作文、描写、実況中継
「写生、描写、作文」の続きです。
「写生、描写、作文」ではいろいろなことを書きましたが、今回は以下の点についてお話ししたいと思います。
・言葉は出来事に追いつけない。
・言葉は物を描写できない。
・作文とは先行する作文を模倣すること。
体調を考慮して短い記事にするつもりです。また、書き下ろしは体力を消耗するので過去の記事を再構成する形で書いていきます。
では、さっそく本文に入ります。
描写の限界
言葉は出来事には追いつけません。私の好きな言い方だと、
・言は事に追いつけない(ことはことにおいつけない)
となります。
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人は一度に一つの言葉しか口にできない、あるいは一つの語しか書けない――。
うろ覚えで恐縮ですが、そんな意味のことを蓮實重彥がどこかで書いていた記憶があります。
言葉を発する行為は、一度に音あるいは音節を一つずつ発することの連続ですから、たとえば「私は猫です」と口にし終えるまでにそれ相応の時間を要するのは当然です。
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そうであるとすれば、人は一連の出来事を言葉(音声)を口にするとか、文字にするのは至難の業どころか不可能に思えてきます。
なにしろ、出来事は起こりながら片っ端から消えていくのです。これは出来事が流れであり、動きであるからに他なりません。
世界は動いているし流れているのです。
パンタレイ。万物流転。
では、どうすればいいのでしょう?
出来事をその場で描写するのをやめて、事後に後付けとして作文すればいいのです。後付けであれば、脚色もできるし、嘘もつけます。
ただし、描写はきわめて困難だと思います。事後だからに他なりません。「事後に描写する」というのは言葉の綾なのです。
ついでに申しますと、「事前に描写する」こともできます。というか、みんなでいつもやっていませんか?
描写というのは、対象を見なくてもできるし、対象が存在しなくてもできるという意味です。必要なのは言葉だけです。
絵を描くのに、描くための道具だけは絶対に必要なのと似ています。
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とは言うものの、残念ながら、言葉(音声)も文字も、動きを描写するのが苦手です。きわめて苦手だと言うべきでしょう。描写しようとしても、言葉の発話と文字の執筆が動きに追いつけないからです。
いま「追いつけない」と言いましたが、まず言葉が現実を描写するには圧倒的に言葉の数が足りません。言葉と現実にある事物は一対一に対応していないし、対応できないという意味です。
もし一対一に対応していれば、言葉は現実になってしまいます。私の好きな言い方をすると(いわゆる自分語です)、言界と現界(どちらも「げんかい」と読みます)が「同じ」になってしまうのです。
でも、言界(言葉の世界)も現界(現実の世界)も限界(限りのある世界)なので、どちらにも限界(限度)があって重なることはありません。ちなみに、幻界(まぼろしや思いの世界)にも限界(限度)があるので限界(限りのある世界)です。
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つまり、言葉は物に追いつけないのです(限界なのです)。言い換えると、言葉は、静止している(正確には人の目には静止して見えるだけの)物を描写できないとなります(限界だからに他なりません)。
言界=限界。
これは、言葉が数的または量的に圧倒的に足りない(限界だから)からに他なりません。何に足りないって、物にです。それも動かない物(人には動いていないように見える物は、億年とかいう長い目で見ればパンタレイですし、素粒子とかのレベルでは動いているとか揺れているとか)にです。
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言葉は数的または量的に足りない――そもそもパーツの数が絶対的に足りないし全体を構成する(組み立てる)ためのピースが無数の細部で欠けている(つまり、まばらで、まだらで、すかすか)――だけではありません。
テレビのスポーツ中継を思い浮かべてみてください。一瞬の動きに遅れ、一瞬の動きの後に、必死で言葉(音声)を連ねるしかないのです。
これがラジオでの中継であれば、映像がないだけ不利になります。つねに事後報告=事後作文の形を取らざるを得ないのです。「間(ま)」というか「ずれ」があるという意味です。
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・言葉は、つねに、おくれる、遅れる、後れる。
・言葉は、おいつけない、追いつけない。おえない、追えない、終えない。
・言葉は、出来事に先立たれるしかない。
現実に対して、言葉はないない尽くしの状況に置かれているのです。圧倒的に「足りない」し「欠けている」し「追いつけない」、つまり、ほぼ「ない」のです。皆無。全敗。
これが言葉による描写の限界です。感じ取っていただけたでしょうか。
実況中継をするしかない
困りました。万事休すです。
では、どうすればいいのでしょう?
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実況中継をすればいいのです。冗談で言っているのではありません。本気で言っています。
と言うか、実況中継でやっていることをやればいいのです。
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では、実況中継では何をしているのでしょうか?
