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杳・縹緲・渺

 目次をご覧ください。興味のある見出しの章からお読みいただけます。


古井由吉著『漱石の漢詩を読む』


 古井由吉の『漱石の漢詩を読む』(岩波書店)を読んでいて、思わず声を上げたことがあります。差しかかった箇所に見えた文字を見て、驚いたのです。

 そこにその文字があるとはぜんぜん予期していなかったために、最初は目を疑いました。

 これは偶然なのか、必然なのか。たまたまその文字のある文が引用されたのか、それとも何らかの意図があっての引用だったのか――。

 今の思いは違います。偶然と必然、無作為と作為、そうした対立した思いを超えたところで、その引用が出来事として起きたのだろうという気がします。

 私が目にしたのは、「杳」という漢字なのです。

「終日杳相同」・「杳かに」


 古井由吉著『漱石の漢詩を読む』p.22の「透明な存在」という小見出しのある文章には、ある漢詩が引用されています。

 これは、吉川幸次郎著『漱石詩註』(岩波文庫)p.112によると、「無題 明治四十三年九月二十九日 無題」であり、「近体の五言絶句。日記では、その日に、一字を変えて見え、「思い出す事など」では、第二十章の尾におく。」と解説されています。

     *

 仰臥人如唖
 黙然見大空
 大空雲不動
 終日相同
 
 仰臥ぎょうが ひと おしごと
 黙然 として大空を見る
 大空に雲動かず
 終日 かにして相い同じ
(太文字は引用者による)

古井由吉『漱石の漢詩を読む』p.22

 p.24には、夏目漱石の随想『思い出す事など』からの長い引用がありますが、ここでは杳という文字が出てくる箇所を挟む三文だけを抜きだします。 

(……)魂が身体を抜けるといっては既に語弊がある。霊が細かい神経の末端にまで行きわたって、泥で出来た肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚からはるかに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。(……)
(太文字および丸括弧とリーダーによる省略は引用者)

古井由吉『漱石の漢詩を読む』p.24

 新潮文庫版の『思い出す事など』(『文鳥・夢十夜』所収)を見ると、「二十」のp.226にルビや表記に異同はありますが、同じ箇所があります。p.227には、確かに上の五言絶句が縦書きで、五言ごとに句点を施したかたちで一列に置かれています。

 つまり、古井由吉の『漱石の漢詩を読む』では、p.22からp.24にかけて続けて三回「」という文字が見えるのです。

     *

杳か・はるか」という読み方があるのは知りませんでした。これまでに古井由吉の小説『杳子』を何度も読んで、「杳」という文字が気になったにもかかわらず、そして複数の漢和辞典で「杳」を何度も調べたというのに、です。

 うかつでした。お恥ずかしい限りです。

「はるかに広がる」


 古井由吉の『漱石の漢詩を読む』は、とても読みごたえのある著作です。夏目漱石の『思い出す事など』と、できれば吉川幸次郎著『漱石詩註』を脇に置いて読むことをお勧めしたいと思います。

 ただし、『漱石の漢詩を読む』と『漱石詩註』は現在は入手が難しく、私は図書館から借りて読んでいるところです。

 さらに言うと、『漱石の漢詩を読む』は、漱石のいわゆる「修善寺の大患」の話と重なるためにとても重いです。体調の悪い時には読む本ではないと思います。

 なお、「修善寺の大患」については、以下のウィキペディアによる「思い出す事など」の解説が、簡潔で分かりやすいです。古井の『漱石の漢詩を読む』を読むうえではこの出来事を知っておく必要があるので閲覧なさることをお勧めします。

     *

『思い出す事など』は私の場合には、全体を読みとおすとなると苦しくなるたぐいの作品なのですが、一方で素晴らしい細部に満ちた著作でもあります。

 古井の『漱石の漢詩を読む』では、『思い出す事など』のうちで古井にとって最も大切な部分が引用され、それに古井の解釈と感想が添えられています。

 上で引用した箇所のあいだに挟まれた一段落などは、古井特有の感覚的かつ論理的な筆致で書かれていて、私は何度も読みかえしています。文章における情と理のバランスが絶妙なのです。

