見出し画像

事を物に置き換える

 私は猫です。

 このように口にする場合と、文字にする場合をくらべてみましょう。


こと・事


 私は猫です。

 こう口にする場合には、音声としての言葉を発するわけですから、始まりと途中と終わりがあります。

 この場合の始まりと途中と終わりは、時間の経過となって立ち現れると言えるでしょう。

 ただし、音声ですから、発せられたとたんにつぎつぎと消えていきます。なくなるのです。

 出来事だからにほかなりません。出来事は文字通り、事なのです。

 始まりと途中と終わりがある事。

こと・事・言


 手もとの辞書(広辞苑)を引くと、「こと【言】(事と同源)」、「こと【事】(もと「こと(事)」と同語)」、という記述があります。

 言われてみれば、そうです。音声としての言葉も出来事には違いありません。

 出来事という意味の事は、目の前で起きながらも、片っ端から消えていきますが、言にすれば、これも口にしたとたん、片っ端から消えていくものの、他人に伝えられます。

 事は言にしてなんぼ、という感じでしょうか。

     *

 こと・事・言
 こと・こと・こと

 事が言であった時代があったのかもしれません。

 事と言というふうに書き分けることを学んだ私たちは、そうした時代(ももそんな時代があったならの話ですが)にはもどれません。

 もどれない以上、「事が言である」を体感としてではなく、知識として知るしかないのかもしれません。

もの・物


 私は猫です。

 こう文字にする場合にも、始まりと途中と終わりがあります。書き始める、書いている途中、書き終わるということです。時間の経過としての出来事であり事です。

 始まりと途中と終わりがある事。

 ただし、文字が残ります。文字列とか文(センテンス)と言ってもいいでしょう。文字列にも、始まりと途中と終わりがあります。

 文字列は、線状に文字が並んだ列です。線と言っても、たいていは直線です。

 長くなれば、切ります。行や句読点での区切りや空白での区切りのことです。あとページ割りも切ることにほかなりません。

 線や始まりと途中と終わりのあるもの(線状のもの)には収納法がありますが、切るか、折るか、曲げるか、巻くです。書物(紙を束ねて綴じる)や巻物(紙を巻く)をイメージしてください。そうやって線状の要素(断片)を「つなげる」のです。

 いずれにせよ、読むさいには、視線は文字を追いますから、線状に文字列を追うだろうと言えます。「追うだろう」なんて言い方をするのは、人は読みとばしたり、読むのを止めたりもするからです。

 話を簡単にするために、「私は猫です。」という文字列に限定します。

     *

 文字や文字列は紙に墨やインクが染みこんだ物・物質・物体としてあります。物ですから、移すことができます。写すこともできます。現在は映すのが主流になってきました。

 移す:持ち運ぶ、送る、運搬、飛脚、郵便、移動
 写す:筆写、書写、写本・写経、印刷、複写、ファクス
 映す:放送、ネットでの投稿・配信・拡散・複製・保存

 映すは、ネット上では投稿・配信・拡散・複製・保存というかたちで、ほぼ瞬時かつほぼ同時におこなわれるので、等号で結んでもよさそうです。

 映す:放送、ネットでの投稿=配信=拡散=複製=保存

 なお、この等号は数学とは無縁のいわばレトリックとしての処理です、念のため。 

事を物に置き換える


 ここまでをまとめると次のようになります。置き換えが起こっています。

 似ているけれど異質なもの、似ているけれどまったく別の物に置き換わっているのです。

 始まりと途中と終わりのある事 ⇒ 始まりと途中と終わりのある物 

 時間の経過としての始まりと途中と終わり ⇒ 直線状の文字列としての始まりと途中と終わり

 出来事 ⇒ 物質・物体
 事 ⇒ 物

 線 ⇒ 線
 時間の線(時系列) ⇒ 空間(平面)の線

 時間(消える) ⇒ 空間(平面)(残る)
 言葉(音声) ⇒ 文字(線からなる模様)

