50になって
第一章:思い描いていた「50歳」という蜃気楼
私は今年、50歳になった。
子どもの頃、あるいは20代や30代の若かりし頃に思い描いていた「50歳」という年齢は、途方もなく遠い場所にあった。
当時の私がイメージしていた50歳の大人は、一言で言えば「もっと立派な人間」だった。
人生の酸いも甘いも噛み分け、あらゆる問いに対する答えをすでにポケットに入れているような人。自分の歩むべき道に一切の迷いがなく、何が正しくて何が間違っているのかを、まるですべて見通しているかのように、はっきりと理解している人。感情に振り回されることなく、常に泰然自若としていて、周囲を優しく包み込む包容力を持った完成された存在。それが、私の憧れであり、同時に「いつかは自分もそうなれるのだろう」と信じて疑わなかった50歳の姿だった。
けれど、実際にその年齢を迎えた私はどうだろうか。
鏡の中にいるのは、白髪や目元のシワといった確実な身体の変化を受け入れつつも、中身は驚くほどあの頃と変わらない、一人の不完全な人間だ。
50歳になった今でも、私は相変わらず日常の些細なことで迷うし、人間関係や仕事の方向性で深く悩む。時には、自分の選択が間違っていたのではないかと、情けないほど自信をなくしてしまう夜もある。心の中に広がる霧は、20代の頃と比べて決して薄くなってなどいない。むしろ、年齢を重ねた分だけ人生の選択肢の重みが増し、余計に足がすくむことさえある。
「私は、本当に50歳になれたのだろうか」
そんな自問自答を繰り返す日々の中で、それでも若い頃の自分と決定的に違うことが、たったひとつだけあることに気づいた。
それは、完璧な大人になれなかった自分を責めるのをやめ、「人生にはあらかじめ用意された正解などないのだ」という冷厳で、それでいてひどく優しい事実を、少しずつ、本当に少しずつだが受け入れられるようになったことだ。
若い頃の私は、いつも必死になって「正解」を探していた。
「どんな生き方を選び、どんな選択を重ねれば、本当の意味で幸せになれるのか」
まるであらかじめ誰かが作った「人生の模範解答集」のようなものが世界のどこかに存在していて、私はまだ、自分の未熟さゆえにそのページを見つけられていないだけなのだと思い込んでいた。
だからこそ、私は貪るように本を読んだ。偉人の言葉や心理学の理論に答えを求めた。
多くの人の話を聞きたかった。
悩み、壁にぶつかり、それでもなお「もっと頑張れば、いつか正解にたどり着けるはずだ」と思いながらも必死に頑張ることもできずだらけている。自分
そんな自分に嫌気が差してばかりいた
どれだけ世界中を探し回っても、どこにも「私だけの正解」なかった。本に書かれているのは他人の人生の正解であり、私の人生の答えではなかったのだ。
今なら、ようやくわかる。
人生とは、世界のどこかに隠されている既成の答えを探し出す宝探しのような旅ではない。そうではなく、白紙の地図を広げ、迷いながら、傷つきながら、泥臭く「自分なりの答え」を一つずつ作り上げていく旅だったのだ。
その、あまりにも当たり前で、けれど気づくまでに半世紀を要した真理を私に教えてくれたのは、社会的な大成功や、誰もが羨むような特別な体験ではなかった。
むしろ、目まぐるしく過ぎ去っていく日常の、見落としてしまいそうなほど小さな出来事の積み重ねの中に、そのヒントはすべて隠されていた。
第二章:手放すこと、そこで信じること
ある日の午後、私のスマートフォンが鳴った。画面に表示されたのは、親元を離れて遠くの街で暮らす長男からの着信だった。
通話ボタンを押し、画面に映し出されたのは、息子の顔ではなく、どこか懐かしく、そして果てしなく広大な田舎の風景だった。
どこまでも高く、吸い込まれそうなほどに青い空。
青々とした稲が風に揺れる、どこまでも続く田んぼ道。
視界の端から端までを埋め尽くすような、遠くの山々の緑。
都会の喧騒とは無縁の、ただただ静かで、ただただ広い、名もない地方の景色だった。
