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【短編小説】アナタのためのソナタ

目を開けると、見慣れた乳白色の天井が目の前に広がっていた。

眠りすぎてぼんやりとする思考のまま、ベッド脇に置いたスマホに手を伸ばす。

手の感触だけを頼りに充電コードを抜くと、ブルーライトの光が顔全体を照らした。

10:48

スマホの画面には、出社するには絶望的な時刻が表示されていた。

一瞬、まずいという考えがよぎったが、すぐに現状を思い出し、持ち上げた頭を枕に落とした。

そうだ、今は休んでるんだった。

医師から言い渡された、治療のための長い長いお休み。

少しでも有効活用しようと思っていたが、現状はこのざまだ。

朝は起きれない。食べるものはコンビニ弁当かスーパーの惣菜。
ゴミ出しは何度も忘れ、身だしなみを整える気力すら沸かない。

まともに生活すらできない、ダメ人間のような生活を送っている。

それもこれも、起きていてもやりたいことがないからだ。

会いに行ける友人がいなければ、やりたいと思う趣味もない。
テレビもパソコンもあるにはあるが、見たい番組もやりたいゲームも思いつかない。

つまりはまあ、暇を持て余しているわけだ。

「何か面白いことないかなぁ」

自分の声も久しぶりに聞いた気がする。
そのくらい、人と会話することもなかった。

このままだと、自分は引きこもって惰眠をむさぼるだけの家畜になり下がってしまう。
そう思っても、身体も心も、起き上がることを拒絶する。

与えられるのは、やることのない膨大な時間だけ。

自分のせいとは言え、社会に取り残されている気がしてならない。

「そういえば......」

少し前に、連絡をくれた友人のことを思い出す。

まだ私が長い休みに入る前。
たまたま私の勤める会社近くに用があったというので、一緒に飲みに行ったんだ。

ちょっとした近況を報告しあった後、なにかのゲームに誘われた、ような気がする。

何のゲームに誘われたのかまでは覚えていないが、誘われたことだけは覚えている。

「今さらだけど、誘いに乗ってみるかな」

私は上半身だけをベッドからゆっくりと起こすと、メッセージアプリを起動した。

この時、私は知らなかった。
この連絡が、私の人生をひっくり返すことになるだなんて――。

〇   〇   〇   〇   〇

「よう! 久しぶりだな、ラクガン」
「少し前にチャットで連絡したばかりだろ。えい――」
「おっと。この世界、『Eternal Eden』、通称『E2』の中では『らっきょ』と呼んでくれたまえ。リアルの名前は出すなよ?」
「⋯⋯りょうかい、らっきょ」

連絡を取ってから数日後。私は何故か、友人であるらっきょに頭につける変な機械を買わされ、バーチャル・リアリティ、所謂VRの世界に足を踏み入れることとなった。

いや、なんで?

「いや〜、嬉しいねぇ。ラクガンがVRに興味を持ってくれて」
「興味を持ったわけじゃ⋯⋯。時間ができたから、前に誘ってくれたゲームに付き合うと言っただけだよ」
「でも、買ってくれたじゃん。HMD(ヘッドマウントディスプレイ)」
「頭に付ける機械のこと? まあ、買えるだけのお金はあったしね」
「なくても遊べるけど、あった方がより臨場感あふれるからな。むしろ、VRの本質はHMDを被らないとわからないとさえ言っても過言ではないだろう」
「そんな大げさな……」

ニッコニッコな笑顔で詰め寄ってくるらっきょから目を離し、周囲を見渡す。

たくさんの高層ビルが道に沿って整然と立ち並び、空中には電光掲示板が浮かんでいる。そしてはるか上空では、何頭ものクジラが優雅に空を泳いでいた。

まるで近未来を舞台にしたアニメかゲームの舞台だ。

空想の世界に迷い込んだような気がして、乾ききった心が潤い、少しだけソワソワとした気持ちが溢れ出そうになる。

けど、その前に。聞かなければいけないことがある。

「どうして君は、女の子の格好をしているんだ?」

私の記憶が正しければ、友人であるらっきょは自他共に認める男性だったはずだ。

だけど今、目の前にいるらっきょは、何故か女性の姿になっていた。

「どうせなら可愛い方がいいじゃん」
「けど、自分の分身だろ? リアルの性別と同じアバターを作るのが良いんじゃないの?」
「せっかくの仮想世界、リアルに縛られる必要はないのだよ?」

可愛らしいポーズを取るらっきょを、改めて見る。

アニメから抜け出してきたような白い髪は太ももまで伸び、動きに合わせてゆらゆらと揺れている。
サメのような大きな尾びれが髪の毛と共に揺れている様は、犬や猫を思わせる。

身長は私のアバターの胸くらいまでしかなく、顔立ちも少し幼い。

そんな美少女が、黄色いツリ目でこちらをジッと見つめたかと思えば、ギザ歯を見せながら二カッと笑う。

くやしいけど確かに、可愛い。

でも、中身は男だ。血迷うな、私。

「折角なら、ラクガンも女の子でアバターを作り直したらどうだ?」
「いや、私は男のままでいい」
「えー。楽しいのに」
「そこまで割り切れないよ」
「まあいいか。ラクガンのアバターもカッコよく仕上がっているしな」

笑いながらサムズアップするらっきょの言葉に導かれるように、私は近くに備え付けてあった鏡で自分の姿を見た。

茶髪の、目元の泣きほくろが特徴的な、優しそうな顔立ちの男性だ。

らっきょの女性アバターに比べると、顔は少し小さいだろうか。
もしくは、すらりとした身長のせいで、顔が小さく見えているだけなのかもしれない。

汎用アバターを少しいじっただけだが、すごくカッコよく見える。

カッコよすぎて、今更ながらに使うことに気後れしてしまいそうだ。

「普通のゲームで使う分には、カッコよさなんてそこまで意識しないんだけどね」
「気恥ずかしいか? 最初はそんなもんだよ」
「女性アバター使っている人の言葉とは思えないね」
「慣れれば癖になるぜ~」

