同語・同義・同音・同字・同イメージを反復する(文字をうつす・01)
「文字をうつす」という連載を始めます。noteで私が投稿している記事は、文字のありようの観察日記なのですが、このシリーズでは複製としての文字のありようを観察していきます。
複製である文字のありようを観察して文字にするわけです。「文字のありよう」とは「人が文字とどのようにかかわっているか」と言い換えることができるでしょう。
現在ではありとあらゆるものやことが文字にされているのは、みなさんがご存じのとおりです。つまり、文字以外のものやことが文字にされているわけです。そして、その文字にされた文字がさらに文字にされていく。その文字の数がどんどん増えていく。
ところで、ここまでの文章で、文字という文字が何回くり返されたでしょう? 同じような言い回しが何度くり返されたでしょう?
このように文字について、または文字のありようをめぐって観察したことを文字にしようとすると、同語・同義・同音・同字・同イメージを反復するという事態におちいります。少なくとも私の場合には、そうです。
反復が気になることもあれば気にならないこともあります。最近では、こうしたくり返しは仕方がないとあきらめるようになってきました。観察している相手に、こちらが擬態してきたのかもしれません。
私の好きな言い方をすると、金太郎飴が金太郎飴を書いているような状態が常態化するわけです。
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「くり返す」をくり返す、「反復」を反復する(※鉤括弧の意味と役割を考えてください、約物はお飾りではありません、文字です、しかも音読の助けとなってもそれ自体は音読できない、音声化不能な文字と言うべできでしょう)。
いま私の向かっているパソコン画面の脇には、古井由吉の『杳子・妻隠』(新潮文庫)があります。さっきまで『杳子』の最終章を再読していたのです。その最終章では、「くりかえす」や「繰り返す」や「反復」という言葉(語)とそのバリエーションが何度も出てきます。
『杳子』にかぎらず古井由吉の文章には言葉やイメージの反復が多く、まともに付きあっていると既視感の洪水に襲われ、目まいや目眩や目舞いどころか眩暈におちいることがあります。それが魅力なのですけど。
それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じこめられているように見えても、外の世界がたえす違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』新潮文庫所収)pp.163-164)
ケーキと紅茶が杳子の憎む反復の中でもっとも屈辱的な反復を、物を食べる時の癖の反復をほのめかして、杳子の前に嘲弄的な表情で並んでいた。
(同上・p.164)
闇が闇の中へ闇を吐き出してどうなると言ったな、言われて俺も何も思い浮かべられなくて驚いたよ、まったく見えないので目がくらくらするという逆もあるんだと、とつぎに会った時に北本は持ち出した。どこからどこまでも一体に闇だったと言って済ませておけばよさそうなものを、昔の人間も余計な言葉を労したものだ、しかし闇が闇の中へ闇を産むというのが混沌というものだ、混沌は世の初めだ、思えないものを人は思おうとする、と言う。太初という白墨の文字が寄せて来て坪谷はそれに反応したらしい。(……)そうだよ、同義反復のようなものだ。人の言葉は詰まるところまで行けば同義反復にしかなりようがない、と北本は苦笑して、(……)
(古井由吉『白暗淵』(『白暗淵』講談社文芸文庫所収)p.110・丸括弧とリーダーを用いての省略は引用者による)
こういうくり返しを、言葉の魔術とか魔法という言葉で呼んでお茶を濁したり、強迫なんていう、もっともらしい言葉に置き換えたくありません。
いずれにせよ、くり返しは意外と気づかないというか見えないものです。引用箇所はそれぞれの作品のなかで重要な意味をもつ部分だというのが私の印象です。
古井由吉は、言葉が言葉であること、文字が文字であることに、きわめて敏感な書き手だったと思います。だから、私はくり返しその作品を読みます。
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何を言いたいのかと申しますと、人は言葉と文字を相手にするかぎり、同語・同義・同音・同字・同イメージを反復する、というかしてしまうということです。それは文字が完璧な複製であるからにほかなりません。
私たちは文字を書くとき、自分が文字をうつしているとはふだんは意識しません。でも、文字にはお手本があり、そのお手本を見て覚えたからこそ、私たちは文字をつづることができるのです。
そのお手本をさかのぼってたどることは現実的ではありません。そのお手本にはさらにお手本があるはずですから。この連載のタイトルである「文字をうつす」はそういう意味です。
私たちは、無意識にそして/あるいは意識的に、無数のお手本を模倣し反復して生きています。学習した結果とか学習の成果とも言えるでしょう。
ようするに「うつす」です。うつるんです。
お手本をさかのぼってたどることは現実的ではない。そのお手本にはさらにお手本があるはずだから――。これは、複製としての/複製である文字だけに言えるのではなく、語としての言葉、音としての言葉、視覚言語と呼ばれることもある身振りや表情についても言えると思います。
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今回の記事は、これまでと同じく、これからも金太郎飴記事を書いていくというお知らせでした。この連載(投稿は不定期になります)は「小品集」というマガジンに収めていきます。