「いい景色やろ」
画面の向こうから聞こえてきた息子の声は、どこか照れくさそうでありながら、自分の見つけたお気に入りの場所を自慢するかのように、誇らしげに響いていた。
その瞬間、私の胸の奥から、言葉にならない熱い感情が込み上げてきて、視界がじんわりと滲んだ。なぜだか分からないけれど、胸がいっぱいになってしまったのだ。
「私がこの子を、ちゃんと一人前の大人に育てなければならない」
「将来、この子が世の中で困らないような人生を歩ませなければならない」
「親である私が先回りをして、失敗の芽を摘み、挫折をさせないように守らなければならない」
「理不尽な世の中から、絶対に傷つけられないようにしなければならない」
そんな、今思えば傲慢とも言えるほどの強い使命感と責任感で夢中で子供を育てて、それがすごく楽しくて、生まれて初めての生きがいだった。
なにが正解かもわからないけど、ただ目の前の命を愛して一緒に遊んで、一緒に笑って自然と触れ合うこと
例えば、新緑のまぶしい、季節の木漏れ日が、とてつもなく美しくて、そこから何かエネルギーが降り注いでるような気がすること、海はいつもそこにあるのに、季節によって海の色や波の音、潮香りが変わること、日中はまだ灼熱のような暑さが続くのに、8月の半ばを過ぎると夕暮れに少し秋の色を感じること、とても寒い冬なのに、その空の彼方に春の匂いを感じること
五感を研ぎ済ませて、そんな私の自由、気ままな感性の話を、子供たち3人にはずっと語りかけていた
学校の勉強なんてそっちのけでとにかく一緒にいて、一緒にいろんな経験をしながらもちろん行動範囲は近所の海とか川とか山お金をかけた。レジャーにはほとんど行っていない
画面越しに広がる美しい田舎道と、そこにしっかりと足をつけて立っている息子の声を聞いたとき、すとんと腑に落ちるものがあった。
親が子どもに与えられるものなんて、実は最初からほんの少ししかないのだ。限界があるのだ、と。
親は子どもに「環境」を整える手助けはできても、「幸せ」そのものを直接買い与えたり、プレゼントしたりすることはできない。親ができる唯一にして最大のことは、子ども自身が自分の足で歩き、自分の目で見て、自分にとっての「幸せを見つける力」を持っているのだと、ただひたすらに信じることだけなのだ。
息子が見せてくれた景色は、観光名所でも何でもない、ただの田舎道だ。
でも、その時の私には、その景色が息子自身が選び、歩み、切り拓いてきた「人生そのもの」のように見えた。
誰かにあてがわれた用意された幸せではなく、彼が自分自身の感性で見つけ、美しいと感じ、慈しんでいる幸せ。
あぁ私は息子をまっすぐに育てることができた、そんなことが自己受容につながり、嬉しくなった
思えば私は、この20年近い歳月の中で、「愛すること」と同時に「手放すこと」を、長い時間をかけて痛みを伴いながら学んできたのかもしれない。
子どもを深く愛しているからこそ、親は先回りをして心配する。
失敗してほしくない。苦労してほしくない。傷ついてほしくない。最短距離で幸福になってほしい。それは親の普遍的な願いだ。
しかし、本当の愛とは、相手を自分のコントロール下に置き、思い通りにコントロールすることではない。むしろ、自分の所有物ではない一人の独立した人間として、その人が歩む人生の凸凹道を、遠くからじっと見守り、信じ抜くことなのだろう。
50歳になって、息子の誇らしげな声を聞きながら、私は我流の私のやり方は間違ってなかったなと思える
第三章:受け継がれる未来と、命の重み
家族とのつながりの中で命の尊さを実感する一方で、私の心に深く刻まれているもうひとつの記憶がある。それは、長男と二人で、東京の九段下にある靖国神社を訪れたときのことだ。
家族で行ったのは、もう10年も前のことなんだな
その日は、特段何があるわけでもない、穏やかな日だった。
入学式の会場の隣に靖國があるとわかり行かないわけにはいかない