そりゃまぁ君はそうだろう。今も私の隣で可愛いポーズを取って遊んでいるんだから。

というか、だ。

「そろそろ、これがどういうゲームなのか教えてほしいんだけど?」
「どういうゲームかって?」
「ほら、メインストーリーがあるのかとか、何をすればクリア扱いになるのかとか」

ゲームというからには、目的があるはずだ。
そう思いらっきょに訪ねたのだがーー。

「ねぇぞ。んなもん」
「はい?」

らっきょからは、予想外すぎる答えが返ってきた。

「ストーリーもクリア目標もなし。うーん、なんて言えばいいんだろう」

らっきょは腕を組みながらうんうん唸る。
そして、何か思いついたかのようにポンと手を叩いた。

「これはさ、VRを使ったSNSなんだよ」
「SNSって、青い鳥とかショート動画の奴とか?」
「そう。ネットを利用したコミュニケーション手段。その中でもVRを活用したものが、この『E2』だ」
「普通のSNSでもコミュニケーションはとれるけど、それとは違うの?」
「質が違う。文字だけの交流じゃなくて、声や身振り手振りを使って交流できるんだぜ。しかも、自分好みのアバターに変身して、な」

にやりと笑ってキメ顔を見せつけてくるらっきょを見て、なんとなくだが言いたいことがわかってきた。

文字や音声だけでもコミュニケーションは取れる。だけど、細かいニュアンスの違いや言葉で言い表しづらいニュアンスの情報は伝えられない。

けど、このVRの世界であれば、それが伝えられる。だって、アバターという身体を持っているから。

自分の代わりにアバターが身振り手振り、表情で言葉だけでは伝えきれない表現をカバーしてくれる。

それが、VRでのSNSの良さ、なのだろう。

「すごいぞ。全世界数千万人が利用していて、日本でも少しずつ人気が出始めている。話題の最新鋭だ」
「ゲームと聞いて遊びにきたんだけど……」
「もちろん、ゲームで遊ぶこともできるぞ。けど、その前に色々とできることを紹介しておいた方が良いと思ってな」

いらずら小僧のように、らっきょのアバターがにやりと笑う。

「すごいぞここは。SNSと言ったけど、ゲームの質もワールドの質も、そんじょそこらのゲームの比にならないくらいすっげぇから」

私はらっきょの笑顔につられるように、笑顔を返した。

「期待するよ。せっかく高いお金を出して買ったんだしね」
「おう期待しな。没入感ですごいことになるからな。大声出してもしらねぇぞ」
「それは勘弁。部屋の壁、そこまで厚いわけじゃないんだよ」

〇   〇   〇   〇   〇

そこから私は、らっきょに様々な場所、ワールドと言うらしい、を案内をしてもらった。

和のテイストをふんだんに取り入れた幻想的な神社。
サイバーパンクを意識したような、ギラギラとしたネオンがひしめく夜の歓楽街。
月面に作られた宇宙人の拠点も案内してもらった。

らっきょのおすすめというだけあって、どれもすごい世界、もといワールドだった。360度どこを見ても作りこまれていて、本当にこんな場所が現実に存在しているかのようなリアリティがあった。

手を伸ばせば石の質感を感じ、一歩歩けばコンクリートを踏みしめる感触を感じ、低重力の世界を本格的に楽しめる、夢のような世界。

だけど、どうしてだろう。

楽しくはある。あるのだけれど、いまいち乗り切れない自分がいる。

退屈なわけではない。つまらないわけでもない。きれいで素敵で未知に満ちている。すごいものを見せられていることは理解できる。心だって踊ることがある。

だけど、冷静な自分が、これは幻だと告げてくる。

これは作り物で、偽物。

自分と同じ、紛い物だと突き付けてくる。

きっと、この世界のせいでも、ましてや友人であるらっきょのセンスが悪いわけでもない。

ただ単に、私の心がおかしくなっているから、心から楽しめないのだろう。

それがすごく、心苦しい。

「どうだ? すっごいところだろ!」
「うん、すごい。すごい場所だよ」
「……おもしろくなかった、か?」
「そんなわけじゃないよ。本当に面白いと思っているよ」

いくつめかのワールドを巡り、今はどこかのホテルの一室のような場所で休みながら、興奮するらっきょに笑顔で返す。

不安そうな顔をさせてしまい、申し訳ない。本当に面白いと思っているんだよ。

だけど、どうしても心の声が止まってくれないだけなんだ。

ごめんね。

心の中で謝りながら、当たり障りのない理由を言い訳にする。

「だけど、本当に色々なワールドを見たからな。少し疲れちゃったのかも」
「あ~。確かにちょいとペースが早すぎたな。もしかしたらVR酔いでもしたか?」
「そこまでじゃないよ。けど、そろそろ良い時間じゃない?」
「マジで? うわっ! ホントだ!」

らっきょには悪いけど、私は彼ほどにこの世界にはハマれなかった。
きっと、らっきょに誘われて遊びに来ることはあっても、自発的に来ることはないだろう。

そう、思っていた。

「じゃ、最後に少し意匠を変えたものを見せて、今日は仕舞いにするか」

……私、良い時間って言ったよね?
まだ深夜と呼ぶには早いけど、結構遅い時間だよ?

「確かに、私はまだ起きていられるけど、らっきょは大丈夫なの? 明日、朝辛くない?」
「まさか。今からが一番活気づく時間だぜ?」
「マジか」
「おう、マジマジ」

笑いながら言い切るらっきょは、私には見えないメニュー画面を操作して、別ワールドへの通り道、ポータルを開く。

縦に長い楕円のポータルに描かれているのは、どこか見たことのある景色だ。

「これって……」
「すぐにわかるよ。さぁ、入った入った」

急かされるままに、私はポータルへ触れる。

世界が四角いポリゴン状に分解され、真っ青な空間に置き換わる。

目の前にはワールドのダウンロード状況を知らせるバーが、少しずつ伸びていく。

数十秒ほど立つと、そのバーが100%を示した。

視界は真っ白に染まり、つい、目を閉じてしまう。

目を開けると、そこには先ほどまでのホテルではなかった。

というか、見たことがある。この場所はーー

「ここって、新宿駅?」
「そ、リアルを再現したワールドってわけ」

そう、目の前に広がっているのは、新宿駅南口の風景であった。
目の前には国道20号線が通っており、国道を挟んだ向かいには、バスタ新宿も再現されている。

そしてここには、先程までいなかった人人人で溢れていた。

「さっきまで人がいなかったのに、どうしてこんなに人がいるの?」
「さっきまでは、フレンドしか入れない設定でワールドを立てていたんだよ。んで、ここは誰でも入ることのできる公共(パブリック)エリアに参加したってわけ」
「見せたかったのは、この人混み?」
「まさか。ほら、聞こえてくるだろう?」