 古井が漱石の著作を広くかつ深く読み込んでいたのは間違いないと推測できます。

     *

『思い出す事など』の「二十」にある、漱石が修善寺での記憶をつづった文章について、古井が解説している箇所を引用します。

 縹緲びょうびょうとは、はるかに広がるという意味です。この空を眺めているわけですけれど、普通に人がものを眺める、見るとは、人が主体になってものを対象化することです。積極的な行為です。この場合は違う。受容です。向こうから、入ってくる。これは病後の衰弱のうちにあることなのです。自分から見るのはなくて、向こうから入ってくる。
(ルビと太文字は引用者による)

古井由吉『漱石の漢詩を読む』pp.23-24

 ここは、先に引用した、韻文である五言絶句と、それを散文のかたちで漱石がつづった『思い出す事など』の記述(あとで引用します)を受けています。

 整理するとこうなります。

・漱石による五言絶句(韻文)
・漱石によるほぼ同じ内容の記述(散文)
・上の二つを受けての古井による解説(散文)

『漱石の漢詩を読む』が漱石の漢詩をめぐっての著作である以上、韻文と散文の区別を意識したほうがいいだろうと私は思います。

 なお、縹緲びょうびょうとは、はるかに広がるという意味です。」に私があえて太文字とルビを施し注意を喚起したのは、ここで触れられているのが、漱石の漢詩にある「杳」という文字の古井による解釈だと思われるからにほかなりません。

 私の勝手な想像ですが、この箇所を書いたときの古井は、きっと自分の出世作である『杳子』で書いた「杳」という文字を意識していたのだろうと思います。

     *

『思い出す事など』に見られる韻文は漢詩にとどまりません。俳句もあるのです。

 八月二十四日に大喀血をして、九月六日頃からかなり回復し、まだ床からは出られませんが、床の中で日記を付け始める。のちにそれをもとにまとめたと思われる『思い出す事など』には、危機を脱した今の安らかさへの感謝の念と喜び、それに満ちた文章がみられます。『思い出す事など』は、同年の十月から朝日新聞に連載されたものですが、その中のところどころに俳句と漢詩が書かれている。

古井由吉『漱石の漢詩を読む』p.10

 古井がこう述べているように、『思い出す事など』は次の三つの異なる種類の文章から成り立っているのです。

・随想としての記述(散文)
・俳句(韻文)
・漢詩(韻文)

     *

 話が前後して恐縮ですが、上で引用した五言絶句(韻文)とほぼ同じ内容を漱石が散文でつづった箇所を、以下に紹介します。新潮文庫版の『思い出す事など』(『文鳥・夢十夜』所収)での記述と『漱石の漢詩を読む』での引用文とでは微かな異同が見られますが、後者から抜きだします。

 余は当時十ぷんと続けて人と話をする煩わしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心につたわって、たいらかな気分をことさらにざわつかせるように覚えた。口を閉じて黄金こがねなりという古い言葉を思い出して、ただ仰向けに寝ていた。ありがたい事にへやの廂ひさしと、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の露に洗われつつ次第に高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見詰めるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空おおぞらは、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲びょうびょうとでも形容してい気分であった。
(太文字は引用者による)

古井由吉『漱石の漢詩を読む』p.23

 整理します。

「透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲びょうびょうとでも形容してい気分であった。」:漱石の漢詩(韻文)に呼応する漱石の散文『思い出す事など』
・「縹緲びょうびょうとは、はるかに広がるという意味です。」:上の散文をめぐっての古井による解釈

 一方はとてつもなく大きなもの、もう一方はとってつもなく小さなもの――この二つが合う(出会う)。そのとき、小さなものが自分をはるかに広がっていくものとして感じる。

散文(日記・随想)、韻文(漢詩・俳句)


