先生、愛って何ですか?
お急ぎの方は、以下の目次の「先生、愛って何ですか?」と「器が空っぽだとばれるとき」と「まとめ」から、どうぞ。
器が先、中身は後
言葉や言葉の綾や慣用句は器だとよく思います。器は器でも空っぽの器なのです。空っぽの器感は、特に文字に強いです。文字が物だからでしょう。
言(こと・言葉)は事(こと・出来事)だから、空っぽ感よりも、臨場感がまさっているのかもしれません。
・こと【言】(事と同源)
・こと【事】(もと「こと(言)」と同語)
言葉(音)が空っぽだと感じるのは、言葉を耳にした後です。その時には言葉は消えてもうないのですが、空っぽ感が特に強いのは残響や余韻が感じられない時です。言葉の命は余韻と記憶なのかもしれません。
・こと【言・辞・詞】(「こと(事)と同語源)
・こと【事・縡】(前項「こと(言)と同語源か)時間的事態一般を広く指す語。
ことはこと、事は言――。言葉が出来事だというのを視覚的に体感させようとしても、せいぜいこんなふうにしか書けません。そもそも、事・言を文字にするのは不可能なのです。
・もの【物】なんらかの形をそなえた物体一般をいう。
・こと【事・縡】時間的事態一般を広く指す語。
人のするわざ、行為。
事と言は時間的な経過をともなうからです。時間を空間(文字)に置き換えることはできません。描写するためには、語の数が圧倒的に足りなくて、追いつけないからです。空間的な処理である形・模様(文字)で、時間というもの(こと)を、指し示すのではなく、ほのめかしたり、におわせるしかないようです。
そして、10年が過ぎたーー。
「はあ?」ですよね。こんな子どもだましみたいな方法しかありません。これは描写ではなく説明と要約によって、時間の経過をにおわせているだけです。でも、他に方法がありますか? もしあったら、時間の処理と記述に常時頭を抱えている小説家や歴史学者に教えてあげてください。
*
・猫という物
・猫という言葉
・猫という文字
・愛という事
・愛という言葉
・愛という文字
・事物(もの・こと)
・言葉(音)
・文字(形)
母語の言葉と文字はどのように覚えていくのでしょう? 私の場合には、日本語です。
言葉(音)を先に覚えていて、学校に通うようになってから、音に文字(形・模様)を当てる(マッチングさせる)かたちで教わっていくようです。
言葉(音)と漢字(形)をイメージすると分かりやすいかもしれません。
・音に形を当てる、マッチングさせる
ひたすら、小学校に入って以来、何度も何度もなぞっていたという記憶があります。その記憶は、以下の漢文における「素読」の語義に近いものです。
そどく【素読】
文章の意味・内容の理解はさておいて、まず文字だけを音読すること。漢文学習の初歩とされた。そよみ。すよみ。「論語を素読する」
この漢文の「素読」の語義は、しれっとすごいことを言っています。語義で述べられているのは体系的なものを体感的に学ぶ術にほかなりません。
しかも単に体系的なものではないのです。本来つながりのないもの同士を、たくさんつないで体系化してあるだけです。
たまたま組み合わせたもの(偶然)を何度もくり返してなぞっていると、それが当然、自然、そして必然に感じられるようになります。
私が小学校に通うようになって最初に教わったのは、学校に上がるまえから覚えている音(言葉)を文字にマッチングさせることだったのですが、その身振りは上の「素読」の語義にそっくりでした。
*
・音に形を当てる(たまたまの組み合わせ)、別物である音と形マッチングさせる。
※「たまたまの組み合わせ」というのは、その組み合わせに必然性がないという意味です。音(音の連なり)と文字(文字の連なり・つづり)という組み合わせは、日本語以外の言語だと別の組み合わせになります。
・マッチングをなぞる、当然に自然に、ひいては必然に感じられるまで、なぞる。
・音・文字・事物の組み合わせのうち、音と文字の組み合わせの学習が最初に来て、それに対応する事物は後回しになる。
上の箇条書きを読んでいると、外国語の学習に似ています。特に「音と文字の組み合わせの学習が最初に来て、それに対応する事物は後回しになる。」という部分に、類似を感じます。
そう言えば、私は母語である日本語が外国語に感じられることが、しきりにあります。
*
国語の学習は、私が英語やフランス語を日本で学んだときと、どこかそっくりなのです。「どこかそっくり」とは変な言い方ではありますが、そんな感じがします。
それはさておき、英語やフランス語が話されていない環境で、私は英語とフランス語を学んでいたわけですが、学んでいる各単語が私の母語である日本語のそれに相当すると言われている語とどこか違うという思いが心の隅に常にありました。