何を、と聞く前に聞こえてくるものがあった。

それはギターの音。ギターのリズミカルな音に合わせるように、誰かの歌声が響く。

地面に座り込んだ人ごみの先で、いかついタトゥーを全身に刻んでいる男性アバターが、ギターを片手に弾き語りをしていた。

周囲を見渡せば、同じように座り込んでいる人と、楽器を持つ人達があたりに点在している。

つまり、ここはー。

「ストリートミュージシャンがいるの?」
「そう。常に誰かが歌ったり演奏したりする。そういう場所だ」
「みんな、有名な人なの?」
「まさか。アマチュアばっかりだよ」

でも、楽しい雰囲気だろ。そう言いたげな顔でらっきょは私を横目で見る。

その顔に応えるように、笑顔を返す。

私は改めて、周囲を見渡す。

会話の声は聞こえない。ただ、歌声と楽器の音だけが響いている。

観客は目を閉じて浸っている人もいれば、カメラを持って演奏風景を撮っている人もいて様々だ。

だけどみんな、誰かの演奏に熱中していた。

確かに、悪くない。悪くない雰囲気だ。

先程までの綺麗なワールドも悪くはなかった。

だけど、このワールドは、ここで音楽を聴くことは、綺麗なワールドを眺めているのとはまた違った感覚がある。

私は今、ここでちゃんと生きている。

この不特定多数の中の一人として、社会の中に確かに存在している。

そう思えて、少しだけ、心地が良かった。

私はらっきょと共に、ストリートライブの会場をぐるりと一周することにした。

「複数人が一緒にライブをしているんだね」
「おう。音の距離減衰効果で、少し離れるだけで隣の音が聞こえなくなるからな。つっても、一緒にできて6組くらいじゃないか」

本当にいろんなライブがある。

複数人で組んだ本格的なバンドや、ラジカセを持ち込んでのボーカルだけのライブ。

楽器も様々だ。メジャーなギターやDJ機器を持ち込んでいる人。どこの国の楽器かもわからないもので演奏をしている人もいる。

観客の多い少ないはあれど、どの演奏にも聞いている人がいて、どこも活気にあふれている。

聞いているだけで、沈んでいる心が強制的に上がってくる。

なんというか、楽しい空間だ。熱気に溢れた場所、と言ってもいいかもしれない。

「あれ? ここだけ人がいないね」
「ありゃホントだ」

そんな時、一箇所だけ不自然に空いている空間があった。

そこはバスタ新宿側の歩道。マルイ方面に向かう道の途中。車止めのようなもので通行止めがされている、ワールドの端。

そこで、一人の女性アバターが、ピアノの弾き語りを行っていた。

不思議と絵になる光景だった。

白のオーバーサイズのTシャツに黒いジャージズボンというストリートファッションに身を包んだ女性が、脚のついた電子ピアノを演奏していた。

歌声はきれいなソプラノ。女性らしく澄んだ、綺麗な歌声だ。

ピアノの鍵盤を見ながら歌う彼女の顔は、海のような深い青色の髪にさえぎられて見えない。

それでもなお、静かに歌うその姿は、とても絵になる光景であった。

最もその歌はーー

「……なんというか、たどたどしいな」
「言わないであげなよ。いや、まぁ……うん」
「何か言ってやれよ」
「察して」

音楽に詳しくないので、この演奏がうまいのか下手なのかはよくわからない。

けど、時折演奏が止まっているところや、自信なさげな歌声から、まぁ、あまり上手くはないのだろう。

そもそも、目線が合わない。ライブしているのに観客と目線が合わないのは良いのだろうか?

そんな事を考えてしまう。

そういう状況を鑑みれば、彼女の周りに人がいないのも納得してしまう。

けどーー

「ライブ始めたばかりならこんなもんじゃね? 他のも聞きに行こうぜ」
「あ~~、先に行ってて。私はもうちょっと、聞いてるから」
「……ナンパでもする気か?」
「なんでそうなるの?」
「いやだって、ぶっちゃけ他の人の演奏の方がすごいじゃん。なんでこの人の演奏を聞きたいんだ?」

