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似ている、そっくり、同じ(世界は言葉でできている)

「似ている、そっくり、同じ」の続きです。

 お急ぎの方は、目次の最後にある「「同じ」を学ぶ、「同じ」に慣れる、「同じ」に成る」からお読みください。


世界は言葉の綾でできている


 今回の記事のタイトルですが、当初は「似ている、そっくり、同じ(世界は言葉の綾でできている)」にするつもりだったのです。

 私は「言葉の綾」という言葉が好きでよくつかうのですが、辞書で語義を確かめたところ、自分の語感と隔たりがあることに気づいたので、「言葉の綾」の代わりに「言葉」としました。

 私のなかでは両者はほぼ同じなので、これでいくことになったという次第です。

 世界は言葉遣いからなる――。世界のあらゆる現象は言葉の慣用でしかない――。
 世界は言葉の綾からなる――。世界のあらゆる現象は言葉の綾でしか記述できない――。
(拙文「言葉は「出る」、文字は「現れる」」より)

 ついでに言いますと、大きな声では言えませんが(そうなら太文字にするな、ですよね)、私のなかでは「言葉の綾」と「言葉遣い」と「言葉の慣用」と「決まり文句」と「紋切り型」と「記述=既述=奇術=詭術」と「言葉」とはほぼ同義です。

 語感の話です。

「似ている」かどうかは、語感と同じで他人との互換性はありません。語感五感には互換性がない。人それぞれなのです。(※いまの駄洒落をこれまでに何度記事でつかったことか……。私の記事は金太郎飴。どこで切ってもほぼ同じ。)
(拙文「似ている、そっくり、同じ」より)

 というわけですので、この記事はマイペースに書いていきます。

     *

 本題に入ります。

「似ている」、「そっくり」、「同じ」はかなり適当につかわれているようです。

「いい加減に」という言い回しと同じくらい「適当に」つかわれているのです。

・てきとう【適当】
 ②その場に合わせて要領よくやること。いい加減。
 例文「適当にあしらう」
・いいかげん【いい加減】
 ①よい程あい。適当。ほどほど。
 例文「いい加減に焼きあがる」「冗談もいい加減にしろ」

広辞苑より

 適当ににあしらわれた気分です。冗談もいい加減にしろと言いたくなります。

 小学生のときに、辞書でカレーライスを引いてライスカレーが出てきたときの「あしらわれた」感を思いだしました。

・あしらう(アヘシラフ・アヒシラフの約)
 ①あつかう。応対する。もてなす。転じて、いい加減にあつかったり、応対したりする。
 例文「鼻の先であしらう」

広辞苑

 面白いです。最近は、小説を読むよりも辞書を読んでいるほうがずっと楽しいし、ためになります(だめにもなりそう)。

「世界は言葉でできている」と感じるな、と言われても私には無理です。誰も言いませんが。

     *

 ところで、「あしらう」の語源の記述にある「アヘシラフ・アヒシラフ」が気に入りました。シラフで素面を連想するな、と言われても私には無理です。駄洒落も浮んできますが、ぐっとこらえます。

 ちなみに、私はこの記事を素面で書いています。痛み止めに普段よりやや強めのお薬を服用してはいますけど(「やっぱりね」なんて、そこで頷かないでくださいね)。

「似ている」語法


 言葉の用法とか慣用は、例文で見るのがいちばん分かりやすいと思います。

・あなたたちはきょうだいだから、やっぱり似ているね。

 こういう意味のセリフを、テレビドラマや、映画や、病院の待ち合い室でのリアルな会話で聞いたことがあります。

 言われた側はどう感じるのでしょうか? 「似ているね」が「そっくり」とか「同じ」だったら、どうなのでしょうか?

 私はひとりっ子だったので、想像するしかないのですが、あまりいい気分ではないのではないか、と思います。

 よほど、きょうだい間の仲がいいとか、お兄ちゃんを尊敬しまくっている弟さん(または弟がかわいくてたまらない兄)なら別でしょうが。

     *

 そう言えば、きょうだいではなくご夫婦の話ですけど、「似た者夫婦」と言われるのが大嫌いだとおっしゃる女性がいました。

 端から見ると仲のいいご夫婦なのです。ちょっとした話の途中にその女性が語気を強めてそう言われたので、たいそう驚いたことを覚えています。

 結婚の経験のない私は、深く頷くわけにもいかず、そんなものなのかなあと思いながら聞いていました。

 要するに「夫婦だからといって、一緒にしないでほしい」――そんな話でした。

     *

「似ている」と一言で決めつけるところに問題があるのではないでしょうか。

・AはBとCが似ている。
・AとBはCが似ている。

 このように、Cをはっきりさせるべきだと私は考えています。

 Cをはっきりさせれば、Cという「似ている」が人のある一面だけを指しての印象であることが分かるでしょう。あとで述べますが「同じ」は必ずしも印象ではありません(共有されている知識なのです)。