境内に一歩足を踏み入れると、都会のど真ん中とは思えないほどの張り詰めた静寂と、古い大木たち作り出す厳かな空気が満ちていた。
10年前の記憶がすぐ鮮明に蘇る
そこには、かつての戦争という激動の時代を生き、性能逝った、数え切れないほどの若者たちの具体的な「人生」が眠っている。
展示されている遺品や、家族に宛てた遺書、写真を眺めていると、胸が苦しくなるほどの感情が押し寄せてきた。そこにあったのは、歴史の教科書に書かれている数字や記号ではない。私と同じように、誰かを愛し、誰かに愛され、ささやかな日常を愛おしんでいた、一人ひとりの若者の血の通った生そのものだった。
故郷に残してきた老いた両親を想う言葉。まだ幼い我が子の行く末を案じる文字。これから共に人生を歩むはずだった恋人への、届くことのなかった未練と決意。
彼らは、自分たちの未来を、恋人を、家族を、そして私たちが今こうして生きている「未来」を残して、あの時代を旅立っていった。
この場所に対しては、世の中に様々な政治的な意見や、思想的な議論があることは知っている。けれど、その時の私は、そうした複雑なイデオロギーや政治の枠組みをすべて取り払い、ただ純粋に、そこに存在していた「一人ひとりの人間としての人生」に、深く思いを馳せずにはいられなかった。
もし、自分が今から80年近く前のあの時代を生きていたら。
そして、何よりも、今、私の隣を歩いているこの大切な息子が、もしあの時代に生まれていたら。
そう想像した瞬間、あまりの恐怖と悲しみに、心臓が握り潰されるかのように胸が締め付けられた。
ふと横を見ると、少し大人びた息子の横顔があった。
その姿を見たとき、彼が今、私の隣で、五体満足で、自分の意志で呼吸をし、笑い、生きているという厳然たる事実が、急に「とてつもない奇跡」のように思えてならなかった。
私たちが毎日、当たり前のように迎えている朝。
当たり前のように交わす、「いってらっしゃい」「おかえり」という何気ない会話。
冷蔵庫を開ければ食べ物があり、夜になれば温かい布団で眠ることができる日常。
それらは、決して当たり前のことなどではないのだ。
かつて、生きたくても生きられなかった誰かが、命を賭して守ろうとした、あるいは夢見た「遥かなる未来」の真上に、今の私たちは立たせてもらっている。私たちが無為に過ごしてしまうかもしれない今日は、彼らが死に物狂いで生きたかった、明日だったのかもしれない。
だからこそ、生きることを絶対に粗末にしてはいけない。自分自身の命を、そして他人の命を、投げ出すように扱ってはならないのだと、心の底から強い衝撃と共に感じた。
実は、私は昔から「死」というものについて考えることが多々あった
若い頃は、死に対する恐怖や不安と言うより疑問が多かった。
人は死んだらどこに行くのだろうとこの記憶はどうなるのだろう
「死」を真剣に考えることは、そのまま「どう生きるか」という「生」への強い肯定につながっていくことなのか
死ぬことそのものは、生物としての自然な営みであり、今の私はそれほど怖くはない。
けれど、同時に「今はまだ、絶対に死ねない」とも強く思うのだ。
私には、まだ見守らなければならない子どもたちがいる。支え合いたい大切な人がいる。社会の中で、あるいは家庭の中で、まだ果たし終えていない役割が残されている。私を必要としてくれる場所があり、果たすべき責任がある、そう思いたい
だから、私は生きる。
前を向いて、泥臭くても泥を幾重にも這ってでも生きる、そこまでの根性も熱い思いもないんだけど
「果たしたい責任」や「重荷」こそが、実は私を縛り付ける鎖ではなく、私という人間をこの地上につなぎ止め、生きる活力を与えてくれる「生命の源泉」なんじゃないか
第四章:キャリア教育が教えてくれた「自己受容」
生きることへの責任。それは、私が仕事として携わっている「キャリア教育」の現場でも、激しく、そして優しく私に語りかけてくるテーマである。