本人を目の前にしてよく言うよ。

けど確かに、らっきょの言う通りだ。

彼女よりも上手い人はたくさんいた。というか、ここにいる人の中で彼女の演奏が一番劣っていると思う。

だけど、なぜか惹かれてしまう。

何故かは分からない。だれも観客がいないことへの同情なのかもしれないし、彼女を通して別の何かを見ているのかもしれない。

ただ、放っておくのは嫌だと思った。彼女を置いてこの場を立ち去ることは、自分の何かを否定するようで、何故かできない事だと思った。

私はらっきょを置いて演奏が良く聞こえる位置まで近づき、彼女のライブに耳を傾ける。

やっぱり、上手いとは思えない。

歌詞に惹かれるものもなければ、歌声に惹かれるわけでもない。

容姿は優れているのかもしれないが、ここにいる人はみんな容姿に優れている。そもそも、顔は髪の毛で隠れていて見えやしない。

それでも、何故か彼女の演奏に聞き入ってしまう。

他の人と何が違うのだろう。

先ほど聞いた人たちの演奏風景を思い出す。

そして気付く、彼女と他の人達の違い。

彼女には、余裕がないのだ。

他の人は、何か余裕があったように思う。

時折観客の方を見ては、笑いかけたり反応を探りながらライブを披露していた。

それは演奏に対する観客の反応を観察し、より反応の良い演奏や曲調に変えるためのもの、なのかもしれない。

だけど彼女は、こちらを見ない。見る余裕もなさそうだ。

ただ、目の前のキーボードに、歌に、必死になっている。

その姿に、どこか見覚えがある。

それは、毎日遅くまで残業をしていた自分だ。

誰にも頼ることができず、ひとりデスクにかじりついて仕事を進めていた自分だ。

あの時の悔しさやしんどさ、疑問や孤独が、今、ありありと思い浮かぶ。

そして時折感じるのだ。今、自分は何のために頑張っているのだろうか、と。

彼女も今、そんな思いを感じているのだろうか。

それとも、そんなことが気にならないくらい、集中しているのだろうか。

聞き始めてから数分。演奏が終わる。

私は自然と、拍手を送っていた。

反応があるとは思わなかったのだろう。彼女の肩が驚きで飛び上がる。

そしてようやく、私の方を見た。

「ーーえ?」

私たちの方を見て、ピンク色の瞳を大きく見開く。

ライブをしているのに、観客がいるとは思わなかったのだろうか……。

ただ、そういう反応をされるとこちらも困ってしまう。

なんというか、このまま何も言わないのもおかしいだろう。けど、こういう時って何て言えば良いんだ?
らっきょに助けを求めようにも、彼は私の後方にいる。

「演奏、良かったです」

結局、私の口からは当たり障りの無い言葉しか出てこなかった。

こんな言葉しか出てこない自分が嫌になる。
でも、彼女にとってはそれで十分らしい。

起き上がりこぼしのように、何度も何度もぺこぺこと頭を下げてくる。

「わ、ワタシなんかの拙い演奏を聞いてくれて、ありがとうございます」

彼女も自覚があったようだ。実際、上手いとは言えない出来だと思う。

だけどーー

「いえ。勇気、もらえましたから」

これは、本心だ。

あの日のような夜を迎えているのは自分だけじゃない。自分と同じような感情をもって頑張っている人が、仲間がいる。そう思うだけで、少しだけ心が軽くなった。

「演奏、聴かせてくれてありがとうございます」

本心からのお礼。

彼女は、笑顔を作ることで応えてくれたのだった。


仮想世界の新宿で、演奏を聴いた次の日の夜。

今日も私は、この仮想世界『E2』のバーチャル新宿へと足を踏み入れていた。

横にはもちろん、らっきょがいる。

「まさか、あの下手な歌で覚醒するとはなぁ」
「まだ言いますか」
「言うね。言っちゃうね。何が刺さった? ビジュか? お姉さん改変に心が揺れたか?」
「違います」

昨日はあの後、居心地の悪さに耐えきれず、良い時間だからという理由でらっきょを連れてそそくさと退散した。
「次も聴きに来ます」とだけ告げて。

らっきょはにやにやしていたけれど、彼の勘違いを正すのは面倒だったので、そのままにしていた。

だけど、その選択は失敗だったらしい。

「まあ声はかわいらしい女の子だったからなぁ。気になるのは仕方ないだろう。でも気をつけろ。声だけじゃ女性かどうかなんて分からないのがこの世界だぞ」
「別に、女性だったからあんな言葉をいったわけじゃないよ。というか、声で女性かどうか分からないってどういうこと?」
「機械とか気合とかで、女声を出す男もいるんだよ、この界隈。ほら、せっかく美少女になっても、声がおっさんだと萎えるだろ?」
「おっさん声の美少女が何か言ってる。え? 流石に嘘でしょ?」
「事実はな、小説よりもおかしいんだぜぇ」

つい、昨日あった彼女が男性である可能性を考えてしまう。

いや、いやいやいや。あれで男性だったら何も信じられない。というか、女性だから声をかけたわけじゃないから。そういうやましい気持ちで音楽を聴いていたわけじゃないから。

そんなことを考えながら、昨日と同じ場所へと向かう。

また聴きに行くと言ったが、今日も彼女はいるのだろうか。
そもそも、何時から歌っているのかも、いつ歌っているのかも分からない。それなのに、行くとだけ言ったのは迷惑だったのではないだろうか。

今更な不安がぐるぐると頭の中をかけめぐる。

「あっ」
「……どうも、また聴きにきました」

けれど、彼女はいた。

昨日と同じ場所で、ライブの準備をしていた。

その事実に少しだけ、安心するのと同じくらい、心臓が飛び跳ねた。

「どうも、俺はコイツの連れでらっきょって言います。んで、コイツはラクガン」
「あ、どうも。サクマって言います。昨日は聴いてくれてありがとうございました」
「い、いえいえ」

仕事場での取引先とのあいさつのように、お互いぺこぺこと頭を下げる。

らっきょはその姿を見て楽しそうにしている。

〇   〇   〇   〇   〇

「ありがとうございました」

一曲目が終わる。

相変わらず、上手くはない。

何人か聴きに来る人もいるが、少し聞くと苦笑いを浮かべて別の演者の下へと向かってしまう。

もっとも、その事実にすら彼女、サクマさんは気づいていないのだろうけど。

「うーん……」

二曲目を聴いている最中、らっきょが唸りだす。

「どうしたの、らっきょ。難しい顔して」
「いやぁ。どう聞いてもラクガンが気に入った理由がわからんくてなぁ」
「気に入るって……」
「だって、褒めるところないじゃん」

それは言い過ぎだろう。

昨日よりも歌も演奏も少しは良くなっている、はずだ。たぶん。

いや、本当に演奏に関しては素人なので、上手くなっているのかなんて知りようもないけど。

だけど、今日もこうして聞きに来た理由ならはっきりと言える。

「私は、あのひたむきさが気に入ったというか、努力する姿に応援したくなっただけです」
「ほ~う。やっぱり歌ってる本人目当てじゃねぇか」
「いや……それは……」
「いいんだよ別に。腐ってたお前が興味持つものができたのなら、なんだっていいさ」
「らっきょ……」
「俺おすすめワールドに引っかからなかったのは、癪に障るけどな」
「らっきょ……」