簡単に言うと、「love」という単語と「愛」という語は、ずれているのです(当り前と言えば当り前ですけど、私は当り前にこだわる人間です、ずれているからでしょう)。これは英和辞典と国語辞典でそれぞれの語義をくらべると分かります。
語義よりも例文を見ると、その違いがリアルに体感できます。「えっ、そんなふうにloveって使われているの?」という感じ。人生観が変わるかもしれませんよ。
*
漢文の素読も、古い中国語が話されていない環境で、その中国語の文字を学んでいたという意味では、事情が同じだと考えられます。文字に対応する事物は後回しだったのです。
現在の日本における英語やフランス語の学習と漢文の学習との違いは、後者の後回しは決して終わらないことでしょう。遠い過去の環境には戻れません。これは古典語の学習についてまわる宿命だと言えそうです。
*
「意味・内容の理解はさておいて」(「素読」の語義からの引用です)、まず音と文字の組み合わせだけをくり返し覚える。特に、お手本を見ながら漢字を何度もなぞって覚える。
これは、「空っぽの器を先に与えて、中身は後で……」という流れに見えます。「……」に何が起こるのかは、人それぞれなのです。
*
はじめに言葉と文字、ありき。はじめに器を教える。中身は後で人それぞれに、ご自由にどうぞ……。
だから、「愛とは何か?」、「真理とは何か?」、「猫って何だろう?」、「人間って何だろう?」、「知能とは?」、「人格とは?」、「時間は存在するのだろうか?」、「無は存在するのだろうか?」、「無意味ってなんぞや?(無意味の意味って何?)」、「空間が歪むとは?」という具合に、みんなが悩むのです。
愛という言葉と文字(空っぽのうつわ)は、のちのちお年頃になって、「愛とは何か?」とか「愛は存在するのか?」と口にしたり、文字にしたり、考えるために学ぶのです。といえば、分かりやすいかもしれません。
(拙文「世界は文字でできている(世界について・02)」より)
先に渡された器は空っぽだった
ここからは、思いつくままに書いていきます。
*話し言葉(音)、書き言葉(文字)、表情、身振り、しるし・記号・標識を、広い意味での言葉と考えた場合に、文字がいちばん遅れてやって来た。個人レベルでも、文字の習得がいちばん後になりがち。いちばん遅れてやって来る。
*言葉は、家や家の近所やテレビやネットで聞いてそれを真似て覚えるもの。文字は、後で学校でみんなといっしょに教わるもの――。ここでは単純に、そのように考えてみよう。
*みんなでいっしょに教わるのは、文字が「同じ」を基本とする複製だからにほかならない。たとえば、家や近所で方言が話されていても、学校では「同じ」文字を教わる。詳しく言うと、みんなでいっしょに共通語(国語)の言葉(音)と文字をセットで教わる。
※文字は複製であり引用。お手本があって、それを真似てなぞり、「同じ」になって、一列に並ぶことが文字の習得。まねる・真似る、まねぶ・まなぶ・学ぶ。ならう・倣う・習う。ならぶ・並ぶ・列ぶ・双ぶ。なれる・慣れる・馴れる・熟れる。ならす、平す、均す。漢字は感字。
*漢字は意味を目で感じる。意味を目で漢字る。かなは意味を音で奏でる。意味を音で仮名でる。
*はじめの頃の授業で中心となるのは文字の読み書き。お手本の文字の形をひたすら、なぞる。みんなと同じ形を書くことが、大切。どう読むか、つまり言葉(音)もまた文字(ひらがな)として教わる。
*どう読むかをしるす文字(ひらがな)の数は少ない。どう書くか(形と筆順)が問題の漢字がやたら多い。あまりにも多いから学年ごとに分けて教わる。それでも、あまる。ありあまる・有り余るとは、このこと。
*読み書きの授業でいちばん大切なことがある。文字は空っぽの器として教わる。器が先、中身は後――。
*文字、特に漢字を何と読むかも大切だけど、それはひらがなという文字で処理すれば事足りる。大切なのは、ありあまるほどある漢字と、その有り余るほどの組み合わせの漢字熟語の学習。
*各漢字や各漢字熟語の意味は、どうでもいい。ひらがなの表記から、漢字だけや漢字まじりの表記にできるようになることが先決(書き取り)。「それができれば、その逆も簡単にできるでしょ」という感じ。
*意味はどうでもいいということは、先に渡された器は空っぽだったことになる。
*中身がないままに、渡されつづける器。空っぽの器とは、早い話が文字、ぶっちゃけた話が漢字。中身を知らないままに渡された漢字と漢字熟語たち。辞書を引いても分からない。語義とにらめっこ。また辞書を引かなければならないこともある。
*たとえば、愛、真理、心理、真実、別の真実、事実、別の事実、正義、別の正義、悪、正解、別の正解、誤解、別の誤解、理解……。
