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お日さまと太陽

 拙文「人は存在しないもので動く」の続きです。その記事を要約してみます。

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 言葉と文字は、いまそこ(ここ)に「ある」ことで、いまそこ(ここ)に「ない」ものを指し示したりほのめかす仕組みです。

「ないもの」を「ある」とする
「ではない」を「である」とする
「ないもの」が「ある」という振りをする
「ではない」が「である」という振りをする
「(で)ない」ものの「(で)ある」という振りによって、人は動く

 というわけです。

 ここでの「動く」とは身体の動きだけでなく心の動きでもあります。言葉(音声)、文字、しるし、絵、映像(写真・動画)に人は振りを見たり感じることで動くのです。

 振りを見たり感じるためには、言葉を音声の連なりとして、文字を点と線からなる形や模様として、しるしを模様や形として、絵を絵として、映像を映像として受けとめてはいけません。振りとは、いま列挙した媒体そのものではないからです。

 振りは、それを演じる媒体(言葉(音声)、文字、しるし、絵、映像(写真・動画)のそのものの動きや形をなぞる人の身体や心の動きだとも言えます。

 大雑把な言い方をすると、振りとは意味なのです。ただし、固定された一様で一定の意味ではなく、移ろいとしてある動きをともなう多様で不定の意味です。

 お急ぎの方は、以下の目次の「お日さまと太陽」「きらきら、ぎらぎら」からお読みください。その二つの章が読みやすいと思います。


語義/意味、身振り/振り


 音の連なりである言葉、点と線からなる形であり模様である文字――。そうした意味での言葉と文字の語義と身振りについての話をします。

 ここでいう語義とは、目に見えなくておそらく人の頭の中にしかない意味とは違います。語義は辞書に文字として見えるかたちであります。人の外にあるのです。

 ここでいう身振りとは、文字であれば目に見えるものです。音声である言葉であれば響きでしょう。

 さらにいうなら、文字を書くさいの手と指と筆記具(キーボードを含みます)の動きであり、言葉を口にするさいの口、舌、唇、歯、声帯、身体の動きや震えです。

 一方の振り(身振りではなく)は、言葉と文字の動きや形をなぞる各人の身体や心の動きだと、ここでは考えています。各人の中で起きることです。人それぞれであり、他人には見えません。そのために曲解や誤解や無理解が起きます。

 上で述べた「語義/意味」と「身振り/振り」は、なんの専門家でもない私が勝手にイメージしていることですが、細かく分ければ次のように言えます。

・語義:見える、聞こえる
・意味:見えない、人の頭の中にある

・身振り:見える、(震えや響きや口調・強弱・抑揚として)聞こえる
・振り:各人の身体や心の中で起きる

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 まとめてみます。

・言葉と文字の語義:
 語義、定義
 静的
 型
 たてまえ
 公の文書、記録
 固定や一本化を指向する
 標本(ピン留めされたり、ホルマリン漬けにされている) 
 本や書物と相性がいい
 権威と親和性がある

・言葉と文字の身振り:
 身振り、動き
 表情
 人をどう動かしているか・人にどのように働きかけているか
 ありよう
 うつろい、浮遊、不定、多様
 字面、顔、かたち
 語感、語呂、響き
 日常、生活
 個々人による実況中継
 生き物
 常時更新
 ネット上の文章と相性がいい

 以上が、語義と身振りという言葉をめぐっての私のイメージです。

愛と「愛」という言葉と文字


「〇〇とは何か」と疑問に思った時には、私は〇〇という言葉の使われ方を観察します。たとえば、「愛」という言葉(文字)を国語辞典で調べることもあります。

「愛」とは何かと考えるのは至難の業ですが、それは「愛」が抽象だからです。一方、「愛」という言葉と文字は、具体的に口で発したり耳にしたり、文字として書いたり見たり読んだりできます。

 愛とは、人にとって言葉であり文字なのです。愛という言葉と文字を学んだから、「愛とは何か」と考えるのだ言えばわかりやすいかもしれません。

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「愛とは何か」についての議論や疑問が起こるのはどうしてでしょう? なぜ、答えが出ないのでしょう? 