自分は本当に、良い友人を持ったらしい。

らっきょとは、大学時代に所属していたサークルで出会った。

同期ということもあってよくつるんでいた。けど、社会人になってまで交流が続くとは思っていなかった。

彼は活動的であり、リーダーシップに富んでいて、なによりも人当たりが良い。

だからサークルでも中心的存在として、いつもみんなの輪の中心にいた。

対して私は、いつも隅っこにいて、いてもいなくても良いような存在だった。

だけどらっきょは、いつも私を気にかけてくれた。

今だってそうだ。
家の中に籠って外界を遮断していた私を、こうやって外に連れ出そうとしてくれる。

本当に、頭が上がらない。

「何の話をされているんですか?」

いつの間にか2曲目が終わっていたらしい。私たちの話に興味をもったのか、サクマさんが話しかけてくれる。

「な~に。ラクガンがもっとお客を呼び込む案があるっていうんでな」
「ちょっと、何適当なことを言っているんですか」
「あるんですか!?」

でた。らっきょの悪い癖。時たまこんな無茶ぶりを私にだけしてくるのだ。本当に止めてほしい。

今もほら、サクマさんを勝手にその気にさせてしまっている。
ずずいと私に身を乗り出してくるので、思わず後ずさりをしてしまった。

けど、さて、どうしたものか。

目をキラキラと輝かせるサクマさんを前に、案なんてありませんとは言いづらい。

ん~、ありきたりだけど、仕方がない。

私は聴きながらずっと思っていたことを、素直に告げることにした。

「やっぱり、歌か演奏、どちらか一本に絞ってみませんか?」

これは、昨日からずっと思っていたことだ。

歌を歌っていると、ピアノの演奏がおろそかになる。

ピアノの演奏に集中すると、歌がおろそかになる。

だったら、どちらかひとつに絞った方が、少なくとも、今のようなとぎれとぎれの演奏ではなくなるのではないか。そう思っての提案だ。

だが、サクマさんの反応は、あまりよろしくない。

「え~。やっぱり、歌って演奏した方が華が合ってよくないですか?」
「でも今、それができていないわけですし」
「で、でもほら! 本番で慣れていった方が上達もすぐですよっ」
「片方ずつの方が、習熟も早くないですか? それに上達するまでお客さん来ないのは、しんどいですよ」
「うっ。それを言われると弱い」
「華も大事ですが、今できることは何なのか、目的は何なのか。ちゃんと理解して使うことも大切です」
「う~。言い方は優しいのに厳しい」
「そうそう。こいつは顔に似合わず言うこと厳しいんだ」
「厳しいこと言ってますか? 事実でしょ?」
「ワタシには厳しいんですっ」

もー、とぷりぷりと怒ったように頬を膨らませる彼女が、ピアノの前へと戻る。

「それじゃあ、ピアノだけで演奏してみますね」
「あ、やってくれるんですね」
「折角のアドバイスですし。でも、人が来なかったらまた弾き語りにしますから」
「はい、楽しみにしてます」

彼女は私の言葉に笑顔で答え、ピアノの鍵盤をひとつ叩いた。

そして始まる、3曲目。

素人の耳で聴いても分かるくらい、演奏の質が変わった。

まず、音が途切れない。流れるように鍵盤が叩かれ、きちんと音楽として成り立っている。

少なくとも、先程までの音の羅列のような演奏ではなかった。

相変わらず目線は鍵盤の方ばかり向いているが、鍵盤を叩く指のリズムは一定で、淀みがない。

時折変な音が交じるが、今までのよりもずっと良い。

そんな音の変化を感じ取ったのか。周囲にいた数人が、足を止める。

私とらっきょの2人しかいなかった観客が、少しだけ、増える。

「こんなにもすぐに人が集まってくれるものなんですね」
「そりゃまぁ、ここで演奏しているのはアマチュアばかりだからな。観客もそれをわかって聴いているんだ。多少の粗は笑って流すさ」

サクマさんの演奏が終わる頃には、私達を合わせて7人もの人が、サクマさんのピアノを聴くために足を止めていた。

サクマさんの顔が上がる。

そのまま、固まった。

きっと、私達以外に人がいることを予想していなかったのだろう。

やがて、口角がどんどんとあがっていく。

「お、お聴きいただきありがとうございました」

勢いよく頭を下げる。

私を含めた周囲は、そんな彼女に温かな拍手を送った。

「や、やったよー。すごいねラクガンくん!すごいすごい」

だけど、こちらに手を振るのは、止めてほしい。
周囲から注目された私は赤くなった顔を隠すように、片手で顔を覆うのであった。

〇   〇   〇   〇   〇

それから私は、彼女のライブのある日は、毎日VR世界にログインした。

彼女のライブが楽しみだった。というだけではない。

きっかけはまた、らっきょの余計な一言だった。

「いっそのこと、サクマのライブの手伝いとかしてみれば」
「それ、いいね!」

本来であれば与太話で終わるはずの冗談が、サクマさんがノリ気なせいで、何故か受ける方向へと話が進んでしまった。

もちろん、嫌というわけではない。彼女の演奏する姿を見るのは好きなので、それを特等席で見れるのは悪い話ではない。

それに、今の自分には時間があり余っている。

余らせている時間なら、求めている人のために使っても良いと思えた。

だからまあ、私も抵抗することなく、その話を受けることにした。らっきょのニヤニヤ顔は少し不愉快ではあったが。

と言っても、やることはあまりない。

待ち合わせの時間になったら、いつもの路上ライブのワールドへとアクセスし、サクマさんと合流する。

「やっほー、ラクガン君。今日もよろしくねー」
「はい。今日もよろしくお願いします」

そして彼女がライブの設営をする間に、周囲への声がけをする。

ここ数日の間に彼女のライブを気に入ってくれた人が少しずつ増えてきたようで、ライブ開始前から集まってくれる人が出るようになってきた。

私は、そんな人たちを案内し、所定の場所に座って待機してもらう。

そうこうしている間に準備が整い、サクマさんのMCが始まる。

「今日も集まっていただきありがとうございます」

ライブ中に私がやることは、彼女の写真を撮ることだ。

これも、らっきょが提案したことである。

「やっぱりさ。ビジュで興味もってもらうことが大事だと思うんだ」
「?みんなキレイだけど、それじゃダメなの?」
「SNSの話だよ。告知を出す時って文字だけよりも、写真とかあったほうが目に止まりやすいだろ」
「流石に、演奏しながら写真とることはできませんよ⋯⋯」
「何言ってんだ。演奏聴きに来ている奴に撮らせれば良いんだよ。丁度ここに、何時でも聞きに来そうなヤツがいんだしさ」
「⋯⋯私にやれと?」