      *

 両者はまったく異質な別物なのです。それなのに似ていると考えられたり、同じと見なされます。

 置き換えというのは、えてしてそうしたものだと言えそうです。たとえば、地図、写真、撮影、録音、録画は、「そのもの」を「その代りのもの」に置き換えた結果としてあります。

 置き換えるには、二通りあるのではないでしょうか。

・見て、または聞いて似ているものを置き換えて、同じとみなす。
・見て、または聞いて似ていないものを置き換えて、同じとみなす。

 さらに言うなら、同じとみなすというのは、同一視するとも言えますが、同時に混同しているとも言える気がします。

・同じ、同一視、混同

 これは、言葉の綾とか、ニュアンスの違いとか、婉曲表現とか、語感の違い、配慮とかいう言葉で説明できるかもしれません。私にはどれも同じに感じられます。

似ているものどうし/似ていないものどうしを置き換える

 
 上で挙げた、地図、写真、撮影、録音、録画で考えてみると、どれもが見て、あるいは聞いて似ているという感じが大切なようです。

地図:現地と地図は別物。大切な要素が一対一的に対応しているために、似ているという感じがする。決定的に違うのは大きさ。地図は縮小したもの。複製と引用(部分的な複製)が可能。複製の複製と引用の引用は「同じ」とみなされるが、個人的には「同一」という言葉をつかうのにはためらいを覚える。デジタルとアナログの違いがあるもよう。

写真・撮影・録画:「映す・写す・撮影する」場合の被写体と、写真や映像や画像は別物。これにはレントゲンやMRIも含めてよさそう。大切な要素がほぼ一対一的に対応しているために、似ているどころか、同じ感が強い。人はこれを「同じ」と言っているにちがいない。ただし、「同一」ではない。大きさの違いも無視できない。複製と引用(部分的な複製)が可能。録画は複製と引用らしい。デジタルとアナログの違いがあるらしい。

録音:自然あるいは現実に発生する音声を録音する場合と、複製(ダビング)の二通りがありそう。大切な要素がほぼ一対一的に対応しているために、似ているどころか、同じ感が強い。人はこれを「同じ」と言っているにちがいない。ただし、「同一」ではない。大きさ(音量)の違いも無視できないが調節可能なのかもしれない。デジタルとアナログの違いがあるという話。

(※以上のどの置き換えの場合にも、加工、編集、付け足し、取捨選択が起きています。それよりも決定的に重要なのは、すり替えが起きていることです。別物へとすり替わっている、つまり構成する素材が別の素材に変わってしまっていることを忘れるわけにはいきません。

 わざわざそんなことをここで断るのは、置き換えた(すり替えた)のにもかかわらず、置き換える前と置き換えた後のものが「同じ」であるという思い込みがヒトには強くからにほかなりません。忘れているか気づかないか考えたことがないのです。そんなことを考えていては利用できないし楽しめないとも言えます。きっとそれがまっとうな見解なのでしょう。自分がずれている、つまりまっとうではないという自覚はあります。)

 以上は、素人である私が知っていることだけを直感を頼りに書いたものなので、伝聞感の強い記述になりました。

 伝聞感どころか、まさに伝聞による産物(作品)ですので、誤りも多いにちがいありません。申し訳ありません。

 なお、誤りのご指摘は不要ですので、どうかお構いなく。

書き取り、ディクテーション、ディクテ


 この記事の冒頭で書いたことを引用します。

 私は猫です。
 このように口にする場合と、文字にする場合をくらべてみましょう。

 これを、誰かが「私は猫です。」と口にしたのを、別の誰かが書き取って「私が猫です。」と文字にする場合で考えてみましょう。

 いわゆる、書き取りです。

 国語、つまり日本語では「書き取り」、英語だとディクテーション(dictation)、フランス語だとディクテ(dictée)と言います。

 書き取りも置き換えです。それはそうなのですが、日本語でいう書き取りと、英語やフランス語での書き取りとでは大きな違いがあります。

     *

 国語辞典では次の記述が見られます。

【かきとり・書取り】②読みあげられる語句・文章をそのまま文字に写し取ること。また、仮名(かな)で記したものを漢字に改めること。「漢字の書取り試験」
(「広辞苑」より)

