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客が客になるとき(「客」小説を求めて・02)

 日本文学で最もよく知られた「客」小説は、川端康成の『雪国』だと思います。

 ちょっと待って、ですよね。『雪国』はよく知られた小説であっても、みなさんにとって「客」小説は意味不明の言葉のはずです。

 試しに客小説をgoogleで検索すると、「客小説とは、客を題材にした小説です」とか「客小説という言葉はありません」とか「★この検索ではAIによる概要を表示できません」という、AIによるコメントらしきフレーズが表示されます。

 私が勝手につくった言葉ですから当然です。

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 本記事は、「「客」小説を求めて」という連載の二回目です。第一回目はかなり前に投稿したものなので、みなさんにはこの記事から読んでいただけるように、仕切り直して書いていきます。

 なお、上の記事は、「客小説」で検索するとヒットします。

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 本記事のタイトルは「客が客になるとき」ですが、このタイトルから説明していきます。

 辞書で調べると、「客」にはいろいろな語義があり、「客」という文字の入った語も複数あります。

 人間の多種多様なありようやありかたに、客というたった一つの文字と言葉が当てられているのです。

 言葉や文字というものは、複数や多数や無数であり多種多様でもある事物や事象とその一時的な属性やありようを一本化して固定するための工夫とも言えます。

 世界を単純で明快に見えるようにするためでしょう。事物や現象を言葉や文字に対応させるこの体系は驚くべき仕組みだと言わざるをえません。

 ただし単純で明快に見えるようにするためには、多くを捨て多くを見落とさなければらないことを忘れてはならないでしょう。

 客という多義的な言葉と文字は、言葉と文字のそうした興味深い働きを説明するために利用できるかもしれません。

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 世界

 宇宙

 ご覧ください。こんなに短くて小さくて軽くて薄くてすっきりしたもの(文字や言葉のことです)で代用しているのです(客なんてまだかわいいものです)。

 本気で驚いても罰は当たらないのではないでしょうか? 私なんか、目にするたびに腰を抜かしています。

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 半分冗談はさておき(半分は本気で言っています)、『雪国』の冒頭では汽車に乗った登場人物が出てきます。言い換えると乗客です。

 この乗客というのは、「なる」ものと言えます。生まれつきの乗客で最期まで乗客でいつづける人はいないという意味です。

 いや、場合によってはいるでしょう。乗り物に乗って生まれて、そのまま短い一生を終える人がいないとは言いきれません。

 今頭にあるのは、戦争や紛争の犠牲者である難民のことです。移動中のボートやトラックで生まれる赤ちゃんのことです。そんな話をテレビの報道や新聞で見聞きしたことがあります。

 心が痛みます。現在は、そうした不幸な事態や状況がこの国でもいつか起こらないとも限らない、きな臭い国際情勢にあるようです。

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 話を少しだけ変えます。

 過客という言葉がありますが、人を人生という旅をする旅人として考えると、人は誰でも常に客であると言えるのではないでしょうか。

 その意味での客が人生のさまざまな状況でさまざまな客になるというわけです。

 人は客であり、客になる――。

 過客である人は、人生の中でさまざまな客になります。乗客、観光客、宿泊客、観客、見舞客、外来患者という名の来客、入院患者という名の宿泊客、弔問客、賓客、食客、訪問客、来客、店や施設やサービスの顧客……。

 嫌な言い方ですが、教室や職場での「お客さん」というフレーズもあります。

 客とは、人間関係による立場から生じる一時的な属性や形態だとも言えるでしょう。その意味で、人はまさに過客です。常に移り変わる流動的な存在なのです。

 この連載では、客をそうした視点からとらえていきます。対象は小説です。

「客」小説を求めて。

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 では、この記事の冒頭の文にもどります。

 日本文学で最もよく知られた「客」小説は、川端康成の『雪国』だと思います。

 これまで『雪国』については何本も記事を書いていきました。のっけから乗客である登場人物が出てくる作品です。

 私の好きな言い方をすると、客になった客が冒頭に登場する「客」小説というわけです。

 上の川端康成関連のマガジンを見ると、この小説の出だしだけについて書いたものもあります。

 そんななかで、以下は私にとって愛着のある記事です。よろしければお読みください。一年前の寒い日に書いた文章です。

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『雪国』を、客をキーワードに概観してみましょう。

 まず『雪国』の視点的人物である島村は、汽車の乗客として登場します。同じ車両にいる娘(葉子)もそうです。

 例の汽車の窓ガラスに「うつる・うつす」は主体と客体という言葉で論じることができるでしょう。

 雪国の旅館で宿泊客として長期滞在している島村は駒子のでもあります。

 高等遊民的で浮世離れした島村をふくめて、この作品に登場する人物の誰もが、社会の端っこにいたり境目にいるという意味での「お客さん」だとこじつけることも可能でしょう。

 この連載では、『雪国』の冒頭の汽車の場面と、天の河と火事が出てくる最後の場面を「客」をキーワードに読んでみたいと考えています。

 たとえば、小説のラストでは、みんなして天の河をまるで天上に繰りひろげられる映画の観客(観る客)のように見つめ、みんなして火事になった繭倉の二階から落下する若い女性をこれまた観客のように目撃し、駒子と駒子のであり宿の長期宿泊客でもある島村がその観客たちにまじり、映画が上映されていた繭倉ではその土地の人たちが観客となって集まり、この最終章の最初では、ちぢみ(縮織)を身に付ける習慣のある(つまり縮を購入しそれを定期的にさらしてもらうサービスの顧客である)島村が汽車の乗客となって縮の里を観光客として訪ね歩くのです。

 産業としての縮織づくりの歴史と地理的な情勢が語られて記述されるために、来客観る客招かれた客とまる客だけでなく、金銭の介在する商業的な意味での顧客利用客(ユーザー)固定客(おとくい客)が目立つ章です。

 縮についての記述は、この小説では読みとばされがちな箇所だと思いますが、以下の記事ではレトリックを多用して詳しく触れています。興味のある方は、ぜひお読みください。

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 visitor、guest、customer、client、patron、sponsor、supporter、user、spectator、audience、tourist、passenger――これらの英語の単語は、どれもが文脈しだいで「客」と訳せるものです。『雪国』では、そのすべてが登場します。

 日本文学で最もよく知られた「客」小説は、川端康成の『雪国』であるだけでなく、「客」小説の見本と言うべきでしょう。

 長くなりそうなので体調を考慮し、今回はここまでにしておきます。

#読書感想文 #川端康成 #雪国 #小説  

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