 漠然と「似ている」の一言で人をくくるのは正確ではないし、ある意味、決めつけにつながるのではないかとさえ思うのです。

 言葉遣い、つまり言葉の使い方を少し変えるだけで、物の考え方や感じ方が変わると信じています。大げさに言うなら、価値観や人生観まで変わる気がします。

 世界は言葉遣いでできている。言葉の使い方を変えれば、少しは変わるかも。

「そっくり」語法


 今度は自分の書いた文章から例を取ります。

 ニワトリやサンマの顔が見分けられますか? 私にはそっくりに見えます。無関心だからでしょう。そうでないと生きていけません。
 だから食します。ただし、いただく前に手を合わせます。
(拙文「やさしい線、あいまいな境」より)

 自分の文章を例に取るのは、一種のやらせになって恐縮なのですが、どうしても言いたいことがあるので、ご容赦願います。

     *

 ニワトリやサンマをペットに飼っている人であれば、別のニワトリとサンマであったとしても、食すのに抵抗を覚えるのではないか。そんなふうに私は想像します。

 似ている < そっくり < 同じ < 同一

 上の図式は前回の「似ている、そっくり、同じ」で紹介したものですが、「そっくり」というのは、「似ている」よりも「同じ」に近いのです。

 あとでお話ししますが、「同じ」というのは、ある意味恐ろしいところがあります。

 AとBが「そっくり」であるという感覚は、AとBの個性を無視していなければ出てこない感覚なのです。

 食用に飼育されている動物たち、食用に栽培されている植物たち、スーパーで食材として並んでいる魚や貝や野菜や果物たちがそっくりに見えるとするなら、それらに個性を見ていないからではないでしょうか。

(別にお説教をしているわけではありません(私にはひとさまを説教する資格なんてありません)。真剣に話していますので、どうか真意をご理解ください。)

     *

 飛躍しますが、数字もそうではないでしょうか?
 抽象的なものは、人の目には似ていたり、そっくりだったりします。だから簡単に複製ができるし、数字として簡単に処理も処分も廃棄もできます。何をって、人を、人がです。
 ○○者数、○○名・人。
 人は抽象に愛着や愛情を感じることはありません。抽象が具体化して初めて、愛だけでなく悲しみや憎悪の対象になります。
 個性が消えているからかもしれません。顔が見えないのです。顔が見えないものや顔が感じられないものに対して、人は冷淡で残酷になります。無関心にもなります。
(拙文「やさしい線、あいまいな境」より)

     *

 不揃いな野菜って値段が安いし、美味しさに変わりはないし、個性が感じられて愛おしいではありませんか。感謝して食しましょうよ。

 そっくりな栗にも違った虫食いのあと

「同じ」語法


 はっきり言って私は「同じ」という言葉が苦手です。

 全面的に否定する気はさらさらありません。普段の生活で「同じ」と言いますし、noteの記事でもよくつかいます。

 それはそうなのですけど、「同じ」という言葉が悪用される場合があることを忘れてはならないと思います。

 まず例文です。

・ほら、私たちは同じ○○なのだから――。

 上の例文は途中で終わっています。

 そのあとにどんなフレーズが来るでしょう?

・ほら、私たちは同じ○○なのだから――、……するべきじゃない?
ほら、私たちは同じ○○なのだから――、……しましょうよ。
ほら、私たちは同じ○○なのだから――、……なのは(○○するのは)当然でしょ?
ほら、私たちは同じ○○なのだから――、……しないと駄目。
ほら、私たちは同じ○○なのだから――、……しなさい。

 なんだか、恐ろしくないですか? きな臭かったりしないでしょうか。魂胆を感じませんか? 集団の論理とか、集団の意思や意志や意地を感じませんか?

 ちなみに、私は路傍の石にも意思や意志や意地を感じることがあります。宿っている魂のことです。

     *

 極端な例を挙げます。

私たちは同じ○○なのだから――、みんなのために……に行きなさい。

 ちょっと待ってよ、いったい、どこに行かせるつもり? ところで、そう言っているあなたとご家族は、どこにいるつもりなの?

     *

「同じ○○」の「○○」には何が入るのでしょう?