 あっさりとした語義ですが、しれっと二つに分かれています。書き取りには、二通りあるのです。

 私にとってはその二つの違いは大きなものに感じられるので、ここで取りあげてみます。

     *

 かつてフランス語を学んでいた頃に苦労したのが書き取りでした。特にフランス人の先生の授業では、やたらと名文のたぐいを暗唱させるし、やたらと書き取りをするのです。

 音と文字の間を行き来させるわけです。音と文字の両方を徹底的に教えこもうという熱意が伝わってきました。

 で、フランス語の書き取りなのですが、日本語の書き取りと大きな違いがあります。

 日本語での書き取りでは、主にひらがなを漢字に「当てる」という形でおこなれていますが、フランス語の書き取りの場合には先生が音読して口から出す音を文字に「置き換える」のです。

 つまり、フランス語の書き取りでは、まさに、事・言を物に置き換えていると言えます。

 フランス語の字面を見ると、なにやら不規則なアルファベットの文字列に見えますが、厳格な綴りの法則があってそれを覚えると、ほぼ完璧に音から文字へと置き換えることができるのです。

     *

 まとめてみます。

・かな・仮名・仮字 ⇒ 漢字・真名・真字
 文字       ⇒ 文字
 物        ⇒ 物
 視覚       ⇒ 視覚
 
当てる(文字と文字という同質なもの同士)

・音・音声     ⇒ 文字
 聴覚       ⇒ 視覚
 出来事・事・言  ⇒ 物
 
置き換える(聴覚的な音声と視覚的な文字という異質なもの)

 上のように図式化すると、書き取りという行為における日本語の文字の体系とフランス語の文字の体系の違いが「見える化=視覚化」できると思います。「仮⇒真」という転じ方も興味深いです。

 両者の隔たりは大きいです。日本語を母語とする私が、たとえばジャック・デリダの文章が体感できないのはその隔たりがあるからではないかと考えています。ぴんと来ない話ばかりなのです。 

 話をもどします。

物を物に置き換える

 
 上の「似ているものどうし/似ていないものどうしを置き換える」という章で、実はズルをしました。

 これ以上踏みこむとややこしくなりそうだと考えて、やめたことがあるのです。

 似ているものどうし/似ていないものどうしを置き換える
 似ている物どうし/似ていない物どうしを置き換える

 つまり、ものというひらがなで表記することで、物というもの(もの・物なんて、ややこしい言い方、いや書き方でごめんなさい)を隠してしまったのです。

     *

 この記事のタイトルは「事を物に置き換える」ですが、そうした書き方をするのなら、次のようなことにこだわってもいいのではないでしょうか。

 事を物に置き換える
 物を事に置き換える
 事と事に置き換える
 物を物に置き換える

 図式化すると、以下のようになります。

 事 ⇒ 物
 物 ⇒ 事
 事 ⇒ 事
 物 ⇒ 物

 そのうち、いちばんなじみのありそうな置き換えは、「物を物に置き換える」、つまり「物 ⇒ 物」です。

 ほら、小学校の社会の授業で出てきそうな話ではないでしょうか。

 そうです、物々交換のことです。

 最も始原的な交換のことです。お金(いわゆる貨幣)とか、その前にあったらしい貝殻とか石とかよりずっと以前にあったらしい、物と物の交換の話です。

 大切なことは、物と物を交換しているように見えて、実は価値と価値を交換している点です。(たとえば、趣味としての物の収集とか、貝殻や石の収集とは話が違うし、コレクターどうしの交換とも次元が異なります。)

