地球は大きな日時計(時間・時刻・時計・01)
「時間・時刻・時計」という連載を始めます。きっかけは以下の文章です。
時計は見えない時間を時刻として表示するものです。
時間から逃れられる人はいません。時間は私たちをじっと見張っている、つまり、見入っているのです。
時計がある限り、私たちは時間に「見入られている」ことになります。
「魅入られている」と言うべきでしょう。「取り憑かれている」と言っても大差はなさそうです。
目に見える時間を表示する、目に見える時計という物で、私たちは目に見えない時間をやりすごしている。そんな気がします。
(拙文「鏡がある限り、文字がある限り」より)
引用文とほぼ同じことを「見えないはずのものを見ようとするとき(人のつくるものについて・05)」でも書いたのですが、私にとって今最も関心のあるテーマの一つが時間なのです。
とはいうものの、時間は見えないので、とりあえずは時刻と時計という目に見えるものを取っ掛かりにして話を進めていくつもりでいます。
地球は大きな日時計
あなたは時(とき)を見たことがありますか? 聞いたことがありますか? 触ったことはあるでしょうか? 嗅いだことは? 舌で味わったことは?
この連載では、時計に表示される見える時刻以外に、見えない時間というものを、五感などの知覚を頼りにして、できるだけ具体的に、つまり自分の問題として考えていくつもりです。
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私はこの星が大きな日時計ではないかと思うことがあります。日が照っていれば影があちこちに見られます。影は刻々と動いているみたいです。移ろいのなかにあるようです。
でも、その動きは感じ取れません。決して静止していないであろう影に、私たちは追いつけないようです。時と同じく追いつけないのです。
時に追いつくどころか、私たちは時に追われるしかありませんが、もしかすると、影にも追われているのかもしれません(光によってできる物や人の影だけでなく、鏡に映っている姿も影です)。
時の影、影の時――。時を相手にするとか、時を考える、それは影を相手にし、影を考えることなのではないでしょうか。
いずれにせよ、見えない時を相手にできない以上、見える影を手掛かりに探るしかなさそうです。
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どうして影が移ろい動くのかはよく分かりません。お日さまとこの星の動きが関係していると学校で習った記憶があります。理屈はよく覚えていません。
影が刻々と動くのは、太陽と地球の動きと連動しているようですが、天体の動きとは関係のない時(とき)――そんなものがあればの話ですが――と連動しているとも言えそうです。
何か主となる原因があって、それに連動して一斉に起きるかたちでの時間という現象があるというよりも、時間は多発的に(おそらく無数に)起きている。そんな漠然としたイメージもあります。
いま述べたことは、物理的な意味での時間というより、人にとっての時(とき)という意味で言っているのですけど。
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地球は大きな日時計――。
いま居間にいますが、窓から差しこむ日の長さ、つまり日の当たっている部分の長さは季節によって変わります。日の当たっている部分の位置は時刻(時間の推移)とともに移ります。
とはいうものの、日の当たっている部分や影を見て時を知ることはありません。時計を見ます。
大昔の人たちは、太陽の位置や、日向や影を見て時を知ったと学校で習った記憶があります。日時計というものを頼りにしていたとも教わりました。
要するに、時を見て知ったらしいのです。いまも私たちは時を見ていますが、時計を見ているというのが正確な言い方でしょう。
時間を見る、時刻を見る、時計を見る
「時(時間)を見る」と「時刻を知る」と「時計を見る」――どれも同じみたいですが、その意味は大きく異なる気が私にはします。
・時(時間)を見る:
時間の推移の結果としての森羅万象の「あらわれ」を見る。「あらわれ」とは「現れる・表れる・顕れる」という現象の結果として目に映るものなのでしょうが、わくわくするテーマです。
自然は「とき」の「しるし・印・徴・標・験」に満ちていると私は感じることがあるのですが、その「しるし」とからめて考えてみたいと思います。
・時刻を見る:
