文字を見る/文字を読む、文字を書く/文字について書く
今回は長い引用をします。引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。長い記事になりましたので、お急ぎの方は、とりあえず以下の目次の「*まとめ」からお読みください。
*引用
物に立たれて
十二月二日、水曜日、晴れ。
深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、ひょんな場所だろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えない客がある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんな客はあるものだ、と。
それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
それはたまらないぞ、と腕をもうひとつはっきりと伸ばして大きく振ると、車はつと速度を落として寄ってきた。客の姿ににわかに気がついたわけでなく、客のほうの目に、閑散とした未明の道路を来る車のライトは、停まるとも過ぎるとも、ぎりぎりまでその表情は読みにくかった。よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。ガラスが曇ったので、空気を入れ換えたばかりのところなもので、と。いやあ、外に立つのにくらべれば、極楽だあ、とそれに頓狂な調子で答えて、鞄を膝の上に抱き寄せると、ジッパーの口の端からすっと、鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。
「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。(……)
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・pp.259-260・太文字と(……)は引用者による)
*二人の運転手
誰かが話したことを鉤括弧でくくると直接話法と言い、鉤括弧でくくらないと間接話法と言うそうですが、私は文法用語には詳しくありません。大切なのは用語ではないと考えています。
学術用語や専門用語はそれを知ることで、わかった気分に陥りやすいので要注意です。大切なのは文章をよく読むこと(眺めること)ではないでしょうか。
いずれにせよ、古文と呼ばれているかつての日本語の文章では、鉤括弧や句読点といった約物がなかったことを思いだしましょう。ある意味、引用文はそれに近い書き方がしてあるとも言えそうです。
*
引用文を眺めていると、「 」が少ないですが、(……)の後にはもっと出てきます。どうか、本をお買い求めになってください。とはいえ、本がなくても読めるように書いていきますので、ご安心ください。
*
引用文を眺めていると、太文字がほどこしてある「運転手」という文字が三つあるのに気づきます。
1)「とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。」
「話したのを聞いたことがある。」と終わっていることから、日記の書き手が以前にどこかで出会った運転手の話だとわかります。「十二月二日」の深夜に出会う運転手ではありません。
その以前に出会った運転手の話が、第一段落の「、という。」と「、と。」、そして第二段落に「、と。」というふうに引用されています。
2)「寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。」、「「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。」
これが、「十二月二日」に書き手が出会った運転手です。
*
以上、二人の運転手が出てきます。「十二月二日」以前に書き手が出会った運転手と、「十二月二日」の深夜に出会った運転手ですから、時も場所も人物も異なるわけです。
それなのに同じ「運転手」という言葉が当てられているのです。素っ気なく、です。説明的な修飾がありません。つまり、異なる人物に同じ言葉が素っ気なく当てられているのですからと混同しやすいのではないかと思います。
*二人の「運転手」
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った運転手。
・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った運転手。
この二人に書き手の心理が重ねられている気がします。書き手は相手に染まりやすいのです。ともぶれ(共振)しやすいとも言えます。
*三人の「客」
今度は、引用文にある三種類の「客」について説明します。引用文では「客」という文字というか言葉にも太文字をほどこしてあります。
1)「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、」から「そんな客はあるものだ。」
この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」です。
2)「それはたまらないぞ、」から、「鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。」
