文字が文字であることを忘れない
以下に書くことは半分冗談(冗談半分でもかまいませんが)だと思ってお読みください(半分は本気だという意味です)。そもそも言葉や文字について書くさいには真剣になりすぎないことが大切だと私は思っています。というか、そういう気持ちで書いています。
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私の数少ない趣味の一つは文字のありようの観察を記録することです。noteで私が投稿している記事のほとんどが文字について書かれています。
そんなわけで、いつも同じようなことを書いている、つまり金太郎飴のような記事になっています。申し訳ありません。
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私が文字のありようの観察日記(noteの記事のことです)をつけて公開している理由を挙げます。
・文字が不思議でならない。
・文字が得体の知れない不気味なものに思える。
・文字は見えるようで見えない。
・ひょっとすると、文字はそれを用いる人には見えないように仕組まれた体系なのではないか。
上の文を読みかえすとあやうく感じられます。あやしいし不気味なのです。そんな文を書いている私がですよ。不気味が不気味について書いている感じ。金太郎飴が金太郎飴を書いているのと似たおもむきがあります。
文字について気になっていることは多いのですが、そのうちのいくつかを思いつくままに、具体的に例を挙げて書いてみます。書いてみますが、冒頭で述べましたように、半分冗談(冗談半分でもかまいませんが)だと思ってお読みください。
馬鹿話だと思って読んでいただきたいのです。じっさいそうなのですから。
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猫ではないのに、猫には似ても似つかないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかりとおっている。
これが「文字」です。くわしく言えば、「猫という文字」のことです。
猫ではないのに、猫には似ても似つかないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかりとおっているものは、なあに? なんてなぞなぞを誰かに言ってみてください。ちなみに、答えは「言葉」でも可としましょう。
ところで、こうなっているのは、このように教育されているからにほかなりません。
・猫というもの(事物)
・猫という言葉(音)
・猫という文字(形)
以上の、まったく別の物(もとは何のつながりもないもの)どうし三つをセットで同じだと教えることが教育です。私はこれを「三位一体」と呼ぶことがあります。
偶然のつながりを習慣化すると当然であったり、ひいては必然に思えたり見えるのです。教育の成果とも言えるでしょう。
次に行きます。
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・猫ではないのに、猫には似ても似つかないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかりとおっている。それは猫という文字。
・雪ではないのに、雪には似ても似つかないにもかかわらず、雪だとされて、雪としてまかりとおっている。それは雪という文字。
・文字ではないのに、文字には似ても似つかないにもかかわらず、文字だとされて、文字としてまかりとおっている。それは文字という文字。
こうなるのは、「猫は猫というものではなく猫という音でもなくて、猫という文字だから」です。雪についても事情は同じです。
「文字だけが文字というものであり文字という音であり、文字という文字だから」にほかなりません。
・猫≠猫というもの、猫≠猫という音(ねこと音読する)、猫=猫という文字
・雪≠雪というもの、雪≠雪という音(ゆきと音読する)、雪=雪という文字
・文字=文字というもの、文字=文字という音(もじと音読する)、文字=文字という文字
上のように書くと文字だけが例外であることが一目瞭然なのです。一目瞭然なんですけど、今ひとつ納得できていない自分がいます。
きっと分からず屋なのでしょう。あきらめています。私の分からず屋歴は長いです。
次に参りましょう。
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黒地に白の文字。
「黒地に白の文字」と書かれた文字が、白地に黒の文字で読まれてしまうし読めてしまう。
白地に黒の文字。「白地に黒の文字」と書かれた文字が、黒地に白の文字で読まれてしまうし読めてしまう。
なんとなく/ちゃんと/なぜか、とにもかくにも読んでしまうのです。
深くお考えにならないでください。これも、教育の成果なのです。黒板をつかった授業を思いだすと分かりやすいかもしれません。
黒板は文字どおりには黒い板ですが、黒とはかぎらず緑のこともありますね。それも教育の成果です。緑の板でも、黒板と呼ばれています。そう教わってきたのです。英語の blackboard の訳語かもしれませんが。
気になったので、複数の英和辞典で調べていると、greenboard というのがあって「緑黒板、緑色の黒板、グリーンボード」という語義が見え、whiteboard には「白板、ホワイトボード」という語義が載っていました。
とにもかくにも、仮に小学校の教室の黒板に
白地に黒の文字。と書かれていたとしても、不思議に感じるお子さんはまずいないだろうと想像しますが、そう簡単には決めつけるわけにはいかないだろうとも思います。人それぞれです。