実は、実況中継では実況中継はしていないのです。
正確に言うと、実況中継とか実況放送は、作文をしているのです。描写ではなく作文です(大切なポイントです)。
もっと正確に言うと「借文」です。
借りるのです。先行する作文例からフレーズを借りると言えば、分かりやすいかもしれません。
なにしろ、言葉も文字も、誰もが生まれる以前からあったものですから、借りるしかありません。言葉も文字も借り物なのです。
もちろん、造語とか自分語とか新語というものもありますが、それらもまた先行する言葉や文字の一部を切り貼りしたり、古いものを新しくつかうという作業の結果ですから、やはり借りているのです。
(※以上について、詳しくは以下の記事に書いてありますが、長い記事なので、興味のある方だけお読みください。)
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たとえば、スポーツ中継には定型、つまり紋切り型のフレーズ、言い換えると決まり文句があります。
ある動きや動作や身振りや状況に応じた決まり文句があるから、それを拝借して当てはめれば事足ります。たいていの事態には対処できるのです。
それが実況中継と呼ばれているものなのです。悠長に描写なんかしていては、実況中継なんてできるわけがありません。
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心強い話です。
これなら私にもスポーツの実況中継ができそうです。訓練を積み重ねなければならないのは、言うまでもありません。芸の道は厳しいのです。
熟達すれば、まるで生き生きと描写しているように、また文字通りに実況中継とか実況放送しているように見えるし聞こえるのです。あれは、芸に他なりません。精進するのみ。
いずれにせよ、要領が分かっただけでも心強く感じます。
これなら人だけでなく、機械やシステムにもできそうです。
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それだけではありません。上の方法で借文(やはり作文というより借文です)すれば、まぼろしの実況中継や、架空の実況中継や、嘘の実況中継も可能だからです。
借文においては、ほんまもん、まぼろし、まがいもん、嘘っぱちの区別ができないのです。
心強くもあるし、恐ろしくもあります。
借文ぽくない借文、借文らしくない借文
ところで、借文という方法をもちいれば、描写っぽい実況中継だけではなく、描写っぽい作文も、逆に描写っぽくない作文もできそうではありませんか?
先行する作文例を真似て、それっぽいフレーズや、いかにもそれらしいフレーズや、それみたいなフレーズで作文すれば、それっぽかったり、いかにもそれらしかったり、それみたいな文章ができそうな気がしませんか?
曖昧な言い方になって申し訳ありません。お察しください。
要するに、描写する必要のない文章があるということです。描写する必要のない文章では、実況中継も作文もする必要がないのです。
見る必要も、聞く必要も、触れる必要も、嗅ぐ必要も、味わう必要も、悲しむ必要も、喜ぶ必要も、憤る必要も、生きる必要も、病む必要も、老いる必要も、死ぬ必要も、ない、のですから。
見ていないのに見たように書く。聞いていないのに聞いたように書く。体験していないのに体験したように書く。
感動していないのに感動したように書く。生きていないのに生きているように書く。
前者と後者の区別は、見た目ではできないのです。文字を読むとは、文字を見ることに他なりません。
見る対象になっている文字は、人の外にあるのです。簡単に、言うと文字は人の外にある外なのです。もっと簡単に言うと、文字は人の外にあるのです。常に、です。
(文字が人の中にあれば見えません。だから、文字は人の外で書くのです。そうやって、人の外にある文字を、人は「みんなで」(←ここ大切です)見るし読むのです(共有するという意味です、人の外にないものは共有できないのです)。いま述べたのはとても大切な点です。近いうちに「線を引く、線を消す」という記事にします。)
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人はこれまでに借文をしてきました。いまも借文しています。これからも借文するでしょう。
借文ぽくない借文、借文らしくない借文――こうした借文がうまい人がいたし、いるし、これからもいるでしょう。
ところが、大きな問題が出てきました。
借文ぽくない借文や借文らしくない借文が得意な、というか、きわめて得意な、というか学習して日々得意になっていく機械やシステムが登場したのです。
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こんなことは、人類の歴史では初めてのことでしょう。初めてですし、相手はどんどんどころか、飛躍的に借文に上達していきつつあります。
このゆゆしき出来事に、言葉も文字も追いつけない。描写も実況中継もできません。その実態がつかめていないのです。
しかも、先行する実例の蓄積がないため、前例踏襲というかたちでの借文もできません。
こうなったら、人は借文の「達人」に外部委託(外注)するしかなさそうです。というか、実際にそうなってきているようです。
苦しい時の神頼み。溺れる者は藁をもつかむ。本末転倒。主客転倒。主従逆転。
最近、人は考えた振り、読んだ振り、書いた振りをするのが上手くなった気がします。人は、あれに似てきたのです。
人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化。
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まとめます。
今回は、
・描写しているか、それとも描写しているように見えるか、
・作文しているか、それとも作文しているように見えるか、
・実況中継しているか、それとも実況中継しているように見えるか、
は区別できない、
という話をしました。
・借文しているか、それとも借文しているように見えるか、
は区別できない、
とも言えるでしょう。
「である」と、「であるっぽい」・「であるようだ」・「であるらしい」とのさかいは、どうやらきわめて曖昧なようです。
特に、実際には「書いているかどうか」と「読んでいるかどうか」と「話しているかどうか」と「聞いているかどうか」では。
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これはおそらく「実際には」というところに問題がありそうです。「実際には」ってあるのでしょうか? そこから考えたほうがいいのかもしれません。
とりわけ、真偽、正誤、正邪、虚実、善悪のさかいが不明に感じられるようになった、この時代には。
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いずれにせよ、今回は自分としては短い記事が書けてうれしいです。きっと過去の記事から借文したおかげだと思います。
