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薄っぺらいもの(スクリーン・05)

 これから、この「スクリーン」というシリーズで触れていくつもりですが、私は紙もまたスクリーンだと思います。そして、紙というスクリーンにうつる文字は影だとも思います。

 以上は「映・写、移・動(スクリーン・02)」の最後のほうで書いた文ですが、今回は紙のように「薄っぺらいもの」もスクリーンと見なして話を進めていきます。「影」についても触れるつもりです。 

 スクリーンを板と見なし、その薄さをおしすすめていくと、紙や膜や布状の「薄っぺらいもの」になります。三次元の立体(物体)であるスクリーンにそなわっている二次元性(表面性)にこだわってみたいのです。

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 大きめの英和辞典で、「screen」 を調べると以下の日本語訳が載っています。

 1)さまたげるもの、さえぎるもの。ついたて、すだれ、びょうぶ、幕、とばり、障子、ふすま、仕切り、障壁、目隠し、遮蔽物、遮蔽、スクリーンプレー。おおい隠す、かくまう、かばう。

 2)うつすもの、うつされるもの。スクリーン、映写幕、銀幕、画面、映画。映画化する、脚色する、撮影する、網がけ・網どりする。

 3)とおすもの、ふるいにかけるもの。網、網戸、ふるい、編目、砂目、フィルター、百葉箱、審査制度、選択制度、選抜、スクリーニング。審査する、選抜する、排除する、除外する。

 以上は、「リーダーズ英和辞典」(研究社)と「ジーニアス英和大辞典」(大修館書店)から抜きだしたものです。大雑把に分けると、広義の「スクリーン」には三つの機能があると言えそうです。

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 今回は川端康成の『名人』の一節を引用します。そこには上で挙げた「screen」の日本語訳に相当するものが複数出てきます。

 そうした広義の「スクリーン」には英和辞典で分類されている「さえぎる、うつす、とおす」という三つの機能というか特性だけでなく、「わける、へだてる、かくす」もあります。

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 二日目の対局室は、明治時代のさびのついたような二階で、襖から欄間まで紅葉づくめ、一隅に廻した金屏風きんびょうぶにも光琳こうりん風のあてやかな紅葉であった。床の間に八つ手とダリアがけてある。十八畳の次の間の十五畳まで明け通しなので、大振りの花も目にさわらない。そのダリアの花は少ししおれていた。稚児髷ちごまげの少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。
 大竹七段は黒羽二重くろはふたえの一重にの羽織の紋服だが、今日の名人は少しくつろいでか、縫い紋の羽織だった。盤は昨日のとはちがう。
(川端康成作『名人』新潮文庫・p.35)

 引用文から、立体としてだけでなく薄さと二次元性(表面性)に注目して気がついたものを抜きだしてみると以下のように整理できるでしょう。

・立体的なスクリーンたち:襖、欄間、屏風、畳、盤
・薄っぺらいスクリーンたち:紅葉、八つ手、ダリア・花(花弁)、扇、盆、二重(布・織物)、絽(織物)、羽織、紋服

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 個別に見ていきましょう。

:「ふすま・襖」を辞書で調べてみると、「臥(ふ)す間」という記述があり、木の枠に紙や布を貼った仕切りに「さえぎられる」形で臥(伏)すさまが頭に浮びます。空気や風は「さえぎって」も音や声は「とおす」のではないでしょうか。病気で伏しているのであれば隔離されている(へだてられている)わけです。「ふすま」の紙や布をじっと見つめている伏している人の視線だけでなく、反対側にいる人たちの視線も感じられます。その紙や布の面を見つめながら、人はそこに何を見る(うつす)のでしょう? 

欄間:格子や透かし彫りです。辞書には「採光・通風・装飾のために」という記述があります(広辞苑)。「飾る」という役目に注目したいです。

屏風:「びょうぶ・屏風」は「風を屏(ふせ)ぐ」らしく、「風よけ」という記述も見えます(広辞苑)。うつすはうつすでも「移す」こともできそうです。現在では屏風というと豪華な装飾のイメージが強い気がします。金屏風となると、もうこれはステータスであり、セレモニーのための特別なものでしょう。飾りとしてのスクリーンの極致とも言えます。スクリーンを「とおして見る」のでもなく、スクリーンに「うつるものを見る」のでもなく、「スクリーンそのもの」が見る対象になるのです。