「愛」という言葉と文字が空っぽの器だからだと私は考えています。

 愛というものがあるから、人は愛と名付けたのではありません。とりあえず、見切り発車で「愛」と口にし文字にして、「ところで、愛って何なの?」と疑問に思っているのです。

 ひょっとすると、愛とは何かを考えるために、「愛」という言葉をつくったのかもしれません。正義も、美も、死も、真理も、事実も、AIも、です。

(半分)冗談はさておき、人は世界(宇宙でも現実でも森羅万象でもかまいません)を言葉と文字として「わける」ことで、「わかる」のではなく「わかったつもりになる」とか「わかったの振りをしている」のだと私は考えています。

〇〇と〇〇の代わり


「〇〇のつもり」と「〇〇の振り」ですから「〇〇」ではないわけです。だから、議論や疑問が果てしなく起こるのでしょう。

 それは、〇〇が〇〇そのものではなく、〇〇という言葉であり文字、つまり空っぽの器だからと考えられます。人は〇〇の「代わり」である言葉と文字(数字や記号も含みます)をつかう以上、〇〇にはたどりつけないという意味です。振りや代わりで、そのものにたどりつこうというのは虫のいい話だと言うべきでしょう。

 たとえば、地図という現地の「代わり」をもちいて、未知の現地にたどりついたとしても、着いたとたんに、その場所や風景やそこにある物たちを言葉や文字という「代わり」(自分が慣れ親しんでいる既知のものです)に置き換えないことには人は安心できません。

 地図を、予測や予想とか見取り図とか設計図とか予定表とかシナリオとかシミュレーションとか仮説か実験としても、同様のことが起きそうです。それらは、たどりつこうとするもの(未だないもの・来るべきもの)の「代わり」でしかありません。

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 空間を処理しているはずの地図だけでなく、時間を対象にしているはずの年表や歴史書もそうです。過去を記述したものとされていますが、その過去とは未知なのです。未知の代わりに既知で記述しただけですから、やはりいまここにある「代わり」にちがいありません。

 あと、いわゆる「見える化」されたものも、そうでしょう。代わりでしかありません。はい、見えないものが見える化されたのですね、それはすごい、なんてあっさりと受け入れることは私にはできません。分からず屋なのです。

 あと、「仮想〇〇」とか、「人工〇〇」も、そうです。「仮想ではない〇〇」や「人工ではない〇〇」とは似ているかもしれませんが(似ているように人がつくったのですから似ているはずです)、しょせん別物であって、これも一種の代わり(代用物)だと言えるでしょう。

 代わり、代理、代理人、代表、代用物、代理品、似せたもの、そっくりなもの、にせもの――。

 代理をもちいる限り、その代償を受け入れるべきなのです(私たちの代理人であるはずの公務員や議員で考えるとわかりやすいかもしれません)。代わりや代理で済ましておいて澄ましている場合ではないということでしょう。代償は払わなければなりません。

 代理をつかうのは便利なのですが、代理使用の代償は、意外に高いと私は考えています。というか、人類とか地球レベルで、その付けが回ってきていると感じています。

空っぽの器


 さきほどの「愛」という言葉と文字が空っぽの器だという話に戻ります。

「愛」は抽象的なものを指す言葉ですが、「太陽」という具体的な物を指す言葉の場合には、私は国語辞典だけでなく、百科事典で調べます。ネットで検索する場合もあります。

「太陽」という言葉の使われ方を調べるのも楽しいです。私の場合には、「太陽」が何かよりも「太陽」という言葉を人がどう使っているかのほうが刺激的に感じられます。

 私にとって、愛も太陽も猫も杓子も、とにもかくにも言葉であり文字なのです。人にとっての世界と森羅万象は、何をさておいても言葉であり文字だと考えています。

 そして、その言葉と文字とは空っぽの器なのです。

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 猫ではなく、猫にはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫としてまかりとおっていて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じているもの。

 これが言葉であり文字です。

 ちなみに、僭越ながら、私、星野金太郎飴も言葉であり文字です。嘘や偽りではありません。いまみなさんがご覧になっている通りです。いまお読みになっている文字を文字通りにお取りになってください。

 あなたの目の前にいる私がホモ・サピエンスに見えますか?