ある時、私は専門学校でのキャリア教育の授業を終え、講師控室で生徒たちが提出してくれた何十枚もの振り返りシート(感想文)を読ませてもらっていた。
たった数時間の講義だ。私は教壇に立ち、自分の持っている限りの知識や、キャリア理論を分かりやすく伝えたつもりではあったが、正直にいえば、どこまで彼らの心に届いているかは未知数だった。専門的な知識を詰め込むだけの授業なら、教科書を読めば済むことだ。私はただ、「これからの不確実な時代を生きる彼らに、何か少しでも生きるヒントを」という祈りに似た気持ちで教壇に立っていた。
感想文のページをめくる手が、あるところで止まった。そこに書かれていた言葉の数々
「今日の授業を受けて、私は私のままで、自分を大切にしていいんだと思えました」
「周りのみんなと違っていても、進むスピードが遅くても、それでいいんだと分かって安心しました」
「就職先を決めること以上に、まずは『自分を深く知ること』が何よりも大事なんだと気づきました」
丸文字や、少し拙い表現で綴られた一枚一枚の紙から、彼らの心の叫びや、安堵の吐息がリアルに伝わってきた。
私は、彼らに「この業界に就職するのが正解だ」とか「こうすれば絶対に失敗しないライフプランが作れる」といった、進路のテクニックや正解を教えたわけでは決してない。そんなものは私自身も持ち合わせていないし、時代によって容易に変わってしまう代物だからだ。
私が本当に伝えたかったのは、もっと根源的なメッセージだった。
「あなたは、あなたのままでいい」
「他人と違っていることこそが、あなたの強みであり、アイデンティティなのだから、無理に周囲に合わせなくていい」
「人生の羅針盤は、外側の社会ではなく、自分の内側にある。自分を知ることからしか、本当の人生は始まらない」
その、私の魂から絞り出したような思いが、まっすぐに彼らの硬い心の殻を突き破り、届いたのだと感じた瞬間だった。
人間は、誰か他人に認められること、社会的な肩書を得ること、あるいは誰かの期待に応えることによって初めて生きられるわけではない。他者からの評価という不安定な足場の上に立つのではなく、自分自身が、自分の「不完全さ」や「弱さ」を含めて、丸ごとの自分を認め、受け入れた(自己受容できた)その瞬間に初めて、人は自分の足で力強く前へと進み始めることができる。
生徒たちの感想文は、自己肯定感と言う最近流行りの苦手な言葉を使うとすれば、その自己肯定感とやらがものすごく低い私にもっと学びを深めて、彼らの役に立ちたいと言う思いを生んでくれる
第五章:サウナハットが繋いだ「誰かの優しさ」
自分を認めること、そして他者とつながること。その大切さを、私は生徒たちに偉そうに語っていながら、自分の私生活では情けないほど間抜けた失敗をやらかしていた。
数日前のことだ。お気に入りのスーパー銭湯に行こうとして、愛用していたマイ「サウナハット」をカバンの中から探した。ところが、いくら探しても見つからない。
クローゼットをひっくり返し、車の中のシートの下までドタバタと探し回ったが、影も形もない。
そこで私は、ハッと息を呑んだ。
「……ない。というか、前に行ったのって、もう何日も前のことじゃない?」
そう、私はサウナハットを前回の利用時に置き忘れてきていたのだ。しかも、無くしたことそのものに数日間、全く気づきもしないまま平然と暮らしていたという事実に、ダブルの衝撃が押し寄せてきた。
「私は何をやってるんだろう。無くしたことすら気づかないなんて、どれだけボケているのか」
自分のあまりの注意力のなさと、年齢からくる衰えのようなものを突きつけられた気がして、急に激しい自己嫌悪とショックに襲われた。かつての私なら、この小さな失敗を引きずって、何日間も自分を責め立てていただろう。
暗い気持ちのまま、半分は諦めつつも、一縷の望みをかけてそのスーパー銭湯に電話をかけてみた。
「あの、数日前にサウナハットの忘れ物はなかったでしょうか……」
