた気がした。助けなければいけない。この雨の中で、無謀だとしても。共に流される可能性があったとしても!
私も、走って川に飛び込んだ。せめて、1人だけでもと、必死に手を掴んだ。もう片方の子は、流れていってしまった。
無我夢中で岸に上がった。なんとか、1人は救えた。安堵して、急な眠気に襲われた。暗くなる視界に、白い肌の少女が見えた。天使のお迎えに思えた。
......知らない天井だ。そして、知らない部屋だ。病院ですらない。淀んだ空気、照明の付いてない、薄暗い部屋。隙間から青白い光が漏れるカーテン。
丸いテーブルにカップラーメン。そして三冊の本、「斜陽」と「方法序説」と「ツァラトゥストラはこう語った」が、乱雑に置かれている。この部屋の主は、難解な哲学書が好きらしい。隣には、知っている顔だ。
......どういうことだ!?
おそらく、彼女の部屋だろう。つまり、運ばれたということだ。意外と力があるらしい。彼女の細い手首に残った、赤黒い擦り傷が、微かに光を反射する。
「あ、おはよ!命の恩人のお姉さん!遅いよ〜」
飄々とした彼女の声に、私はまた魅了された。
「もう1人は?」
私は尋ねた。おそらく、今聞くべきではない質問を。あの、川に流された方を。
「え〜?いないよ?」
傷を隠すような声だった。寂しさを隠している。私が昔、普通の人間を演じていた頃と、同じ声。彼女を絶対に、守らなければならない。そう思った。悲痛な叫びの漏れたその声が、愛おしく感じた。
「ずっと、ここにいていい?」
「お姉さんがいいなら!」
ーーそうして、私たちの日常ごっこが始まった。
「ねえ、お姉さん。何書いてるの?」
「百合メリーバッドエンド、かな」
「何それ、わかんない。けど、ここの表現好きかも」
私は、ネットで小説を書いている。四六時中パソコンに向かい、現実ではない世界を構築して生活費を稼ぐ、社会の枠組みから逸脱した人間だ。
もともと、普通の人間を演じるのに疲れて、この生活を選んだ。なので、彼女を匿うために部屋に引きこもることは、何の苦でもない。そもそも、人にあまり会いたくない。
ゆっくりと、日常が過ぎていく。
「推敲、上手くいかないな」
「お姉さん、真面目だね。そんな悩んでたら、お菓子が不味くなっちゃうよ」
彼女は、天使のように無邪気に笑った。ただ平和に、幸福が続く。
「お姉さん、ジュースでアイス作ったよ」
「あ、ありがと」
ずっと、このまま平和が続くことを祈っている。停滞したままでも、いいと信じている。ただ、この子の傷を、どうすればいいのか。
「お姉ちゃん。お腹すいたー」
この生活では、彼女だけが癒しだった。それでも、世界一幸せだ。
「今日は、シーフードのカップラーメン!」
「やったー」
2人で、一つのカップラーメンを分け合った。
「はい、あーん」
彼女が私の口に、直接エビを押し込んだ。お茶目な彼女も好きだ。笑顔の瞳の奥で揺蕩う暗がりが、私を掴んで離さなかった。
ーー出会って数ヶ月後の、ある日
「今日は、大雨だね」
「ああ、離れないよ」
「さすが、わかってるね」
さっきまで笑っていた彼女の目は、どこにもピントが合っていない。虚ろな、憂い。彼女のこの目が好きだ。吸い込まれるように思えた。部屋から浮いている、透き通った天使。私の天使さま。
私は彼女を、優しく撫でた。サラサラの髪が、この世のものではないようだ。水が流れるよう。丁寧なケアをしていないのに。天然のままでも美しい。
ふいに、彼女は私の耳元で、妖しく囁いた。
「ねえ、ずーっと、一緒だよね?」
「もちろん、離さないよ」
私は、彼女を何があっても離したくない。この弱い少女を、ずっと守ると決めたのだ。何をされたとしても、何を言われたとしても、彼女の全てを愛すると、ずっと前から決めていた。
「......」
「あの子がいないなんて、ぜーんぶ、嘘なの」
外の雨は、さらに強くなっていた。分かりきっていた告白をしながら泣く、震える彼女の声も、儚く美しかった。
「私、あの子が水底に沈んでる間に、1人平和を楽しもうとしたの」
「私と死んでくれるぐらいの、神様みたいなあの子が、水底で独りでいるのに」
彼女は、私の手を引いて、外に駆け出した。
「お姉ちゃん、逃げないの?私と一緒にいたら、お姉ちゃんも死んじゃうよ?」
彼女は、強く私の服を掴んだまま、そう言った。逃げるなんて、できるわけがない。あの雨の降る川の前。向こう岸には、白百合が一本咲いている。濡れて透き通った彼女は、幽霊のようで、どこかに行ってしまいそうだった。
「あの時、あの子と、死ぬべきだったの」
彼女と私の最初の出会いは、この川だった。私は彼女の手を掴んだ。
「そうしたら、お姉ちゃんを引き込むことは、無かったのに。世界って、理不尽だね」
「裏切りたくないから、また殺したくないから、早く逃げて」
彼女となら、死んでもいいと思っていた。離れ離れになる可能性のある生よりも、死んで一つになった方が、いいんじゃないかと。
「離れない、って言ったよね?」
私は、彼女に抱きついて、川に飛び込んだ。
輪郭のぼやけた、目の前の天使と私は、濁流に呑まれた。冷たい水が肺を満たした。
彼女となら、どこまでも堕ちていける。抱き合ったまま、流される。たとえこれを繰り返していたとしても、彼女となら何度でも。
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ねむい