らっきょの提案にまたもやサクマさんが乗り気になってしまったため、この仕事もなし崩し的に私が引き受けることになってしまった。

まあ、そこまで嫌ではなかったことは確かだ。

サクマさんが喜んでくれるのは、素直に嬉しい。

それに、役目を与えてくれた方が楽だ。自分がこの場所にいても良いんだという安心感が、求められているという事実そのものが、心を暖かくさせる。

恋とかそういう感情ではないと思う。だけど、この気持ちがなんなのかは、よく分からない。

そんな事を考えている内に、場が幾分か温まったようだ。

「それでは、まだまだ拙い演奏ですが、どうか楽しんでいってください」

そんな言葉と共に、ライブが始まる。

ゆっくり聞く人たちは地べたに座り、各々くつろいだ様子でピアノの演奏を聴いている。

通りかかった人たちは、初めは立ち見で演奏する様子を眺め、立ち去って行ったり、他の人と同じように地面に座って本格的に聴く姿勢を取ったりと、様子は様々だ。

そんな中、私はカメラを取り出すと、観客の広報から演奏するサクマさんの様子を写真に収めていった。

写真なんて現実世界でもスマホのカメラ機能くらいしか使ったことがないので、きれいな構図なんていうものは分からない。

だからこそ、数うてば当たるの精神で、たくさんの写真を撮っている。

今日も、少しでもサクマさんがキレイに映るよう、あっちへ移動しこっちへ移動しと、せわしなく動きながらカメラのシャッターを押しまくる。

そんな私の行動など知りもせず、サクマさんは相変わらず、下を向いて演奏している。

青い髪の隙間から時折覗かせるピンク色の瞳は真剣そのもの。私が初めて見た日と同じ目だ。

そんな目を見ながら私は考える。自分は一体、彼女のどこに惹かれたのだろうか、と。

あの日以降、暇な時には他の人の演奏を聞きに行くこともあった。けど、何故かサクマさんほど響くことがなかった。

みんな真剣に演奏して、みんな真剣に音楽に打ち込んでいた。そこはきっと、誰も変わらない。

なのに、彼女の姿から感じるものと、他の人が醸し出す雰囲気は、どこか違う。その差異は、一体何なのだろう。

知りたい。彼女のことを。もっとーー。

「ありがとうございました。次が最後の曲になります」

そんなことを考えている間に、最後の曲になってしまった。

いけないいけない。今は写真を撮ることに集中しないと。

私は改めてカメラを構えると、お客の前で笑顔を見せるサクマさんを撮るのであった。


「最近、いい調子じゃないですか」
「本当ですか!?」

現実世界の病院の診察室。

私は主治医の先生から、お褒めの言葉を貰っていた。

「今まではずっと寝てばかりと伺っていましたからね。部屋の中とはいえ、起きて活動を始めたのは良いことだと思います」
「ゲームですけどね」
「ゲームでもなんでも、意欲を持って動くことが大事ですからね」
「ありがとうございます」

私は小さく、ガッツポーズを取った。
意識しての行動ではなかったけれど、自分に良い影響を与えていたのであれば、良かった。

「ですが、やりすぎには注意してください。ただでさえ、今は体力が落ちている時ですからね」
「はい」
「もちろんですが、睡眠時間を削らないでくださいよ。規則正しい生活を心がけて下さい」
「はい」
「それはそれとして、ちゃんと外出もしてくださいね。やはり朝日を浴びることは大事ですから」
「は、はい」
「それと、できるのであれば運動も。散歩でも良いです。身体を動かすことは大事ですからね」
「⋯⋯はい」
「それとーー」
「まだあるんですね⋯⋯」

それからしばらく、先生から日常生活についての注意を事細かに告げられることになったのであった。

〇   〇   〇   〇   〇

薬をもらっての帰り道、スマホの携帯が鳴る。

手にとって見てみると、それは実家の母からのものだった。

通話に出るのが、少しだけ怖い。

仲が悪いわけではない。折り合いが悪いわけではない。

ただ少し、疲れてしまうだけだ。

私は、拒否したい気持ちを押し殺しながら、通話ボタンをタップした。

「もしもし?」
「あんた、会社休んでるって本当なの?」

開口一番、あいさつも無しに本題へずばりと切り込んでくる。
母の、いつもの話し方だ。

「……そうだよ。今は治療中」
「治療中って、家で寝ているだけでしょう! すぐに働けないの?」
「薬も飲んでいるよ。それに、先生からもしばらく休めって言われているんだよ」
「そうなの? 身体は問題ないんだから働けるものだと思うんだけど、違うのね」
「そういうものらしいよ」
「そ。じゃあ早く治しなさい。ただでさえあんた、職場のみなさんに迷惑をかけているんだから」
「……うん。わかってるよ」
「本当に分かってる? 長期で休むなんて、辞めさせられてもおかしくないんだからね」
「本当そうだね。職場には感謝しているよ。本当に」