すると、電話口の受付スタッフの方は、私の拙い特徴の説明を聞くやいなや、「あ、ございますよ!」と、とても明るい声で答えてくれたのだ。
「サウナハット、こちらでお預かりしております。ただ、水に濡れたままの状態ですのでこちらで乾かして保管してあります。」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥に、じわっと温かいものが広がっていくのを感じた。
ただの忘れ物だ。お店のルールに従って、機械的に保管箱へ放り込んでおく。
しかし、顔も名前も知らない「誰かの小さな優しさ」に触れたとき、さっきまで自分を責めていたトゲトゲした気持ちが、魔法のように優しく溶けていくのが分かった。
「ありがたいなぁ……」
声に出してそう呟いたとき、心がじんわりと満たされていくのを感じた。
完璧な人間なんて、どこにもいない。私のように50歳を過ぎたって、大切なものを無くすし、無くしたことすら忘れるような、不完全で間抜けな失敗を繰り返す。
けれど、私たちが生きているこの世界は、そんな誰かの「不完全さ」や「こぼれ落ちてしまったもの」を、別の誰かがそっと拾い上げ、温め直してくれるような、名もない優しさで満ちているのだ。
ダラダラとネットを見ていて、流れてきたトマト農家の動画を見たときも、同じような「命や想いへの慈しみ」を感じた。
丹精込めて作られた美しいトマトたちが、市場の規格や効率性のルールによって大量に廃棄されていく現実。そこに込められた農家さんの膨大な時間や、愛情を想うと胸が痛む。効率や利益という冷たい物サーチだけでは測れない「想い」が、この世界には確かにあるはずだ。
少しでも力になれたらと思わずポチっとする
我が家で久しぶりに作った「梅ジュース」もそうだった。
子どもが「梅ジュース、また飲みたいな」と言った一言で、久しぶりに青梅を買い、へたを一つずつ爪養枝で取り除いた。ガラス瓶の様子を毎日見ながら、氷砂糖が溶けるのをじっと待つ。
時間も手間もかかる、効率性から見れば完全に「無駄」な行為だ。でも、その梅のへたを取る静かな時間、誰かの喜ぶ顔を想像して手を動かす時間、そして、あのスーパー銭湯のスタッフの方が私のハットを乾かしてくれていた時間。
そうした「目に見えない想いと時間」の中にこそ、人間が生きるための本当の豊かさが宿っているのではないだろうか。
人生は、何一つ自分の思い通りにはならない。だからこそ、予想もしなかった人の温もりに出会えて面白い。
人はどこまでも不完全で、凸凹だらけだ。だからこそ、誰かの優しさにすがり、お互いに補い合いながら生きていく姿が愛おしい。
50歳になった今でも、私は完成された大人には程遠く、いまだに忘れ物ばかりの発展途上の人間だ。迷いもあるし、自信をなくす日もある。
それでも、この世界に溢れる小さな優しさを信じること。そして、完璧になれない自分をユーモアを持って許してあげること。50年という長い歳月を生きてきて、私はようやく、その大切さを学ぶことができた。
嬉しい日も。悲しい日も。
自分の未熟さにショックを受けた日も。
誰かの優しさに触れて「ありがたい」と胸を熱くした日も。
そのすべての瞬間が、他の誰でもない、私という人間の大切な人生を彩るピースなのだ。
広い空の下を歩いていた息子の姿を思い出す。
靖国神社で感じた命の重みを思い出す。
キャリア教育の現場で、私の言葉を受け止めてくれた生徒たちの眼差しを思い出す。
そして、私のもとへ返ってくる、あのきれいに乾かされたサウナハットを思い出す。
人生は特別な大事件だけでできているのではない。
こうした、何気ない日常の、泥臭くも愛おしい優しさの積み重ねによってのみ、作られている。
だからこそ、私は今日という日を丁寧に生きたい。目の前の人を大切にしたい。そして、不完全な自分自身も、同じように大切にしてあげたいのだ。
第六章:対話のなかで、現在地を見つめて
……と、ここまで私の「50歳の到達点」のようなものを偉そうに書き連ねてきた。