「透明な二つのものがぴたりと合った。」と漱石が書いた体験を、主客、主体と客体、自他、一体化、合体、交感、神秘といった観念的な言葉をつかい、いかにも図式的で安易な散文として説明することもできるでしょう。

 というか、散文とはそうしたものです。良い悪いの問題ではなく。

 私もそんな誘惑に駆られます。とはいうものの、生死のさかいにいた漱石が、いわば官能(これも観念的な言葉ではありますが)の体験をしたことを忘れてはならないと思います。

 生と死のあわいにあっての官能の体験(官能的な体験ではなく)を、事後ではありますが、漱石は日記と随想的記述という散文だけでなく、あえて韻文という形式を選んでも書いていたのです。

 散文とは、事(出来事)を理をもって事割り、同時に言割ることにほかなりません。一方、韻文とは、あくまでも歌を歌ういとなみなのです。

 言い方を変えると、散文とは、固定された物である文字を相手にする視覚的な行為であり、韻文とは、音声を発するという出来事としての事と言を生きることではないでしょうか。最終的に文字にするにしてもです。

     *

 とはいえ、漢詩においては漢字という(妙な言い方ですが)存在感の強い文字をもちいるために、(たとえばヨーロッパの韻文とくらべて)視覚的な要素が強い韻文であるとも思います。

 それがどの文字をもちいるかという視覚的な選択として立ち現れるはずです。鑑賞のさいに、この点をあっさりと無視するわけにはいかないでしょう。

 その意味で、散文である随想の部分で、「合って自分に残るのは、縹緲びょうびょうとでも形容してい気分であった。」と書いた漱石は、韻文を書くときにきわめて近い姿勢というか心境にあったのではないかと想像します。

 とりわけ「縹緲びょうびょう」という文字の選択に私は詩を感じるのです、漢詩を……。無知で無恥な素人の放言を、どうかお許しください。

 それはともかく、上で一部を引用した、この箇所が含まれる随想の部分を読むと、散文というよりも散文詩といっていいような趣を私は感じます。散文でありながら、漱石は歌っているのです。

 矛盾した言い方ですが、官能の体験が韻文に近い散文になっているようかのよう――。読んでいて震えがくるほど好きな部分です。陰惨とも言える深刻な内容でありながら、文章がじつに艶やかなのです。

     *

 ヨーロッパの韻文については、もっと勉強したいという気持ちだけはあります。たとえば、古井由吉の『詩への小路』(書肆山田)が手引きになりそうですが、なかなか手を付けられずにいます。私は昔から詩歌が大の苦手なのです。

 最近になって日常的に詩歌を読むことが増えたものの、自分は散文的な人間だと痛感する毎日です。

     *

 古井由吉著『漱石の漢詩を読む』では、漱石による散文(日記・随想)と韻文(漢詩・俳句)を、古井が散文というかたちで論じるというつくりになっています。

 せっかくそれだけの異なる種類の文章が載っているのですから、その違いを意識して読まない手はないと思います。意識することで刺激的な読書になるはずです。

 私はできるだけ、文章の違いを意識して読んでいきたいと考えています。

杳・縹緲・渺


 ここで、私の気になる語や句を整理してみます。引用するのは、漱石による韻文や散文であったり、それに対する古井由吉の解説だったりしますが、どこからの引用であるかは明記してあります。

・「終日相同」(漱石『思い出す事など』「二十」にある五言絶句より・古井による引用・『漱石の漢詩を読む』p.22)
・「終日 かにして相い同じ」(上の五言絶句の古井による読み・『漱石の漢詩を読む』p.22)
・「(……)官能の実覚からはるかに遠からしめた状態であった。」(漱石『思い出す事など』「二十」より)・古井による引用・古井由吉『漱石の漢詩を読む』p.24)