とはいうものの、もし「あ、『黒地に白の文字』だ」なんて、つぶやくお子さんがいたとすれば、その感性というかユーモアに私は驚嘆するにちがいありません。
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ここで、さきほど「教育の成果」と書いたことについて考えてみます。私の数少ない趣味の一つは文字のありようの観察を記録することなのですが、私の言う(書く)「文字のありよう」とは、「文字というもの・物」であると同時に「文字のこと・事」なのです。
私は文字というものと文字のことを文字にしようとしている。そんなふうに言えますし書けます。
・文字というもの・物:文字の姿・形・ありよう。静的なありよう。文字の空間的なありよう。
・文字のこと・事:出来事・現象・動き・働き(たとえば、文字が音としての言葉の代わりに事物を指ししめすこと)としての文字の事、文字のありよう。動的なありよう。時間の経過における文字のありよう。
このように文字というものや文字のことを文字にするのは難しいとつくづく思います。
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では、まとめに入ります。ここからは真面目に書きましたので、どうか真面目にお読みください。
僕はレモンなら思いきり囓ってみたい。lemon ならギュッとこの手で握って絞ってみたい。檸檬ならただ眺めていたい。
上の文を音読してみてください。誰かの前で読み上げてもかまいません。
その意味やイメージを伝えるのは難しいです。音としては/音では、伝わりません。
レモンも lemon も檸檬もれもんも、あるいは remon も LEMON も檸檬も、ぜんぶ同じだというのが、音声としての言葉の世界の理屈であり論理であり言い分なのでしょう。
または理科や科学の授業でなら、そうした区別は問題にされないと想像します。
・目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問(letters)は始まる。
・目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。
文字には文字の世界が、(音声としての)言葉には(音声としての)言葉の世界があるのではないでしょうか。言葉の世界の語法や文法や理屈で文字の世界の辻褄合わせをしようとしても無理があるという意味です。
逆に、文字の世界のルールで言葉の世界の辻褄合わせをしようとしてもできる部分とできない部分があるにちがいありません。
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文字と言葉の世界をひっくるめて言界と呼ぶことが私はあります。現界(現実の世界)と幻界(思いや夢の世界)と言界(言葉と文字の世界)という自分語を勝手にこしらえて、どれも「げんかい」と読んでいるのです。
で、その三界のうちの、ある界のルールで別の界の辻褄合わせをしようとしても、できる場合とできない場合があるだろうと考えています。勝手に考えていろ、ですよね。
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僕はレモンなら思いきり囓ってみたい。lemon ならギュッとこの手で握って絞ってみたい。檸檬ならただ眺めていたい。
私は上の文が好きで、こうやってわざわざ書いて眺めて楽しむことがあります。文字からなる世界が、音読するとたちまち消えてしまうのが不思議でなりません。不思議と言うよりも哀しいのです。悲しいではなく哀しい。
文字の世界が言葉(音声)の世界では消えてしまうのです。
目をつむっても上の文は頭には(心にでしょうか)、浮んできません。文字を思い描く、思い浮かべる、思い出すというふうに、文字を思いのなかで呼びだそうとしても、簡単なようでできないのです。
文字の世界が思いの世界では消えてしまう。
また、上の文をじっさいにその果物を前にして、文字なしに説明しようとしてもこれは至難の業だと言わざるをえません。上の文で感じる気持ちを文字以外によって誰かに伝えることができないのです。
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私は文字が文字であることを忘れないでいたい。それは文字が文字であることが忘れられがちであるからにほかなりません。
文字が文字であることなど誰でも知っているし分かっているのです。それにもかかわず、人は文字が文字であることを忘れて気づかなくなります。
文字が文字であると意識すると文字が読めなくなるからです。つまり、文字の意味や音(文字を音読する場合の音のことです)やイメージを心に抱けなくなるのです。
通常は白地に黒の点と線からなる模様なのに、文字はまるで透明な存在のように扱われています。ガラス・硝子・ビードロ・ギャマン(いま挙げた四つの文字列も「同じ」だと私は教わってきました)のように。
これは教育の成果だとも言えます。文字が文字であることを意識しないように教え教わり育み育まれるのが教育ですから。上で述べた「三位一体」のことです。
文字は忘れるために覚えるもの。そう言いたくなります。
僕はレモンなら思いきり囓ってみたい。lemon ならギュッとこの手で握って絞ってみたい。檸檬ならただ眺めていたい。
この文では文字が文字であることを文字として私に訴えているような気がします。私は文字です、忘れないでください、と。