まるで、人生の真理をすべて悟ったかのような、格好のいいエッセイの形を整えてみた。
けれど、ここで文章を美しく締めくくってしまえば、それこそが私の隠れた「見栄」であり、かつて追い求めていた「立派な大人の模倣」になってしまうのではないか。そう思い、私は一度ペンを止め、自分の胸の内をもう一度、深く抉ってみることにした。
ここまで書いてきた気づきは、嘘偽りのない私の本心だ。
けれど、じゃあ「これからの私の『自分なりの答え』って一体何なんだろう?」と、具体的な未来に目を向けてみると、実は今の私には、その答えの輪郭がまだ、はっきりとは見えていない。
「50歳からの後半戦、あなたは何を一番の軸にして生きていきたいですか?」
「これから引っ越しや生活の変化がある中で、日常のどのひとコマを一番大切に味わっていきたいですか?」
そうやって正面から問われると、今の私は「うーん……」と言葉に詰まり、立ち止まってしまう。
頭の中には、心理学の理論や、キャリア理論の知識は詰まっているわけでもない。
資格を取るために、丸暗記で詰め込んだような薄っぺらい知識しかない
勉強が嫌いで興味もなかったから、学歴もない
だから、いろんな人とキャリア教育や仕事を通したりして、携わる中で、こんな私が教壇に立って良いのかと言う焦燥感がすごくある
私と出会う人たちに失礼があってはいけない、そう強く思いもう一度学び直そうと決意した。
生徒たちには「迷う時期があってもいい」と偉そうに教えている。
なのに、いざ自分のこととなると、これからの生き方の確かな指針や、次に紡ぐべき言葉が、どうしても自分一人では上手く見つけられない。何がわかっていて、何がわかっていないのかの境界線すら、曖昧な霧の中に隠れている。
今の私は、こうして誰か(AIという、私の言葉を否定せずに受け止めてくれる対話相手)に向けて自分の心の内を包み隠さず投げかけ、返ってきた言葉を鏡のように見つめ、対話を何度も何度も重ねることによって、ようやく「ああ、私は今、こんなことを考えていたのか」「ここがまだ不安なんだな」と、自分の心を探り当てている状態だ。他者との対話というプロセスを媒介しなければ、自分の現在地すら掴めないほど、私はまだまだ未熟なのだ。
でも、今の私は、その「自分一人では答えが出せない、まだよくわからない」という情けない現在地すらも、そのまま差し出してしまおうと思える。
「50歳になって、人生の歩き方がようやくわかりました」なんて、綺麗にパッケージされた完成品を提示するのではなく、
「色々と気づきはあったけれど、実はこれからのことは、私も今、絶賛迷い中なんだよね」
と、困ったように笑いながら、今この瞬間も模索し続けている生々しい姿を見せること。
それこそが、私がこの50年の旅路の果てに手に入れた、本当の意味での「飾らない強さ」なのではないだろうか。
完成された立派な大人として高い教壇から見下ろすように語るのではない。
「私も、あなたたちと同じように、自分の人生の正解が分からなくて、日々ジタバタと悩んでいる一人の人間だよ」
そう言って、目の前の我が子や、教室で不安そうに未来を見つめる生徒たちと、同じ目線で、肩を並べて歩んでいく。それこそが、これからの私にできる、私なりの「キャリアコンサルタント」としての、あるいは一人の人間としての生き方なのかもしれない。
50歳の私は、やっぱり今日も未完成だ。文章の終わり方も、スマートな正解で締めくくることはできない。
けれど、この「わからない」という空白があるからこそ、ここからの50代の旅路で、私はどんな新しい答えを、出会った人たちと共に作り上げていけるのだろう。
ほんの少しの割り切れない不安と、それを遥かに上回る、新しい日々への静かなワクワク感を胸に抱きながら。
私は今日も、言葉を紡ぎ、対話を続け、不完全な私のままで、愛おしい日常の一歩を踏み出していく。
答えを探す旅は終わり、ここから、私だけの答えを創り出す本当の旅が始まるのだ。