:「畳 仕組み」をキーワードにネットで検索すると構造物であることがわかります。通常は表面の「むしろ」だけしか見ることがありませんが、その下には層があり驚きます。このように、広義のスクリーンが、木や金属の板、あるいは紙や布や木の皮といった一種類の物質から成る一様なものでは必ずしもなくて、層を成すものであったり、面を支える枠があったりすることは、スクリーンを考えるさいに重要な点だと思います。

:ここでは碁盤のことです。盤が広義の板であることについては、過去の記事で何度か触れてきました。この「スクリーン」というシリーズでは、三次元の立体(物体)であるスクリーンにそなわっている二次元性(表面性)という観点から考えてみたいと思います。たとえば、碁盤の上での石の位置が棋譜という形で紙に印刷できることから、碁盤も広義のスクリーンと見なせるのではないでしょうか。広義のプレイ(play)と板・盤・台の親和性に加えて、プレイとスクリーンとの親和性について近いうちに書く予定です。

紅葉:薄っぺらい葉を見ていると、紙との共通性について考えないではいられません。言の葉とかリーフ(リーフレットやルーズ(ス)リーフ)を連想します。

八つ手:植物の「ヤツデ」の大きな葉は「手のひら・掌」を思いださせますが、語源的にも関係があるようです。「てのひら」の「ひら」はさまざまなイメージを呼び覚ましてくれます。「ひらたい・平たい」「たいら・平ら」「平面」「表面」。たいらなおもての面ということですが、この平面性はスクリーンの機能を考える上で大切な要素だと考えられます。
 絵や図や文字を「かく」ためには「たいら」で、「ならした・均した・馴らした・慣らした」面が不可欠なのです。「ならぶ・並ぶ」「ならべる・並べる」「ライン・line・列・線・すじ・筋・条・連・鎖・縄・糸」「ならう・習う・倣う」「ならす・均す・慣らす・馴らす」「まねる・真似る・まねぶ・まなぶ・学ぶ」「学習」という連関が考えられるのですが(半分冗談ですよ、こういうのは真剣にやるものではないと思います)、この点についても、近いうちに記事にする予定です。

ダリア・花(花弁):「はなびら・花弁・花片」と「しべ」から成る「花」ですが、「ひら・弁・片」は「平・枚・開・敷」という具合に変奏できそうです。上述の「葉」とも、イメージがつながります。花ですから、昆虫や鳥や人などの生物を惹きつける「色」ともかかわりがありそうです。スクリーンと色をからめると面白いお話がつくれそうです。川端康成は植物に詳しく、川端の作品における植物に注目すれば論文が書けるでしょう。論じるのことの苦手な私には土台無理な話ですけど。

:団扇と同様に、紙製も布製もありそうですが、竹や木の骨に「張る」という作りが興味を引きます。「おうぎ・扇」と言えば「あおぐ・扇ぐ・煽ぐ」ですけど、「あおる・煽る」や「fan・ファン」と話を広げてみたくなります。薄っぺらい「スクリーン」と「はる・張る・貼る」とのからみも面白そうです。

:「ぼん・盆」を「ひらか」とも言うと辞書を引いて知りました。広辞苑には「ひらたい瓦器(がき)」「浅く平たい」という文字も見えます。盆地とか扇状地を連想しないではいられません。

二重(布・織物)、絽(織物)、羽織、紋服:布や織物は体を「おおう・被う・覆う」わけですから、薄っぺらく、平たいものでなければなりません。「織物」といえば「テクスト・テキスト」ですから、紙、文字、文章、「あや・文・綾・絢」という連想が起きます。文字を含む「あや・模様」の場となるのがスクリーンなのでしょうか。人がまとう着物・服の模様だけでなく、肌にまとう「タトゥー・刺青」まで思い浮かべてしまいます。皮膚・肌もスクリーンではないでしょうか。お化粧がそうです。「顔・面」は色付きで点や線や面として塗ったり、かいたりするスクリーンです。

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 以上、連想にうながされての感想文になりましたが、私にとっては今後の記事を書くためのメモにもなりました。

 川端康成の『名人』には、さまざまな「うつる・うつす」と「かげ」が出てきます。この作品について書いた「「写る・映る」ではなく「移る」・その2」という記事があるので、よろしければお読みください。私にとって、とても愛着のある記事です。

 次回は、今回の引用文で私がはっとした部分についてお話しします。今回触れる予定でお話しできなかった「影」についての話です。

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