母は、事実をずばずばと突きつけてくる。
その事実は、私が目を背けていたもので、一言一言が、私の罪悪感を搔き立てる。

もしかしたら、母のこういう態度はあまりよろしくないのかもしれない。

だけど、母が悪いわけじゃないのだ。悪いのはすべて、私なのだ。

罪の意識が胸の中で黒くもやもやしたものに形を変える。

「早く働きなさいね。男は、働いていないと意味ないんだから」

歩く足が、止まる。

意味がない。働いていないと、意味がない。

それは今の私が心の奥底で考えていたことだ。
働かないと意味がない。
働けないと意味がない。

職場に迷惑をかけてのうのうと生きているなんて、なんて恩知らずのひどい奴なんだろうか。

早く治さないといけないのに。早く元に戻らないといけないのに。

なのに今、どうして私はこんな自堕落な生き方をしているのだろうか。

昼ごろに起きて、ゲームをするか、ただ天井を眺めているだけの日々。

それに、どんな意味があるんだろうか。

「ちょっと? 聞こえてるの?」
「……わかっているよ」
「本当にわかってる?じゃあ、早く治しなさいね」
「うん、うん。わかったから」

通話が切れると、今まで我慢していたものがあふれ出るように、黒い感情が全身を覆い、何十キロもの重りが乗ったように感じた。

その理由が、暗く重くなった心にあることも、自覚している。

身体が重い。胸が苦しい。息苦しい。
様々な負の感情が胸の内側から湧き上がり、思考を阻害していく。

ああ、このまま消えてしまいたい。

そんな気持ちが大きくなっていくのを感じる。

足に力が入らない。

このまま倒れこんでしまいたい。

だけど、今倒れたら色んな人に迷惑をかけてしまう。

だから、倒れるなら家の中だ。

「……帰らないと。迷惑は、かけられない」

そうつぶやき、いつもの倍近い時間をかけて、家路に続く道を歩く。

家につくと、靴のまま玄関で倒れるように床に這いつくばった。

少しだけキレイにしていてよかった。

そんな場違いなことを考え、また自己嫌悪に陥る。

それから私は、這うようにして布団の中へと転がりこんだ。

それから、寝るでもなく起きるでもなく、ただじっと、この苦しみが消え去るのを待っていた。

夕食は、食欲が無かったので抜いた。

お風呂も、シャワーを浴びる元気も無かったので、入らなかった。

ライブは、その日初めて休んだ。

サクマさんへの連絡だけは、なんとかできた。

『ごめんなさい。今日は休みます』

理由も何もない、シンプルな一言。

だけど、これ以上何か言葉を考えるだけの思考ができない。
送るだけ送って、スマホを布団の脇に置いておく。

何度か返事が来た音がなっていたような気もしたけど、見る元気は、無かった。

〇   〇   〇   〇   〇

この病気を発症したのは、数週間前のことだ。

原因は分からない。たぶん、心が折れてしまったのだろう。

当時、私には生きる目的がなかった。やりたいことも、叶えたい願いもなかった。

ただ漫然と、惰性で毎日をすごしていた。

仕事だって、働かなくちゃいけないから働いていた。生きていなくてはいけないから、生きていた。しなくてはいけないことをこなしながら、毎日を生きていた。

そんな日々でも、上手く行っていた。

上手く行っていると、思っていたんだ。

だけどふと、思ってしまった。この毎日は、後何年続くのだろうか、と。

やるべきことだけをやって、やりたいことなど何もない人生が、後何十年続くのか、と。

そう考えたら、怖くなった。

生きていることが、怖くなった。

だから、しんどくなった。

出勤すること、働くこと、食べること、寝ること。
生きること全てが、嫌になった。

嫌になったら、どんどんと、できなくなっていった。
できなくなって、だけど迷惑をかけられないからと頑張って。だけど身体がついてこなくて。

心も、身体も、思考すらも。自分自身で制御できなくなっていった。

私が病院にかけこめたのは、食事を取らない日が3日続き、職場で倒れた時だ。

その日から私は、病名と共に自宅で安静にする日々を送ることになった。

だけど、家族には私の不養生だと罵られた。

私は、どうすればよかったのだろう。

〇   〇   〇   〇   〇

気づくと、夜が明けていた。

眠っていたのかまどろんでいたのかさえ分からない。

ただ、昨日に比べれば、幾分か気分が晴れやかになっていた。

少し眠って、気が晴れたのかもしれない。

だけど、胸に去来したものは安堵よりも自分自身への嫌気だった。

こんな身体になってしまったことに、どうして、という黒い感情が湧きあがってくる。

「駄目だ駄目だ。こんな気持ち、持ってちゃだめだ」

握った拳で頭を何度も叩き、気持ちを落ち着かせる。

痛みが、少しだけ理性を回復させてくれた。

そう言えば、昨日は何か連絡が来ていたような気がする。

そう思いスマホを手に取るが、画面が映らない。

「あ~、充電してなかったか」

充電器に差し込む。

その間に食事でもしよう。

食欲はまだない。けど、昨晩は何も食べていなかったのだ。流石に何かを口にしなけれど、動くこともままならない。

賞味期限がギリギリになった食パンを、インスタントスープで流し込む。

正直、今は食事に興味が持てないし、今口にしているものが美味しいのかさえよくわからない。ただ、胃の中に食べ物を流し込むことだけに意識を向けていた。

5分程度で終わらせた朝食の後、改めてスマホを手に取る。

電源がつく程度には充電できてたらしい。液晶画面に光が灯り、止まっていた通知が鳴り出した。

スパムメール、いつ登録したのか覚えていないメルマガの通知に混じって、サクマさんから返信が届いていることに気が付いた。

『急にお休みって珍しいね。体調でもくずしちゃった? 大丈夫』

こちらを気遣うメールに、申し訳なさが先にでてしまう。

遅くなったが、返事を返す。

『すみません。もう大丈夫です。心配おかけしました』

返信をして、スマホを充電器に戻す前に、通知音がなる。

確認すると、サクマさんからだ。返信、早いんだな。

『大丈夫って、本当に? 昨日はあれから返信も無くて、心配したんだよー』
『本当にすみません。次は行けますから大丈夫です』
『そういうことじゃなくて。君が心配なんだよワタシは』

どうしてサクマさんは、私の欲しい言葉を言ってくれるんだろう。

家族にもらえなかった労わりの感情が、サクマさんのメールから感じられる。

甘えてしまいたい。吐き出してしまいたい。

自分が抱えているものについて、全てしゃべって楽になりたい。

でも、そこまで甘えられない。

彼女は、他人だ。

VRという少し特殊な場所で出会っただけの他人にすぎない。

だけど、ああ、だけど。

どうしてこんなにも、彼女に甘えたくなってしまうのだろうか。

スマホが震える。

私が返信する前に、サクマさんが送ってきてくれたらしい。

『体調には問題ないんだよね。じゃあ、今日会える?』

会ったら、甘えてしまいたくなる。だから、会いたくない。
だけど、今はひどく、独りが心細い。

迷惑をかけることになるであろうことに対する申し訳なさと、彼女と会えることに対するうれしさが葛藤する。

悩んで、悩んで、悩んだ。

30分悩み続け、結局ーー

『大丈夫です』

淡泊な一文で、彼女と会うことを決めたのだった。

〇   〇   〇   〇   〇

「ごめんごめん。またせちゃったかな」
「いえ、全然」
「うっそだー。20分前にはインしてたじゃん」
「それは……私が暇なのが悪いんですよ」
「悪いことじゃないと思うけどなー」