 あえて明記しませんが、集団関連の属性だったり、共同体にまつわる役割だったり、組織に付き物の立場だったりすることが多いと思います。

 家族、パートナー関係、学校、職場・職業、地域、宗教、文化、方言・言語、病気、性別・性差、年齢・年代、信条、政治、サークル、仲間、いわゆる界隈……。いろいろありますね。

「同じ○○」というのは、人の集まりに関して言われる「レッテル」なのです。決まり文句、紋切り型、慣用句、言葉の綾だとも言えます。

     *

 私たちは同じ○○です――。

 私の乏しい経験からの感想ですが、人は何らかの思惑なしにわざわざ「私たちは「同じ」○○です」という語法をつかわないようです。必ず、それに続いて「だから……」と来ます。

     *

 集団とは二人以上です。

 一人だけで「同じ」なんてありえません。必ず、誰かとくらべたり、関連付けているのです。

 人が二人が集まれば、そこには「似ている」と「そっくり」と「同じ」が生まれると言っても過言ではないでしょう。

     *

 人における「同じ」とは、ある一面であるはずです。役割だったり、立場だったり、一つの属性や一時的な状態だったりするはずです。たくさんある「私は○○です」のうちの一つにすぎないとも言えるでしょう。

 そのたった一つのもので、「同じ」なんて決めつけたり、「同じ」あるいは「同じ○○」という言葉をつかって、人をくくっていいのでしょうか?

 私は嫌です。

私たちは同じではなくて似ている


 私たちは、誰かとあるいは何かと、似ているところがあったり、そっくりなところがあったり、同じところがあります。

 でも、そういうくくり方に抵抗や嫌悪、場合によっては憎悪を感じる人もいます。

 私はといえば、私たちはひとりひとりが同じではなくて似ている、つまり違っていると思っています。

 これは私の思いですから、誰かに同じことを思ってほしいとは思いません。人それぞれです。

     *

 ちょっとかたい話になりましたので、赤ちゃんの話をしましょう。

三つの「同じ」(言葉・文字・事物)を真似て学ぶ


 私は赤ちゃんを見るのが大好きです。私は結婚をしたこともなく、子を持った経験もないのですが、病院の総合ロビーなんかで赤ちゃんを見かけると、距離を置いて観察しています。

 似ている、そっくり、同じ――こうしたことを考えるさいには、頭のどこかに赤ちゃんを見たときの記憶がちらつきます。

     *

 私のいだいている勝手なイメージですが、人間は基本的に「似ている」を基本とした印象の世界にいます。

 一方の「同じ」とは知識です。人は「同じ」かどうかを自力では判断できないので――道具や器械や機械やシステムという広義の「はかり」に「はかってもらう」必要があるからです――、誰かに「同じ」を教わらなければなりません。

 いま述べたことは、「「同じ」を教える、「同じ」を教わる(言葉の中の言葉・03)」でかなり詳しく書きましたので、興味のある方はお読みください。

     *

 赤ちゃんは、「似ている」の世界にいて、言葉を学ぶことで同時に「同じ」を学んでいきます。

「同時に」というのは、言葉とは「同じ」を基本にしているからにほかなりません。

「猫」という言葉(文字)は、人にとっての多種多様な「猫」たち(生き物である多種多様な「猫」たちだけでなく、神話や説話や童話やゲームに登場する架空の多種多様な「猫」たちも含みます)すべてに、たった一つの、つまり「同じ」言葉(文字)である「猫」を当てた結果なのです。

 いま述べたことは、グーグルで「猫」をキーワードに画像検索するのがいちばん体感しやすいと思います。

 画像検索をすると、「猫」というたった一つの、つまり「同じ」(「同一」と言ってもいいでしょう)言葉と文字に当てられている、数知れない多種多様な「猫」たちの画像がつぎつぎと出てきます。

 この辺については、以下の記事で詳しくお話ししています。

 そのすべてが人(ヒトというべきでしょう)にとっての「猫」なのですが、そのことが一目瞭然に分かります。

「猫」という一語で検索した結果ですから「猫」なのです。みんなが「猫」と呼んでいるし、文字で書いてもいるという意味での「猫」です。

 それを「猫」ではないと言うなら、「猫」(catでもchat・chatteでもかまいせん)という言葉と文字をつかっている人たちに楯突く――敵に回すとまでは言いませんけど(書きましたけど)――ことになります。

 冗談はさておき、赤ちゃんは画像検索はできませんが、たとえば「にゃあにゃあ」、「にゃあんこ」、「ねこちゃん」という音の連なりが、たくさんの「にゃあにゃあ」、「にゃあんこ」、「ねこちゃん」を束ねる「言葉」であることを、次第に学んでいきます。