*学校を出ても、中身がないままに、渡されつづける器。漢字はつづくよ、どこまでも。老人である私は、まだ漢字の学習を終了していない。漢字未了のまま、あの世へという感じ。
*覚えても忘れるのが漢字。覚えたのを忘れるのが漢字。忘れたのを忘れるのが漢字。せめて、忘れるのを忘れてほしい。
文字は空っぽの器
*文字は空っぽの器。器が先、中身は後。
*小学校に入って教わりはじめる漢字は、家や近所で言葉としてなんとなく耳にして、なんとなく自分でも口にしていた音が多い。その音に当てる漢字を少しずつ覚えていく。何度も何度もなぞって書いて覚えていく。その漢字に、別の読み方があることも、教わっていく。
*はじめの頃に教わる漢字と、なんとなく家や近所やテレビやネットで覚えていた音が「一致する」。つまり、「同じ」だと感じていく。文字と音は当てただけなのに、同じだ(合っている)と思っていく。
*別物同士を当てただけ・決めただけ ⇒ 同じ
偶然の組み合わせ ⇒ 当然・自然 ⇒ 必然
当てただけ ⇒ ぴったり合っている(大当たり)
*空っぽの器は、その形と模様が大切、なによりも外見(そとみ・がいけん・look(s))が大切。
*空っぽの器の中身はない。器を見て何かが入っていそうな気がするのは、人情というもの。箱を見ると何かが入っているだろうと期待するのと同じ。想像力は創造力。無は有。無から有が生じる。ほんまかいな?
*人は「ない・無」に「ある・有」を見てしまう。ついでに言うと、「でない」に「である」を、「である」に「でない」を見てしまうこともある。だから、人の世界には文字が「ある」。
*文字は空っぽの器。または、すかすかのざるかもしれない。掬えないから救われない。盛れないで漏れっぱなし。
*文字は「ない」を「ある」と錯覚してしまうという人の習性の産物なのかもしれない。
*猫では「ない」のに、猫には似てい「ない」のに、猫で「ある」とされる。これが文字の仕組み。
先生、愛って何ですか?
*学校教育では「器(文字)が先、中身(意味)は後」が原則。というか、器にはそもそも中身がない。だから、ああでもないこうでもない、ああだこうだが続く。
*「先生、愛って何ですか?」「愛ですか? そこにある児童用の国語辞典を引いてみましょう。辞書の引き方は覚えていますね? 「あい」だと最初のほうにあります。よかったね」
*「先生、愛って何ですか?」「愛ですか? 「〇〇〇」(アニメのタイトル)なんか見ると分かるかも。分かるというより感じるのよ。愛は感じるものなの、分かる?」
*「先生、愛って何ですか?」「愛? 愛ねえ。先生も知りたいなあ、きみと。あ、いまのは冗談。いま先生の言ったこと、家の人に言ったら駄目だよ――。愛については、そこにある国語辞典で調べなさい」
*「先生、愛って何ですか?」「愛かあ。そうですねえ……。ヘルマン・ヘッセの小説でも読んでみる? 武者小路実篤の小説でもいいかも」
*「先生、愛って何ですか?」「愛? そうだなあ……。何でも知っていたらしいゲーテなんか読んでみる? え、ゲーテは無理? じゃあ、ソクラテスはどう? ソクラテスを知らない? プラトンは知ってる?」
*「先生、愛って何ですか?」「あい? AIにはもう聞いてみた?」
*「星野金太郎飴さん、愛って何ですか?」「「愛」をキーワードにネットで検索するといいよ。画像検索なら、一目瞭然かも。私はですね、「愛はなんぞや?」みたいに考えることがないんですよ~。疑問に思う言葉や文字があったら、その用法を調べる、これがいちばん。そもそも……」「悪いけど、そろそろ……」
*器は外から眺めるしかない。各人が、人生のその時々において、中身を想像するべきものなのかもしれない。
*意味とは、各人がその時々に器を眺めながら思い浮かべたり思い描くものではないか。つまり、人それぞれ。だから、ああだこうだ、ああでもないこうでもないが続く。
*ひょっとすると、それが自由であり平和なのかも。意味が人それぞれでないのは、おそらく独裁国家。意味は国家(たった一人の指示で)が決める。だから、一人ひとりが言葉の使い方にビクビクしている(そういう国家や社会がありますよね)。⇒「迷う権利(線状について・03)」(このアカウントを開設した初期の記事なのでアクセス数は少ないですが、愛着のある文章です)
*愛も正義も平和も悪も真実も英雄も非国民も、たった一人、または党が、その都度(ころころ変わるという意味です)定義する。そんな国家や社会なんて、真っ平ごめん。ああでもないこうでもない、ああだこうだ、でいい。贅沢は言わない。
*だから、器が先、中身は後。この学習法は、実にうまくできている。理にかなっていると言えるかもしれない。
器が空っぽだとばれるとき