その日の夜。私はいつものVR空間でサクマさんと相対していた。

いつもの新宿駅ではない。森の中にある湖畔のワールドだった。

周囲にはキャンプ道具が並べられており、空には満月が浮かんでいる。

サクマさんの選んだワールドだけど、とても静かな場所だ。

「ここはさ、演奏の練習をするのに使っているワールドなんだ。静かできれいで、いいところでしょ」
「はい。キレイなところだと思います」
「でしょでしょ~」

ニコニコとした笑顔を私に向けるサクマさんを見ていると、申し訳ない気持ちが湧きあがってくる。

自分がサクマさんの大切な場所に踏み入れてしまったこと。
ここまでしてくれる彼女に、何も返せていないこと。

何より、自分のような何もできない存在に、時間を使わせてしまっていることが、ひどく、申し訳ない。

「ねぇ? リアルで何かあった?」

急に核心に切り込む彼女の言葉に、ドキリとする。

「どうして……?」
「なんとなく? けど、何かがあったんだろうなって思っているよ」
「そんなに、私の表情ってわかりやすいですかね」
「私が、ラクガンくんをずっと見ていたから、だよ」
「見ても、おもしろいことなんかありませんよ」
「むふふ、そうでもないよ〜」

彼女は手を後ろに組んだまま、私に笑いかける。

「ライブの時はワタシより先にインスタンスに入って場所取りをしているし、お願いしてる写真だってキレイに取ってくれてる。あれ、かなり吟味してるでしょ? いっぱい写真撮ってるのに、届く枚数が少ないから、すぐわかっちゃった」
「それは、サクマさんに任されたからですよ」
「そうかもね。でも、そういうまじめなところとか、真剣なところを見ていると、ああ、この人はこんなに私のために動いてくれるんだぁって、うれしくなっちゃうんだ」

全く、予想外の反応だった。
自分は、出来ないなりに頑張ってはいた。いたけれども、そこまで評価されるものではないと思っていた。

素人の写真で、素人の付き添い。迷惑をかけないように、ということばかり考えていた。

だけどサクマさんにとって、この邪魔かもしれない行為に、きちんと評価をくれた。

それがひどく、うれしかった。

「そんなラクガン君が、急に理由も言わずに休むだなんて、何かあったのかなって思って当然じゃない」
「……すみません」
「怒っているわけじゃないよ。ただ心配なだけ」

そんなサクマさんを心配させてしまったことに、やはり、申し訳なさを感じてしまう。

だけどサクマさんは、もっと驚くようなことを告げてきた。

「だって君は、私を救ってくれた人だからね」

一瞬、誰のことを言っているのか分からなかった。

救う? 誰が? ……誰を?

「君だよ、ラクガン君。君が私を救ってくれたんだ」
「救うなんて、私は、何も」
「君がライブを聴きに来てくれた日はね。私にとって最後のライブになる予定だったんだよ」
「最後、ですか?」
「そっ。観客がだれもいないライブなんて、寂しくて辛いだけだったしね。一週間がんばった。けど、集まらなかった」

サクマさんはなんて事ないように話す。

だけど私にとっては予想外で、開いた口が塞がらなかった。

「だからあの日、だれも来なかったら止めようと思ってたんだ。音楽を辞めて、この世界からもさよならして、現実で面白くもない日々を過ごそうと思っていたんだよ」

だけど彼女の言葉は真剣そのものでーー

「それなのに、君が聴きにきてくれた。それだけじゃない。私の下手な演奏を、褒めてくれた」

私がしたことが、あの日から私がやったことがーー

「嬉しかったんだ、すごく。ライブやってて良かったと思った。音楽、辞めないで良かったと思った」
「そして次の日も来てくれた。それに、アドバイスもくれたね。ワタシ、ライブって言うからには歌がないといけないと思っていたから、予想外のアドバイスだったんだよ」

ちゃんと、誰かの力になっていたのだとーー

「アドバイス通りにしたらまた人が増えた。また、私に楽しい思い出をくれた。だからまだ、私はこうして音楽を続けられている。ワタシにとって君は、暗闇から救ってくれた救世主だったんだ」

ーー知ることが、できた。

「そんな君が、何か苦しそうにしている。だから、力になりたいんだ」
「……そう言ってもらえるだけで、私にとっては充分救われてますよ」
「ワタシはまだ、何も返していないよ?」
「いいえ、充分に返してくれています」

自分が、必要だと言われること。
自分が、誰かの力になれていたということ。

それだけで、救われた。

ああ、そうか。そうだったのか。

私はただ、誰かの力になりたかった。

誰かのために生きている実感が欲しかっただけなのだ。

それが今、手に入った。

いや、既に手のひらの中にあったことに今、気づいた。

だからもう、私は、救われていたのだ。

「だから、サクマさん」
「なぁに、ラクガン君」
「まだ私は、あなたのそばにいて、いいですか?」

彼女は、笑顔で応えてくれた。

「もちろんだよ、ラクガン君。ワタシには、君が必要なんだ」

〇   〇   〇   〇   〇

VRSNS『E2』は今日もにぎわっていた。その中でも常に人であふれかえっているのは、新宿駅南口を再現したバーチャル新宿駅。

目の前には国道20号線が通っており、国道を挟んだ向かいには、バスタ新宿も再現されている。

ここには今日も、路上ライブをする人と、演奏を聴きに来る人であふれている。

そんな場所の一角。ワールドの隅の隅。

そこに小さな人だかりが形成されつつあった。

ひとりは海のような深い青色の髪とピンク色の瞳が特徴的な少女のアバターを身にまとい、もう一人は目元の泣きほくろが特徴的な、優しそうな顔立ちの男性アバターが立っていた。

「今日も楽しもう、ラクガン君っ」
「はい、サクマさん」

そして今日もまた、演奏が始まるのだった。

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