一方で、この段落の「客」は、「十二月二日」の深夜の書き手を指しています。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」です。
3)「「いま、K病院まで、客を運んだその帰りなんですよ」と運転手は言った。」
他方、この一文にある「客」は、「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」です。
*
「客」 ⇒ 「客」 ⇒ 「客」
「客(きゃく)」は「客(まろうど)」でもあります。「まろうど」とは「まろぶ・転ぶ・転がる」存在です(ここは掛詞つまり洒落です、私は言葉と文字を転がすのが好きなのです)。三人の(三種類の)「客・まろうど」という言葉(語)の「まろぶ」さまは、語(文字)がその意味とイメージに擬態しているかのように感じられます。
*
*二人の「運転手」
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った「運転手」。
・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った「運転手」。
*三人の「客」
・「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」。
・「十二月二日」の深夜の書き手を指す。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」。
・「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」。
*「運転手」、「客」、「姿」、「人影」
引用文に出てくる人物に注目すると、言葉で指される形で、日記の書き手、二人の「運転手」、三人の「客」がいるのですが、あと二つ付け加えるべき言葉があります。
・「よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。」
上の引用箇所に出てくる「姿」は、書き手が「十二月二日」の深夜に乗ったタクシーの「運転手」から見た書き手を指し、「私の姿」と書き換えることもできそうです。
同じ引用箇所に出てくる「人影」は、タクシーに乗りこんだ書き手が車窓から歩道に目をやって探している「架空の人物」だと取れます。
引用箇所はこれで一センテンスですから、長いと感じる人もいるにちがいありません。このセンテンスは、古井由吉の文章の特徴がよくあらわれていると私は思います。
日記体の文章の一節ですから、書き手が主語だということはわかります。「私」がどこかにあってもいいセンテンスです。でも、一人称の代名詞はありません。
上で述べたように「姿」が「私の姿」と書かれていれば、いくぶん読みやすいかもしれません。でも、そう書かれていないのです。
また、主語が変わっているところで二つに分けることもできたしょう。
つまり、
・「よろこんで乗りこんだあと、それにしてもひと気もない道端でひとり大騒ぎする姿は、車の内からは妙なものに見えただろうな、と前方からたぐりこまれてくる歩道に人影を探す目をやり、なにか言訳をしなくてはいけないような、言訳をするのも変なような、落着かぬ心持でいるうちに、」
と
・「寒くはありませんか、と運転手のほうから声をかけてきた。」
の二つに分けることもできたセンテンスなのに、これで一文なのです。
途中で主語が変わっていますが、書き手の視点が運転手に傾いている(染まっている・ともぶれしている)ために、つながっていても違和感は覚えません。
よく読むと不思議なセンテンスです。妙な言い方になりますが、俳句とか連歌とか付合(つけあい)を感じます。折れているとか転じている感じがするのですが、それでいてつながっているのです。
「いやあ、外に立つのにくらべれば、極楽だあ、とそれに頓狂な調子で答えて、鞄バッグを膝の上に抱き寄せると、ジッパーの口の端からすっと、鞄の内に溜まっていた冷たい空気が流れ出た。」
ここもそうです。二つに折れています。その転じるさまが、長めの俳句のようだと私は感じます。「鞄」という物が分身(あるいは愛玩動物・ペット)のようで、くすりと笑う自分がいます。「物に立たれて」いるのではないでしょうか。
*
ここまでを、整理しましょう。
*二人の「運転手」
・「十二月二日」以前の深夜に書き手がどこかで出会った「運転手」。
・「十二月二日」の深夜に書き手が出会った「運転手」。
*三人の「客」
・「十二月二日」の深夜より以前に、書き手が、どこかのタクシーの運転手から聞いた話に出てくる「客」。
・「十二月二日」の深夜の書き手を指す。つまり、「私」と書き換えることも可能な「客」。
・「十二月二日」の深夜に書き手を乗せることになったタクシーの運転手が、ついさきほどまでそのタクシーに乗せていた「客」。
*「姿」
・書き手が「十二月二日」の深夜に乗ったタクシーの「運転手」から見た書き手を指す「姿」。「私の姿」と書き換えることも可能。
*「人影」
・タクシーに乗りこんだ書き手が、車窓から歩道に目をやって探している架空の人物の「人影」。
*多重的な自分、多層的な意識、多元的な場所
引用文とそれに続く「十二月二日」の日記体の文章を読んで、私の頭の中に浮んだ(心に抱いたので)のは、次の言葉とそのイメージです。
(自分の)分身たち、ともぶれ・共振、相手に染まりやすい人物、複数化された自分(意識)、多層的・多重的な自分(意識)、多元的な場所――。
この文章を書いている書き手は、どこにいるのでしょう?