・「合って自分に残るのは、縹緲びょうびょうとでも形容してい気分であった。」(漱石『思い出す事など』「二十」より)・古井による引用・古井由吉『漱石の漢詩を読む』p.23)
・「縹緲びょうびょうとは、はるかに広がるという意味です。」(上に対する古井による解説・古井由吉『漱石の漢詩を読む』p.23)

     *

 以下は、古井由吉作『杳子』(『杳子・妻隠』(新潮文庫)所収)からの引用です。なお、太文字は引用者(星野)によるものです。

・「岩ばかりの河原をゆっくり下ってきた彼の視野の中に、杳子の姿はもっと早くから入っていたはずだった。もう五時間ちかく人の姿を見ていない男の目の中に、岩の上にひとり坐る女の姿は、はるか遠くからまっすぐに飛びこんできてもよさそうだった。」(p.9)
・「(……)目の前のケルンを見つめるほどにかえってケルンの一途いちずな存在に表情を吸い取られてびょうとした感じになっていき、未知の女の顔でありながら、まるで遠くへ消えていくかすかな表情を記憶の中からたえずつかみなおそうとするような緊張を、行きずりの彼に強いた。」(p.11)
・「乗り降りの客にざわめく車内を窓の外から眺めながら、彼は谷で出会った女のあのびょうとかすむ顔を思い浮かべていた。」(p.28)

 上に引用した箇所で私が太文字を施したフレーズから、『杳子』という小説における杳子の「杳」という文字には、次のようなイメージがあるように思います。

・『杳子』の登場人物の名前である「杳子」の「杳」という文字のイメージ:はるか、遠く、びょうとした(このうち「はるか」「遠い」は漢和辞典にも見られる言葉)

 さらに言うなら、以上のイメージは、漱石の漢詩でもちいられている以下の文字と、「はるかに遠く」呼応しているような「渺とした」思いを、私はいだかずにはいられません。要するに、似ているのです。

杳(漱石の漢詩・韻文)
縹緲びょうびょう(漱石の散文)

 なお、次の漢字(どれも「びょう」と読めます)を複数の国語辞典と漢和辞典で調べてみると、これまた渺とした思いになります。まるで『杳子』に登場する杳子みたいなのです。興味がありましたら、ぜひお調べになってみてください。


・緲
・渺・渺渺・(渺茫)・(淼茫)
・眇・眇眇

 どれも私には杳として分からないというのが正直な気持ちです。漱石と古井の作品を読みかえし、辞書を引いて勉強し直す必要があると感じています。

 くり返します。

 渺としているために杳として分からない――これが『杳子』という小説および「杳子」という登場人物に対する私のイメージなのです。

「遠ざかる細い道のむこうで」


 以前の記事で何度も引用しましたのですが(たとえば「月、日(「物に立たれて」を読む・02)」)、『杳子』の最後には、私にとって印象的な描写があります。

家々の間をひとすじに遠ざかる細い道のむこうで、赤みをました秋のせ細ったの上へ沈もうとしているところだった。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収・新潮文庫・p.170・太文字は引用者による)

陽(日)が樹(木)の上へ沈もうとしているところ:まもなく陽(日)が樹(木)の下に沈む。

 陽・日 ⇒ 
 
樹・木 ⇒ 

 つまり、

 というふうに。

     *

 以下は、上の引用の直後の部分です。

 そう嘆いて、杳子は赤い光の中へ目を凝らした。彼はそばに行って右腕で杳子を包んで、杳子にならって表の景色を見つめた。家々の間をひとすじに遠ざかる細い道のむこうで、赤みをました秋の陽がせ細ったの上へ沈もうとしているところだった。地に立つ物がすべて半面を赤くあぶられて、濃い影を同じ方向にねっとりと流して、自然らしさと怪奇さの境い目に立って静まり返っていた。
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」 
 杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。もうなかば独り言だった。彼の目にも、物の姿がふと一回限りの深い表情を帯びかけた。しかしそれ以上のものはつかめなかった。帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の軀がおそらく彼の軀への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていった。(pp.169-170)