器(文字)が先、中身(意味)は後――。確かに、この学習法はうまくできていますが、その付けが回ってくることを忘れてはなりません。
回ってくる付けの一つは、「〇〇って何?」という意味の疑問と質問が絶えないことです(自由で平和な社会だという証拠だと私は考えています)。
これは文字は空っぽの器であることが、ばれているからだと言えます。でも、半分だけ。半分はばれていても、半分はばれていないのです(後で説明します)。
人が「〇〇って何?」と口にするときには、文字(実は言葉もそうです)が空っぽの器であることを思い出したから、そう口にしているのです。
*
誰もが、「愛」という文字は愛というものではないことくらい、知っているし分かっているのです(文字が空っぽの器なのは半分はばれているのです、でもすぐに忘れます)。
それでも、「愛」という文字は、愛というものを思い浮かべたり(受け身的に)、思い描いたり(積極的に)しないことには読めません。
「愛」という文字そのもの(点と線からなる形と模様)を眺めていると、愛というものを思い描いたり思い浮かべられないのです。実際に試して見ると体験できるかもしれません。
愛は抽象的なもの(こと)ですから、猫で試してみてください。
*
本題に入ります。ここからが、この記事でいちばん言いたいことです。
「愛」という文字が愛というものではないことを思い出し、「愛」という文字が空っぽの器だと気づく。すると、愛というものが分からなくなってきます。
・身近な「愛」が遠い愛になっていく。
・目に見える「愛」が目に見えない愛へと変わる。
・文字 ⇒ 「何か」
目に見える「愛」という文字は、文字として紙面に自由に書ける「愛」は、身近であり、ちょろいものなのです。何度目にしたか、何度耳にしたか、何度この手で書いたことか。
それがわけの分からない「何か」に変わる。
そのとき、口にされるのが、たとえば
・先生、愛って何ですか?(質問)
とか
・愛って何だろう?(自問)
なのです。
「何か」は「何」という言葉で尋ねたり、自問するしかないじゃないですか? 「何か」は実体のない言葉であり文字なのです。指し示すものが「ない」のですから。
*
だから(つまり)、
・愛 ⇒ 何
・知っている ⇒ 知らない
・分かっている ⇒ 分からない
になるのです。
だいたいのイメージを、つかんでいただけましたでしょうか?
先生、猫って何ですか?
・猫って何ですか?(質問)
・猫って何だろう?(自問)
上の言葉が、なにか現実味に欠けるとすれば、こと(事・出来事・行為)である愛と違って、猫がもの(物・生き物・人物)だからでしょう。
物が何かについてはそれを調べる方法が確立しているので、誰かに質問したかったり、疑問に思うのであれば、自分で調べればいいのです。辞典、事典、年鑑、ネット検索。
*
とはいえ、多種多様で無数の猫に「猫」という言葉と文字を当てて一本化するのが物の名前、つまり名詞です。
多種多様で無数の猫に、アニメや童話や寓話や小説や詩の中に出てくる猫が含まれていることは興味深い事実です。こうした現象は、神話や説話や伝説の延長上にあると考えられます。
架空の生きていない猫にも「猫」という言葉と文字が当てられているのは、擬人を基本とする呪術(生きていない物に魂を感じて、それに働きかけ働きかけられたと見なすやり取りの体系、おもちゃや人形やキャラクターとのやり取りが好例)の世界に、ヒトが太古以来一貫して生きているからだと私は考えています。
詳しくは、以下の拙文「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」をお読みください。
まとめ
何らかの出来事や行為をきっかけに、自明であるはずの「愛という言葉と文字」が不明になり、「愛という名で呼ばれる「何か」」に変わる時があります。
そのとき、人は「愛というもの(こと)」にいちばん接近しているのかもしれません。
◆付録
そのときです。先生が言いました。
「恵(めぐみ)あいさんと、相田愛(あいだめぐむ)さんって、何となく似ていない?」
二人の名前は、先生の持っている名簿では離れています。愛さんの名前は、最初に呼ばれました。あいちゃんの名前が呼ばれたのは、だいぶたってからです。それなのに、「何となく似ている」と先生が言ったことが、あいちゃんには不思議でたまりませんでした。
どうして?
とつぜん、ぱらぱらと大粒の雨が降ってきました。あいちゃんは、スピードをあげます。道路がぬれて、だんだん黒くなってきます。コツコツという靴の鳴る音も、湿ってきました。
そのうち、なぜ自分が走っているのか、どこへむかっているのかが、わからなくなってきました。走りながら、声に出して言いました。
どうして?
