IQ30差の不都合な真実
「IQが20違うと話が通じない」「IQが30違うと会話が成立しない」。
ネットでは、こうした言い回しをかなり頻繁に見かける。高知能者が周囲に話を理解してもらえない理由として使われることもあれば、単に気に入らない相手を知的に劣った人間として切り捨てるために使われることもある。心理学で既に実証された法則であるかのように紹介される場合すらある。
しかし、出所を調べてみると、この説は心理学的に実証された法則ではない。
二人のIQ差を測り、20点あるいは30点を超えたときに会話の理解度や満足度が急激に低下することを確認した、代表的な実験研究は見当たらない。30点説の起源とされる研究は、そもそも成人同士の会話を扱ったものではない。しかも、そこで用いられたIQの数値は、現在のWAISやWISCで使われているIQと同じ尺度ですらない。
では、「IQ差で話が通じなくなる」というのは、根拠のない高知能者の自意識にすぎないのか。
それも違うのではないか。
知的に近い仲間を得られないことによる孤立や退屈、自己抑制は、ホリングワース以来、ギフテッド教育の現場で繰り返し問題にされてきた。一方、平均より低い認知能力を持つ人についても、学校、就労、契約、行政手続、対人関係での困難が、「境界知能」という言葉によってようやく可視化され始めている。
問題は20点か30点かではない。
一定の認知能力差が、会話、疲労、誤解、孤立、就労継続にどのような影響を与えるのか。その現象自体が、まともに直接検証されていないことが問題なのである。
1. 「IQが30違うと会話が成立しない」は心理学の定説ではない
最初に結論を確認しておく。
「IQが30違うと会話が成立しない」という命題は、査読研究によって確立された心理学的法則ではない。「20点差」についても同じである。
成人をIQ差ごとに組み合わせ、会話の理解度、情報伝達の正確さ、会話後の疲労、相手に理解された感覚、苛立ち、発話調整などを測定し、20点あるいは30点に明確な断絶点があることを示した研究は、今回の調査では確認できなかった。
それにもかかわらず、この説には出所らしきものがある。
30点説の源流として挙げられるのが、アメリカの心理学者レタ・ステッター・ホリングワースである。ホリングワースは、極端に高い知能を示した子どもたちを長期間観察し、知的に近い仲間を得られないことによる孤立や、同年齢集団でのリーダーシップの困難を論じた。
その後、高IQ団体プロメテウス協会の会員グレイディ・M・タワーズが、ホリングワースの観察を「コミュニケーション範囲」という一般的な命題へ拡張した。現在確認できる「IQ30差で真のコミュニケーションが不可能になる」という主張は、ホリングワース本人の定式化ではなく、タワーズによる解釈である。
20点説は、これとは別系統である可能性が高い。心理学者アーサー・イェンセンの個人的通信に由来するとされる「±20点の許容範囲」という話があるが、査読論文や著書として公刊された一次資料は確認できない。
20点説と30点説は、最初から同じ説だったわけではないのである。
2. ホリングワースの「30点」は何を意味していたのか
ホリングワースの没後、1942年に刊行された『Children Above 180 IQ Stanford-Binet: Origin and Development』は、当時のStanford–Binetで極端な高得点を示した子どもたちを扱った研究である。中心となる対象は子どもであり、一部について成人期の情報も含まれるが、成人同士の会話を比較した研究ではない。
さらに重要なのは、ホリングワースが使っていたIQと、現代のWAISやWISCで使われているIQが、同じ尺度ではないことである。
当時のStanford–Binetでは、精神年齢を生活年齢で割り、100を掛ける比率IQが用いられていた。実年齢10歳の子どもが15歳相当の課題まで解ければ、比率IQは150となる。
現在のWAISやWISCで用いられるのは偏差IQである。同年齢集団の平均を100とし、通常は標準偏差15の分布上で、どの位置にいるかを示す。現代のIQ130は平均より2標準偏差上、70は2標準偏差下という意味を持つ。比率IQから偏差IQへの移行によって、同じ「100」や「30点差」という表記でも、測定上の意味は異なる。