 このように『杳子』は終わります。

「赤い光の中に」、「赤い光の中へ」(p.169)、「赤みをました秋の陽が」「赤く炙られて」(p.170)と立て続けに「赤」が出てくるのには目を見張らざるをえません。

「あか・赤」は「あけ・明ける」と同源らしいのですが、そう考えるとイメージの鮮やかさにはっとします。美しいのです。

 一方で、次の反復と変奏も見られます。

 濃く鮮やかな赤との中で、「遠ざかる細い道のむこうで、」、「秋の陽がせ細ったの上へ」、「杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。」と「杳子の軀が(……)かすかな輪郭だけの感じに細っていった。」とあります。

 この短い部分で「細」という文字が四回くり返されています。古井は語句やイメージの反復と変奏がきわめて多い書き手ですが、ここも気になるところです。

 とはいうものの、渺としたイメージを感じないではいられません。

 古井の諸作品には、謎解きじみた読み手の態度を寄せ付けないところがあります。読むさいに何らかの見立てを捏造しても、それに抗う細部が必ずあるのです。

 そのために、杳として分からないという結論にいたってしまう。だからこそ、私は強く惹かれるのですけど。

杳子・仰臥・搬送


 今回引用した箇所については、話ししたいことが他にもいろいろあります。

     *

*古井由吉作『杳子』での「杳子」という固有名詞について:


・「杳子」とは『杳子』という小説のタイトルであり、そもそもこの小説は、以下に引用するように「杳子ようこ」という、ルビを打たれた二文字で始まる。この「杳子」は、この小説ではアルファベット一文字で表記されるものを除けば、唯一の固有名詞である。作品全体を論じるのに、「杳子」という文字列にこだわってもいいのではないか。

 杳子ようこは深い谷底に一人ですわっていた。

・たとえば、「杳子」が「ヨウコ」と表記される箇所があるのは、なぜなのか。

 とつぜん「ヨウコ」という表記が出てくるのは、Sが初めて杳子の家に電話をしたときで、電話に出た杳子の姉とSとの会話において、二人が杳子を指すさいに「ヨウコ」と書かれています(p.134)。以後、杳子の姉が杳子を呼ぶときにも「ヨウコ」と表記されます(p.141、p.153、p.157)。
(拙文「『杳子』で迷う」より)

     *

*「仰臥人如唖」にある「仰臥」という姿勢について:


蓮實重彥著『夏目漱石論』で論じられている「仰臥」と「横たわる」という身振りについて、再度考えてみたい。

 死と親しい身振りでありながら、生を呼び寄せてしまう。
 死んだ振りを装いながら、生きている振りを演じている。
(生きていなければ死んだ振りも生きた振りもできない・人)
(生きていないから死んだ振りも生きた振りもできる・文字・言葉)
 蓮實の「横たわる漱石」を読んでいると、そんな言葉の動き(身振り)に注がれる蓮實の眼差しを感じないではいられません。
 それだけではありません。いま述べた身振りは、私のなかでは古井的「存在」の身振りと重なるのです。
(拙文「古井、ブロッホ、ムージル(その1)」より)