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 星野金太郎飴とは空っぽの器なのです。空っぽの器が言うのですから間違いありません。

 画面や紙面という面上にいるのですから、空っぽなだけでなく薄っぺらいはずです。へらへらしているだけでなく、ぺらぺらなのです。これは日々実感しています。

太陽、バタイユ、Bataille


 太陽と大腸はよく似ているなあ、と私はよく思います。真面目な話です。どちらの文字を見ても、もう片方をつい連想してしまうのです。

 太陽電池を大腸電池に、大腸内視鏡検査を太陽内視鏡検査に読みかえて、にやにやしたり、顔をしかめるなんてこともしています。そのさいには、読みかえたものがどんなものかを想像(空想)するのです。しかも視覚的に。

 あと、陽炎と腸炎も似ています。空似なのに激似、酷似、瓜二つ。瓜と爪も似ています。空似なのに瓜二つ。あと……。

 こういうのは癖になるので要注意です。大変、失礼しました。

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 いつだったか、総合病院の案内で「大腸肛門科」という文字列を見かけて、どきりとしたことを思いだしました。なぜ、びびったのかと言うと、ある書物のタイトルを連想したからです。

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 上の作品はかつて生田耕作訳で読んだことがあります。内容は忘れました。作者はジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)ですが、実は本記事はBatailleという文字がきっかけで書きはじめたのです。

 数日前に、私のXのタイムラインに以下のポストが流れてきて、なるほどそうだなあと思い、リポストしました。

 引用されているバタイユの言葉をグーグルで翻訳させると以下の日本語になりました。

「辞書は、言葉の意味を与えることをやめ、言葉の役割を示し始めるところから始まる。」 — ジョルジュ・バタイユ、「形なきもの [informe]」の項目にて、「批判的辞書」、ドキュマン、7号(1929年)
(翻訳:アラン・ストークルほか)

「言葉の役割」というのは、私がイメージしている言葉の「振り」(上でお話ししたものです)によく似ていると感じました。

 何かで目にした言葉がきっかけでnoteの記事を書くことは、よくあります。他人の言葉や文字が呼び水とか誘い水になって、言葉がつぎつぎと出てくるのです。

 言葉や文字の振りに動かされて書くという感じ。振りは「伝染るんです」(「うつるんです」と読んでください)。私は吉田戦車のファンです。振りについて考えさせてくれる刺激的な漫画だと思います。

お日さまと太陽


 太陽、お日さま、お天道様、おてんとさま、日輪、火輪――。

 こうした言葉と文字たちを、たとえば「太陽」に一本化して、それらを全部同じだと教えるのが、学校教育なのかもしれません。とりわけ、理科や科学の授業はそうでしょう。

 一本化して、一義や固定化を目指すわけです。

 もしそうだとすれば、そうした身振りは、数々の方言の違いを無視して、日本語(あるいは国語)という名前で一本化する身振りによく似ています。

 学問、教科、教育。こうした世界は「同じ」かどうかを基本とします。そそのため、一義的な文章を指向するのです。詳しくは、以下の「「これは同じです」をお読みください。

 いろいろな解釈や意味やイメージは、「教える・教わる」さいには邪魔になるからでしょう。「いろいろな」では効率が悪くなります。「一本化」された「同じ」なほうが断然コスパがいいのです。

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 地球はお日さまのまわりを回る。
 君は僕のお日さまだ。

