私小説 003
私は、私である。
私は、「私」である。
私は、「私」という文字である。
*
上の文を読むというか眺めてみると、どうやら私が私ではないらしいと感じる人もいるにちがいない。三番目の文が上の二つ文の違いの説明にも見えてくるかもしれない。
私というものと私という文字の違いを訴えているらしい、と。
私という「もの」と私という「文字」の違いを訴えているらしい、と。
「私」という「もの」と「私」という「文字」の違いを訴えているらしい、と。
*
冒頭の三つの文を音読してみると、ある問題が起きるのに気づく。消えてしまうのである。何がって、「 」が。
「 」は鉤括弧と呼ばれることもある約物の一つというか一組だが、この「 」をどう音読に反映するかという問題が生じる。
たとえば、第一文と第二文は、音読すると同じになってしまう。
*
私は、私である。
私は、括弧私括弧閉じるである。
私は、括弧私括弧閉じるという文字である。
以上のように音読するのも一案だろう。
ただし、聞かされたほうは顔をしかめるのではないか、と心配にならないこともない。
こうした音読は現実的ではないのである。少なくともオーディオブックでは見られない。いや、聞かれない。
さらなる心配もある。上のように音読したところで、冒頭の三つの文が音声として正確に反映されていないのではないか、という疑問が浮ぶ。
消えてしまうからである。何がって、「、」と「。」が。さらには、改行というか一行空けが。
こういう心配は文字(とりわけ印刷された文字列や入力された文字列)を読む習慣が一般的ではなかった昔々――むかしむかしなんて大雑把な言い方で失礼――にはなかった。
*
私は読点私である句点
改行して一行空ける
私は読点括弧私括弧閉じるである句点
改行して一行空ける
私は読点括弧私括弧閉じるという文字である句点
改行して一行空ける
仮に上のように音読して、それを聞いた誰かに書き取ってもらうならば、その音読がオリジナルの六文を正確に反映しているかどうかが分かるかもしれない。
この時代に、そんな気の長い相手がいればの話だが……。
なお、漢字かひらがなかという表記の違いや、書体やフォントや文字の大きさの差異や、文字の載っかる媒体の差違といった点には、ここでは踏みこまないでおく。
文章の印刷や文字を主体とするデザインの分野においては、今挙げた点について、それ相応の指示の仕方があるにちがいない。
この場合、指示する相手は機械やシステムである。杓子定規な相手には杓子定規な指示が必要になる。いい加減で適当な指示は通用しない。
*
文字は音声としての言葉を反映しない。置き換えたつもりでも消えてしまうものがあるし、逆に付け加わるものがある。
音声としての言葉は文字を反映しない。置き換えたつもりでも失われてしまうものがあるし、逆に不意に立ち現れるものがある。
文字と言葉は別物。代りは代りでしかない。両者を同じと見なすためには抽象する(故意にあるいは無意識に、捨てる、見落とす、気づかないでおく)しかない。
ヒトの知覚および認識の基本は、「捨てる、見落とす、気づかないでおく」。
*
文字と言葉(音声)と事物は別物。
似ても似つかぬ別物どうしをつないで似ているとか同じだと決めつけて、意図的に体系的かつ組織的に見間違える(また聞き違える)のは、ヒトだけ。
みんなで見間違えば、こわくない。それどころか壮大な文明になる。2000年問題を乗り越えて地球の気温を上げるほどの文明になる。
ヒトの決めた決まり(壮大なまぼろし)に異議を唱える者は人でなし。異議を唱えるのはヒトとしての不幸。
私は私。私は文字。私は猫。
私は「私」。私は「文字」。私は「猫」。
*
猫は猫である。
猫は「猫」である。
猫は「猫」という文字である。
*
猫は猫ではない。
猫は「猫」ではない。
猫は「猫」という文字ではない。
*
猫は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
猫という文字(そして音声も)は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
*
私は、私ではなく、私に似ていないにもかかわらず、私だとされて、私としてまかり通っている。
「私」は、私ではなく、私に似ていないにもかかわらず、私だとされて、私としてまかり通っている。
私は私で掬えない。私で私は救えないし、おそらく救われない。
*
私は私。私は文字。私は猫。
私は複製。私は引用。私は金太郎飴。
◆
体調を考慮し、リアクションはできなかったり、遅れがちになります。申し訳ありません。