 蓮實重彥著『夏目漱石論』には、上で引用した五言絶句についての実に興味深い記述があります。

 だがそれにしても、空を視線におさめ、空を皮膚で感じとるとは、どういうことなのか。『夏目漱石』の若々しい江藤淳であれば、いささかせきこんだ口調で「無」と「夢」などとつぶやいて、「漱石の低音部」としての南画的世界を語りはじめるかも知れない。なるほど、江藤氏の慧眼ぶりは、漱石が渡欧船上で記した英文の心象風景と、晩年の漢詩に盛られた精神の問に一貫したものが流れているのを見落とさない点に存しているだろう。《The sea is lazily calm and I am dull to the core, lying(←この語は蓮實による引用ではイタリック) in my long chair on the deck.  The leaden sky overhead seems as devoid of life as the dark expanse of waters around, …》で始まる断片には、確かに頭上の空へと向う視線が感じられるし、また「仰臥﹅﹅人如唖。黙然見大空。大空雲不動。終日杳相同」では、その印象はさらに強調されている。
 だが、この二つの文にあって人の興味を惹きつけてやまぬのは、執筆年月のかなりのへだたりにもかかわらず、一方は lying として、他方は仰臥﹅﹅として、横たわる姿勢がともにその出発点にあるという事実であろう。一貫しているのは、作者漱石の精神といった暢気なものではない。「横たわる」という言葉が、この散文詩めいた英語の文章と五言絶句とに、それぞれ横文字の単語と漢語に律儀に移しかえられて姿をみせている点が、何か不気味なほどすごいのだ。(……)
(蓮實重彥著「横たわる漱石」(『夏目漱石論』青土社)所収・pp.37-38)

 漱石の「横たわる姿勢」をめぐって、「散文詩めいた英語の文章と五言絶句」を具体的に引用しての蓮實の論の進め方は説得力があり、個人的には「何か不気味なほどすごい」と思わざるをえません。

・「横たわる」
・lying(散文詩めいた英語の文章)
・仰臥(五言絶句・韻文)
 

 前後の文章を引用したくてたまらないのですが、これ以上長く引用するわけにもまいりませんので、ぜひ『夏目漱石論』をお読みいただきたいと思います。引用にさいしては青土社刊の単行本をもちいましたが、現在は以下の講談社文庫版で読むことができます。

 お薦めします。私はこの著作から多くのことを学び、今も学び続けています。

 以下の拙文「影の薄い小説(小説の鑑賞・03)」は、この本へのガイドにもなっています。

・仰臥の姿勢で搬送される漱石と重なるかのような、古井の『妻隠』における、発熱して車で搬送される寿夫の描写について再度考えてみたい。この描写は、古井がある論考で引用したことのある、ヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』での輿(こし)で搬送されるウェルギリウスの模様と酷似している。

 このように、ブロッホ作の「ウェルギリウスの死」の背景と状況が簡潔に要約されていますが、「遠い宴のさざめきを耳にしながらひとりもの思いに耽りはじめる」という部分に私は惹きつけられます。
 後述しますが、私が勝手に「聞く「古井由吉」」と呼んでいるものによく似ている気がするからです。これに続く部分を見ると、その印象がさらに濃くなります。
(拙文「古井、ブロッホ、ムージル(その1)」より)

 たとえば、古井の『妻隠』には、そこにヘルマン・ブロッホ作『ウェルギリウスの死』の影が見えるように私には感じられます。そこでは、いわば「聞く「古井由吉」」(私の個人的なイメージです)の特徴がよく出ているのです。
(拙文「型を壊す、型が壊れる」より)

・仰臥の姿勢での長期にわたる入院生活を余儀なくされた、古井由吉の書いたエッセイ『魂の日』(福武書店)に見られる記述について考えてみたい。その病床で古井が読んだ漱石の随想『硝子戸の中』の話(p.9-)を思いださずにはいられない。また、上とは別の手術のために、仰臥とは逆のうつ伏せでの入院を余儀なくされた古井の体験と重なる記述が、短編集『聖耳』(講談社)に見られる。この作品の描写についても考えてみたい。

     ◆

 これだけでも記事として書くとなると大変な作業になりそうです。書けるかどうかは分かりません。書きたいという意欲だけが空回りしているようです。

 今回の引用文以外にも、『漱石の漢詩を読む』には刺激的な細部がたくさんあります。古井の日本語観、文章観、言語と言葉と文字に関する見解――という点で示唆に富む記述があちこちに見られるのです。

 体調と相談しながら書き進めていこうと思います。そんなわけで、あえて連載のかたちは取らずに「つづく」とだけ書いて、今回の記事は終わりにします。

(つづく)

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