 言葉(話し言葉)とは、いくつかのバリエーションがあっても「同じ」音の連なりだからです。

 赤ちゃんにとって、猫を意味するいくつかの音の連なりのバリエーションは、猫というものについての知識(猫という「くくり=線引き=分類」)であると同時に、猫というものを意味する言葉なのです。この段階ではまだ文字は学んでいません。

「猫」というもの(事物・線引き・分類・知識)
「猫」というものを意味する音の連なり(話し言葉
「猫」というものを意味する音の連なりと連繋して存在する点と線からなる模様(文字)(※赤ちゃんにとっては未習)

 このようにして赤ちゃんは「同じ」(同じ「もの」と同じ「ことば」)を学びます。その学ぶの前の段階が「まねる・真似る」なのです。

 まねる・真似る・まねぶ・まなぶ・学ぶ

     *

 ここまでをまとめると、以下のようになります。ただし、いったん、赤ちゃんの話から離れます。

・「似ている」:五感による印象。個人的なもの。ある意味、自己完結している。
・「同じ」:人が「はかり」の力を借りて「はかった」知識。「同じ」動作、「同じ」音の連なりである言葉(音声)、「同じ」点と線の模様である文字を通じて、真似る=学ぶ=教わる。共有される。空間的に伝達され、時間的に伝承される。

「似ている」(個人的な印象)と異なり、「同じ」とは知識ですから、真似る=学ぶ=教わる必要があります。

     *

 このようにして、言葉と文字と事物は「同じ」の「三位一体」として、人びとのあいだで共有され、伝わっていきます。

「同じ」の「三位一体」(言葉・文字・事物)については、いつか別の記事で書くつもりです。

 簡単に言うと、

1)猫という音、
2)猫という文字、
3)猫という物、

これら三者を一致させる(「同じ」と見なして教える)体系=制度=習慣です。

 現在では、学校教育という場で、組織的かつ体系的かつ効率的に学習=教育されています。

     *

 赤ちゃんにとっての「似ている、そっくり、同じ」の話に戻ります。「似ている」と「同じ」については、以上述べたとおりです。

「そっくり」については、おそらく赤ちゃんは鏡と出会ったときに体験するのではないかと想像しています。

「そっくり」というのは、そして鏡の不思議さ、不可解さ、不気味さについては、人は解決できない「もやもや」(謎みたいな「何か」)として死ぬまでかかえていくのではないか。そんなふうに私は勝手にイメージしています。

「そっくり」に関する限り、赤ちゃんを卒業した人はいないだろうと私は考えています。というか、いかなる意味でも赤ちゃんを卒業した人などいないと思っていますけど、このことについては、今回は深い入りするつもりはありません。

「そっくり」については、これからも記事として書いていきたいです。私にとってはとても気になるテーマなのです。 

「同じ」を学ぶ、「同じ」に慣れる、「同じ」に成る


 では、全体をまとめます。

     *

 世界は言葉でできている。

 世界は「同じ」言葉でできている。

 世界は「同じ」でできている。

 もちろん、人(ヒト)の世界の話です。きわめてローカルな――ヒトという界隈(っこ)だけの――話なのです。

     *

*「同じ」をぶ。う。学習する。
・まねる・真似る・まねぶ・まなぶ・
・ならう・う・慣う・馴う・倣う・学習・模倣

*「同じ」に慣れる。習う。
うは、均す、平す、馴らす、らす。
うは、れる、馴れる。

*「同じ」になる。成熟する。
・なる・る・為る・生る
・なる・慣る・馴る・狎る・

     *

 ヒトは「同じ」を学び、「同じ」に慣れて、「同じ」になりながら、人になっていくのかもしれません。

 まねる・まなぶ、ならう・なれる、なる。

 生きている「猫」も、辞典や事典で定義されている「猫」も、神話や童話や絵本や小説の「猫」も、写真やイラストや各種画像の「猫」も、ぬいぐるみやおもちゃの「猫」も、アニメやゲームの「猫」も、ぜんぶ同じ(たった一つの)「猫」という言葉と文字で束ねられ括られる世界

 赤ちゃんは、学校教育を受ける前から、その世界に染まっていきます。組み込まれていきます。なっていきます。

 言葉でできた世界。「同じ」の世界。

 多種多様な事物に囲まれた人の世界は、「同じ」を基本原理とする言葉(音声)と文字によって一本化され、束ねられているようです。

「同じ」の世界に住みながらも、人は「似ている」の世界にもいるのであり、自分のなかにある赤ちゃんを引きずりつつ、「そっくり」に戸惑いつづけながら生きている。そんな気がします。

     *

 以上、私のいだいている勝手なイメージの話に、ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

(つづく)

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