時計(アナログ時計やデジタル式時計だけでなく日時計や砂時計や水時計などさまざまな種類の時計という意味です)が表示する時刻(時間の推移の結果による「あらわれ」の一つです)を見る。
・時計を見る:
時刻を見て知る以外に、たとえば暇なときや人を待っているときに、あるいはなんとなく時計をちらちら見たり、じっと見つめる。
そうやって時間を見過ごす、やり過ごす。出会っているはずなのに見えない相手。すれ違うという、かたちで会うしかない相手。
いまここでは見落としてしまう相手。おそらく記憶としてしか相手にできない相手。
私は誰かや何かを待っているとき、自分が何に待たされているのか不明になる時があります。
待っている人や物や事が頭から消えて、そこに見えないはずの時間が占めているような感じ。
以上は大雑把なイメージなのですが、この連載では、いま述べたことについてもう少し書いてみたいです。
時を知る、時を見る
日時計と言えば、お日さまのつくる影や陰ですが、人のつくった影(人工の陰にはあまり関心はありません、影を厚遇して陰を日陰者扱いするつもりはないのですが)には特徴があります。
人のつくった影には枠があるのです。フレームとも言います。写真や映画には枠があります。写真には空間的な枠がつきものですが、映画の場合には時間の枠もあります。
そもそも、フィルムにある枠だけでなく、像をうつす紙やスクリーン(銀幕)にも枠というか限度があります。
こうした枠は自然の影にはなさそうです。あったとしても、人にとってはそうした枠は意味をなさないのです。というか、意味は人の頭のなかにしかありません。
人は自分や利害に関係のありそうな枠、つまり意味の感じられる枠にしか関心を示しません。これは人情の問題ですから致し方ないことです。これでも私は人の子ですから、その点はよく分かります。
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話を戻します。
大昔の人たちが太陽や日向や日陰や物の影を見て時を知った。これはその通りだと思うのですが、ちょっと違うような気もします。
いまの私たちだと、たとえばお日さまがほぼ頭上にあるのを見て、ほぼ正午、つまり昼の十二時だと知りますが、大昔の人たちは、十二時だとは思わなかったはずです。
「十二時」とは、時計を見て時を知ることに慣れている人でなければ、出てこない発想だと思います。
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日時計はどうでしょう? 日時計がどれだけ一般的なものだったのかは知りません。
大昔の上流階級から庶民(あるいは奴隷)に至るまで、日時計による時を日々常に意識して生活していたのかを知らないという意味です。
どうなんでしょう?
日時計が一般的なものではなかった。つまり、時を十二とかその他の数字で分けて認識することが人びとの間で共有されていなかったと考えてみます。
その場合に、太陽や日向や日陰や物の影を見るという行為は「時を知る」とは異なる認識だった気がします。
時という概念を身につけている私たちには想像しにくい感覚で生活をいとなんでいた。そんなふうに私には思えてなりません。
ひょっとすると、大昔(大雑把な言い方で申し訳ありません)の時は自分のなりわいの個々の仕事と結びついたものだったのかもしれません。
たとえば、お日さまの位置を見て、「いまは○○する時だ」とか、「もうすぐ○○しなければならない時が来る」みたいに。
時は、「十二時三十七分」とか「12:37」とか「○月○日」みたいに、刻まれた数字ではなかったのではないか、と想像します。
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当時は時間や時刻という枠(思考の枠組み)がなかったのではないかという意味です。それは、人びとが見ていた影が、人工のものではなく自然のもの(さきほど上で述べた「とき」の「しるし・印・徴・標・験」)だったからだという感じがします。
枠を心に持ってしまった私たちには、そうした「しるし」は知りえないことなのかもしれません。
もしも、かつて時という枠がなかったとしても、私たちはその「かつて」にも「時という枠がなかった」にも戻れないし、知りようもないにちがいありません。
ただし、想像ならできます。ここでは想像しましょう。
ということで、次回は大昔には「時(時間)」はどのようにとらえられていたかを想像してみます。調べるのではなく想像してみます。
知るより考える。考えるより思う――。
いつもどおり、このスタンスで連載をしていきます。肩の凝らない読み物を心がけます(ほんまかいな)。