日記の書き手は、
・記憶の中にいる、話をしてくれた二人の「運転手」たちの心理に分け入り、
・その「運転手」の話に出てくる三人の「客」たちに、その夜に道路端に立った自分を重ね、
さらには、
・乗りこんだタクシーの運転手の目になって、道路端にいるかもしれない自分と同じ立場の人物(自分の分身とも言える架空の人物)まで目で探している、その時の自分に、今の自分(日記を書きつつある自分)を重ねている。
そんな気がします。
私は、次の一節を思いださずにはいられません。『妻隠』で、作品の視点的人物である寿夫(ひさお)が熱にうなされていたときの自分を回想している箇所です。
そんな事が一晩じゅう繰返された。ときには彼はいくつもの場所に同時にいるような気がした。すると彼はもうどこかにいるという確な感じの支えをはずされて、途方もないひろがりの中に軀ごと放り出され、自分のコメカミの動悸を、ただひとつの頼りとして、心細い気持ちで聞いていた。動悸の音を細々と響かせて空間はどこまでもひろがっていき、四方に恐ろしい深みをはらんだ。しかも、その空間のどの部分も、それ自身は空虚でありながら、ちょうど大きな岩の中に閉じこめられた紋様のように、永遠で、そのくせどことなく淫靡な相貌を帯びている。
(古井由吉『妻隠』(『杳子・妻隠』新潮文庫・所収)p.196)・太文字は引用者による)
深読みできそうな細部に満ちた段落です。深読みかどうかはともかく、そこに書かれているイメージは、上で引用した『仮往生伝試文』からの文章の構造(つくり)とよく似ていると私は感じます。
*
大切なのは、この日記体の文章が、日記ではないことです。小説なのです。もしも日記であれば、その日の出来事の報告であるとも言えます。
そうではなくて、日記の書き手を装ったこの小説の語り手は、さらにはこの小説の作者は、言葉の中にいるのです。文字の世界にいるのです。
*文字を見る/文字を読む
上で触れた「客」(一文字)と「運転手」(三文字)という文字と文字列を「見る」のは簡単ですが、「読む」のは難しいと言えそうです。
・文字を見る:「いまそこにあるもの」を目で見る。文字の形と姿を目で見る。一瞬でできる。
・文字を読む:「いまそこにないもの」を心に抱く。文字の音と意味とイメージを心に抱く。時間がかかる。
そんな気がします。
*文字を書く/文字について書く
次のようにも言えそうです。
・文字を書く:文字(文字列・文・文章)をうつす(写す・映す)。複製である文字を、紙面に手書きで筆写(書写)したり、機械や器械の画面に映す(たとえばパソコンやスマホで)。文字を複製する/引用する。
・文字について書く:文字(文字列・文・文章)を見ることによって読み、そのさなかに心に抱いたことを文字(文字列・文・文章)に置き換える。文字によって心に抱いた文字ではないものを文字に置き換える。
*「客」と「運転手」について書く
今回は、引用文にある「客」と「運転手」という文字(文字列)を「見る」ことによって「読む」、そしてその文字(文字列)を「書く」(映す)とによって、その文字(文字列)について「書く」(映す)というかたちで記事を書いてみました。
*まとめ
ややこしくて長い記事にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。以下は、今回の記事を短くまとめたものです。
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引用した古井由吉の小説の一節では、三人の異なる人物に同じ「客」という文字(語)が当てられています。さらには、二人の異なる人物に「運転手」という文字列(語)が当てられているのです。あっさりと書きましたが、いま述べたことは文字を見ているだけは読み取れません。じつに込み入ってややこしいからです。
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大切なのは、この日記体の文章が、日記ではないことです。小説なのです。もしも日記であれば、その日の出来事の報告であるとも言えます。そうではなくて、日記の書き手を装ったこの小説の語り手は、さらにはこの小説の作者は、言葉の中にいるのです。文字の世界にいるのです。
さもなければ、こんなややこしい作りの文章で日記を書くわけがありません。でも、好きなのです。そんな古井由吉を私は心より尊敬してもいます。こういう文章が好きだから、古井の小説を「読んでいる」のです。「眺めている」とも言えます。古井の文章は眺めるのに適しているというのが私の持論です。
*
書かれた文字を見て写すのは簡単です。たとえば、古井の小説の解説や帯の文章を見て(あるいは読んで)、それをほぼそのまま(あるいは少し文言を変えて)書く、つまり写すのは簡単であるにちがいありません。それで読書感想文ができるはずです。
書かれている文字について書くのは難しい作業です。たとえば、引用した古井の文章にある文字について書くのはややこしいし面倒でもあります。
客 ⇒ 客 ⇒ 客
運転手 ⇒ 運転手
上のように書かれている文字を見て写すのはきわめて容易ですが、それぞれの文字と文字列について書くのはかなり骨の折れる作業になります。
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何を言いたいのかと申しますと、引用した古井由吉の文章をちゃんと「読む」のも(私の場合には、ちゃんと「眺める」のも)、ちゃんと読んだ文章についてちゃんと書くのもきわめて難しいのです。少なくとも私にとっては。ようするに、問題は私にあります。言い訳と愚痴を長々と書いて申し訳ありませんでした。
今回は長い文章になってしまいましたが、これまでと同様に「小品集」というマガジンに収めます。小品(短い文章)を投稿したいという当初の気持ちは変わらないので、今後はなるべく短くするように努めます。
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