比率IQには、全得点域に共通する固定的な標準偏差が存在しない。年齢によって精神年齢の一年分が持つ意味も違う。極端な高得点域では、検査の天井、標準化標本の不足、測定誤差も大きくなる。
したがって、ホリングワースの「30点差」を、現代のWAISやWISCにおける30点差、すなわち2標準偏差と読み替えることはできない。
ホリングワースの「IQ180」も、現代の偏差IQで180という意味ではない。現代の検査上の180と機械的に換算できる数字でもない。
この時点で、ネット上の30点説は数値的な基盤を失う。
現在流通している説は、ホリングワースが当時の検査で記述した「約30点」を、現代の偏差IQにおける「2標準偏差」として読み直している。しかし、その換算を正当化する根拠はない。
では、ホリングワースは実際に何を観察していたのか。
タワーズがホリングワース著287頁から引用している箇所では、同年齢集団のリーダーになるためには周囲より知的である必要があるが、差が大きすぎてもリーダーシップ関係は形成されず、約30点を超える差が生じるとリーダーシップのパターンが成立しない、あるいは崩れると述べられている。
扱われているのは、リーダーと被指導者の関係である。
リーダーシップには、相手の関心を理解すること、集団の信頼を得ること、提案を受け入れてもらうこと、行動を組織することが含まれる。会話能力はその一部ではあるが、「リーダーになれない」ことと「会話が成立しない」ことは同じではない。
ホリングワースは、IQ差30点で会話が不能になることを証明していない。
しかも、その30点は現代の30点と同じですらない。
3. タワーズが「リーダーシップ」を「コミュニケーション」へ変えた
グレイディ・M・タワーズの「The Outsiders」は、プロメテウス協会の機関誌『Gift of Fire』第22号に1987年4月に掲載され、1995年に再録された。現在も同協会の公式サイトで全文を確認できる。プロメテウス協会は、極端に高い得点を加入条件とする高IQ団体であり、「The Outsiders」は心理学の査読誌に掲載された論文ではない。
タワーズは、ホリングワースの約30点差に関するリーダーシップ観察を引用した直後に、そこから「異なる知能水準の間には、真正なコミュニケーションが不可能になる限界がある」という含意を引き出した。
ここでは三つの拡張が起きている。
第一に、子どもの集団に関する観察が、成人を含む対人関係一般へ広げられた。
第二に、リーダーシップ関係が成立しないという観察が、真正なコミュニケーションが成立しないという命題へ変えられた。
第三に、限られた事例の長期観察から得られた経験知が、一定の点差を境とする普遍的な断絶法則へ変えられた。
タワーズ自身も、「コミュニケーション範囲」はホリングワースが明示した概念ではなく、彼女のリーダーシップに関するコメントから推論されるものだと書いている。つまり、communication rangeはホリングワースの理論名ではない。タワーズによる再構成である。
ただし、タワーズの文章を、何の観察も含まない単なる妄想として捨てるのも正確ではない。
彼はターマンの高IQ児縦断研究の成人データを独自に読み直し、高知能者の成人後の適応を論じている。知的に近い人々のいる高学歴・専門職環境に入った者、外面的な職業生活と私的な知的生活を分離した者、社会的適応そのものから脱落した者という類型も示している。
タワーズが最終的に強調するのは、高IQそのものが人を傷つけるのではなく、知的ピアを欠いた環境に置かれることが損害を生む、という点である。
これは、本人と環境の適合、すなわちperson–environment fitの問題を、かなり早い段階で言語化したものと読める。
しかし、仮説として興味深いことと、実証されたことは別である。
タワーズは二者のIQ差を操作していない。会話の正確さも、疲労も、相互理解も測定していない。30点の地点で効果が急変することを統計的に確認したわけでもない。