 なにしろ、この物どうしの交換が貨幣どうしの交換へと進化するのです。等価とみなしていると言えば、分かりやすいかもしれなせん。この価値は、後述する「振り」ではないかと私は感じています。

 それとは話が少し、いや、かなり、ずれますが、物を物に置き換える場合がいちばんなじみがあるというか、分かりやすい気がします。

     *

 地図、写真、撮影、録音、録画
 地図、写真・撮影・録画、録音

 上の場合に、物どうしの置き換えがあるような、そして、ないような気がするのです。ややこしいそうなのです。

 どういうことかと言いますと、人にとって事はあっても、物はないのではないかという強い思いがあるからにほかなりません。

 もう少し詳しく言うと、人は物(物そのもの)に出会うことはできなくて、物の演じる「振り」を目にしているのではないかと考えているのです。

 物にして 物に出会えず 物の振り

 物 ⇒ 物
 物の振り ⇒ 物の振り
 振り ⇒ 振り

 振りを振りに置き換えると言えば、文字(文字は物です)を連想しないではいられません。文字は線と点からなるかたちとして存在していますが、人が読むのは、点と線そのものではなく、点と線の振りだからです。

 この「振り」は、意味とかメッセージとかイメージとか価値と言い換えられるでしょう。

 大切なのは、振りは人が勝手に決めたものであり、人が勝手に読むものであることです。個々人によって決め方と読み方にばらつきがあることです。

 それなのに、人は振りに真理や事実や正しいや現実や善意を読み取ろうとします。各人がばらばらにです。

 そのために、真偽、正誤、正邪、虚実、善悪のさかいが不明に感じられるのかもしれません。この不明感(不透明感)が現在の世界では頂点に達しているかのようです。

 結果として、実にきな臭い状況に陥っているのはみなさんがご承知のとおりです。いつ火がついてもおかしくない。最後の大爆発へといたる火です。

     *

・目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
・目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

 上の場合が、文字を物の振りとして見ている、読んでいるです。下の場合が、文字を物として見ている、扱っているです。

 下の場合は不可能とも言える困難な試みであるだという気がします。文字とは、そもそも物として見るものではないからです。でも、見てしまう人がいます。

 上の場合は、文字のかなた(向こう)にあると人が想定している意味というまぼろし(人の頭の中しかないという意味です)にどっぷり浸かることですから、まぼろしを信じている限り安泰だと言えそうです。これが文字の「まっとうな」読み方と言えます。

     *

「振り」はこのところ、いわゆるマイブームみたいなもので、気になってならないのです。

 この「振り」というやつ、とりとめがなくて、実につかみどころがないのです。勝手に「振り」なんて言葉を自分語みたいにつかって、それが気になっているなんて、世話ない話ですけど。

 こんな個人的な話に付き合わせて、申し訳ありません。

     *

 私はnoteの記事を楽しむために書いているので、なるべくややこしい話は避けています。

 言い換えると、自分にとってわくわく、ぞくぞくする話だけ書いているのです。別に誰かに頼まれたわけでもなく、好きで書いているのです。

 多少、ややこしそうでも、わくわく感があれば、そのテーマについて考えて記事を書きます。

 そもそも体調がよくないのに、書いて楽しくもない記事など投稿する気にはなれません。

     *

 とはいうものの、何が自分にとって楽しいか、そして逆に苦痛であるかは、その日の体調や気分によって変化します。波があるのです。

 みなさんもそうではありませんか?

 そんなわけで、地図、写真・撮影・録画、録音については、今回はこれ以上深入りしないでおきます。

 気が向いたら、体調と相談して、書くかもしれません。

 ずいぶん適当なというか、いい加減な終わり方になりましたが、ご理解いただければうれしいです。しれっとズルをして終わらせたくはなかったのです。  

 物隠し ものと書いても ものは物

     *

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

#言葉 #文字 #振り