 上の二文に違和感を覚える人もいれば、覚えない人もいるでしょう。

 おひさま
 お日さま
 お日様

 私は上の三つの表記の違いを気にするほうです。時と場合によって使い分けます。詩歌をつくる人とか小説を書く人なら、使い分けるのではないでしょうか。

 表記の違いや言葉の選択など、言葉や文字の振りにこだわらないと、文芸作品は書けない気がします。

 翻訳もそうでしょう。カズオ・イシグロの Klara and the Sun の邦訳は、『クララとお日さま』(土屋政雄訳)ですが、このストーリーだと『クララと太陽』ではしっくりしません。

『北風と太陽』は、イソップ寓話の一つらしいのですが、これも内容を考えると『北風とお日さま』ではぴんと来ないし、違和感を覚えます。一方に「さま」がついているからでしょう。

 北風と太陽
 きたかぜとたいよう
 北風とたいよう

 調べてみると、こども向けの絵本では、上のようなタイトルがありました。「お日さま・おひさま・お日様」はないようです。

 あと、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」は三語の漢語を用いているからこそ、力強い言葉と文字になっているのだと思います。「お日さま」では迫力に欠けるでしょう。

きらきら、ぎらぎら


 私の語感では、きらきらとぎらぎらでは、お日さまがきらきら、太陽がぎらぎらです。もっとも、きらきらはお星さまやお月さまの輝きを形容するのが一般的でしょうけど。

 きらきら、ぎらぎら
 kirakira、giragira

 ほんの少しの違いなのですけど。

 お日さまは、日(ひ)という文字と音にひかれて、日向(ひなた)とか火(ひ)も連想します(ただし、広辞苑によると「火」は「古形はホ。「日」とは別語」とあります)。

(※語源(知識です)にはとらわれず、言葉の音や文字のかたちの類似や一致(体感です)は、言葉と文字の振りにおいては大切な要素だと考えています。命と言ってもいいくらいです。辞書を読んでいると、言葉が知識や理屈よりもむしろ体感によって移り変わってきたのがわかります。

 語源の解説で、「転じて」、「訛って」、「○○か」(疑問形です)、「約」(連続する音の一部が消えて短くなるということでみたいです)という記述があると、私は生きている言葉のありようを感じて、わくわくします。「うつせみ」が好例です。)

 日は、一日という意味での日でもあります。日は24時間なのでしょうが、日の出日の入りという区切りを思い起こさせる言葉です。そう考えると、1日=24時間という単位が抽象的に感じられてなりません。体感できないという意味です。

 日の出と日の入りで区切られた一日が体感であれば、1日=24時間というのは知識だと言えばわかっていただけるでしょうか。体感は自分の身体が覚えている感覚(体験)であり、知識とは誰かに教わった事(言葉と文字で知っていること)という意味です。

 日が差す、日差し、日が長くなる(短くなる)、日当たりがいい、ひなたぼっこ――。遠くでぎらぎら輝いている感じの太陽と異なり、日は地上に届いて温めてくれる光、手もとや足もとを照らしてくれる光でもあります。ひだまりなんて実にいい言葉ですね。これは体感にほかなりません。

 一方、太陽だと「あつい、熱い、暑い」を連想します。お日さまは「あたたかい、温かい、暖かい」感じでしょうか。

 お日さまと太陽――。この二つの言葉と文字は、私に違った振りを感じさせてくれます。それぞれの振りによって、私の心と身体は異なった動きをするようです。

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 お日さまではなく太陽と言えば、私はこの季節になると以下の映画を思いだします。

 ある人物が別の人物になりすまし、なりきるというストーリーです。まねる、なぞる、振りをする、装う、演じるというわくわくする身振りが出てきます。そうやって「代わり」=別人になっていくのです。

 お日さまではなく太陽がいっぱいの夏のイタリアで。

Plein Soleil(1960) 

 暑いですね。かんかん照り。太陽が「いっぱい」どころか、もう「たくさん」と言いたくなりませんか。

「あつい」ではなく「あたたかい」という言葉を口にできる季節が待ち遠しいです。

 もっと書きたいのですが、体調を考慮して次回にまわします。

(つづく)

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