成人高知能者の当事者的経験を、ホリングワースの観察へ接続した非査読エッセイである。
4. 30点説と20点説はどう俗説になったのか
タワーズの30点説は、高IQ団体の機関誌や関係者のウェブサイトを通じて広がった。その後、オンライン掲示板やQuoraなどで、心理学上の「communication range」として紹介されるようになった。
スザンナ・ビルヤネンのQuora回答が、現代の代表的な拡散経路として挙げられることがある。彼女が扱っていたとされるのは20点ではなく、30点、すなわち現代の偏差IQでいう±2標準偏差の説である。
ただし、今回の調査では、該当回答の直接URL、投稿日、閲覧数の内訳までは確認できなかった。「2億5000万回読まれた」という数字も、単一回答の閲覧数なのか、回答者プロフィール全体の累積閲覧数なのか判別できない。
したがって、Quoraを説の起源とみなすことも、特定の回答が2億5000万回読まれたと断定することもしない。
Quoraは、あくまで拡散経路の一つである。
一方、「IQが20違うと話が通じない」という説は、アーサー・イェンセンの2004年頃の個人的通信に由来するとされる「zone of tolerance」と結び付けられることがある。
そこで語られたとされるのは、友人や配偶者として許容できる知能差は、おそらく±20点程度だという推測である。
しかし、今回の調査では、その私信自体を確認できなかった。イェンセンの査読論文や著書に、20点のコミュニケーション断絶説が正式に提示されている事実も確認できない。誰が最初にその私信を公刊情報として紹介したのかも不明である。
仮にイェンセンが実際にそう書いたとしても、それは実験結果ではない。
親しい友人や配偶者に知的類似性があるという観察と、「20点差を超えると会話不能になる」という閾値法則は別物である。
おそらくネット上では、ホリングワースの約30点のリーダーシップ観察、タワーズの30点のcommunication range、イェンセンに帰属される±20点の許容範囲、配偶者や友人の知的類似性に関する研究、高知能者の孤立に関する当事者経験が混線した。
その結果、「心理学ではIQが20違うと話が通じないとされている」という、出所不明の定型句ができた。
20点と30点のどちらが正しいのかを争う意味はない。
どちらも、実証された断絶閾値ではない。
5. それでも知的ミスマッチは繰り返し観察されてきた
ここまでなら、通常のファクトチェックは簡単である。
IQ30差で会話不能という説に、確立された科学的根拠はない。信じるな。
それで終わる。
しかし、それでは問題の半分しか見ていない。
ホリングワースが長期間観察したのは、極端な高知能児が知的に近い仲間を見つけにくく、普通の学校環境では課題が容易すぎ、同年齢児と関心や語彙が合わず、孤立や自己抑制を生じ得るという現象だった。
タワーズがホリングワースから引用する箇所でも、極端な高知能児は他の子どもと遊ぼうとするが、関心、語彙、活動を組織しようとする傾向が共有されず、最終的に単独行動を習慣化する可能性が述べられている。また、成人になれば学会や専門集団などで同類を自分から探しやすくなる一方、子ども期の孤立が成人後の対人習慣に残る可能性も示唆されている。
その後のギフテッド教育でも、本人の能力に合わない教材、同程度の知的関心を持つ仲間の不足、同年齢集団への過剰適応は、繰り返し扱われてきた。
能力別編成や加速教育については、学力面だけでなく、より能力の近いピア集団へ接続できることが社会的・情緒的利益として論じられている。加速教育の研究を整理した『A Nation Deceived』と、その後継である『A Nation Empowered』は、年齢だけでなく学習水準に適合した教育環境を用意することを、研究に基づく介入として扱っている。
また、能力別編成と加速教育に関する長期間の研究を再分析したメタ分析では、特に高能力者向けに設計された集団編成や加速が、学業達成に有効であることが報告されている。
ここで重要なのは、知的ミスマッチが、ネット上の自称高IQ者だけによって語られているわけではないことである。
教師、教育心理職、カウンセラー、保護者も、本人の能力と教材、本人と周囲の関心・能力水準が合わないことで生じる退屈、孤立、低達成、自己抑制を観察してきた。
ただし、ここでも区別が必要になる。
教育現場で繰り返し観察されているのは、「現代の偏差IQで30点差がつくと会話不能になる」という現象ではない。
観察されているのは、本人の認知能力、教材の難度、同年齢集団の関心や処理水準が合わない場合、教育上・対人上の負荷が生じ得るという、より広いミスマッチである。
教師の観察があるから30点説が正しいのではない。
教師の観察があるからこそ、30点説を俗説として切った後にも、検証すべき現象が残るのである。
6. 成人研究はある。しかし知能差による対人負荷を測っていない
高知能者の成人後が、まったく研究されていないわけではない。
ルイス・ターマンの縦断研究は、高IQ児を成人期まで追跡した。数学的早熟者縦断研究SMPYも、若年期に高い数学的・言語的能力を示した人々を数十年にわたって追跡している。
SMPYは1971年にジュリアン・スタンリーによって開始され、現在はカミラ・ベンボウとデイヴィッド・ルビンスキーが共同で指揮している。五つのコホート、合計5000人以上を対象に、18歳、23歳、33歳、50歳、65歳での追跡が計画され、既に多数の成人期研究が公表されている。
そこで研究されているのは、学歴、職業、科学的・創造的業績、関心、価値観、能力プロフィールと進路の関係、教育的介入の長期効果などである。
成人ギフテッドについては、精神健康、人生満足度、配偶者選択、職業達成も研究されている。
つまり、「ギフテッド児は18歳になった瞬間に研究対象から消える」という言い方は正しくない。
成人研究はある。
しかし、研究されている問いが違う。
多くの研究が問うのは、高い能力がどのような学歴や職業を予測するか、加速教育が長期的な業績や幸福を損なわないか、どの能力プロフィールが科学・技術・人文・芸術などの進路を予測するか、高知能者の精神健康は一般人口と異なるか、という問題である。
ぼくが問題にしたいのは、成人同士の認知能力差が、日常的な会話と集団適応に何をもたらすかである。
本人と相手のIQ差、本人と集団平均との差を測り、会話の理解度、説明負担、疲労、自己抑制、苛立ち、見下された感覚、再び話したいか、職場での沈黙や孤立、離職との関係を直接検討した代表的研究は、今回の調査では確認できなかった。
同類交配研究は、配偶者同士の認知能力や学歴が似ることを示し得る。友人選択研究は、類似した者同士が結び付きやすいことを示し得る。リーダーシップ研究は、リーダーと部下の能力差が評価へ影響する可能性を扱い得る。
しかし、それらは「一定のIQ差が会話の負荷を生むか」という問いへの直接回答ではない。
成人高知能者がどれほど成功したかは測る。
どのような相手と、どのような集団の中で、毎日どの程度の認知的調整費用を払っているかは測らない。
この空白を、研究者が意図的に高知能者を見捨てた結果だと断定する必要はない。知能研究、教育心理学、臨床心理学、コミュニケーション研究、組織心理学が、それぞれ別の問いを立ててきた結果、二者間の認知能力差という変数が分野の隙間に落ちた可能性もある。
だが、意図的かどうかにかかわらず、空白があるなら埋めるべきである。
7. ASD/ADHDだけでは説明できない可能性
知能差を持ち出すと、対人困難をすべてIQで説明しようとする危険がある。
実際には、会話がかみ合わない理由はいくらでもある。
ASD、ADHD、社会不安、抑うつ、性格、教育歴、文化、階層、専門知識、年齢、関心、語彙、聴覚処理、相手への好悪。
同じIQでも、共有する知識も関心もなければ会話は成立しにくい。IQが違っても、共通の趣味、明確な役割、具体的な作業があれば、十分円滑に協力できる。
したがって、「この人と話が通じないのはIQ差だ」と個別の人間関係を断定することはできない。
しかし逆に、対人困難をすべてASD、ADHD、性格、コミュニケーション能力の問題へ回収してよい理由もない。
ASD研究では、コミュニケーション困難を自閉症者一人の社会性の欠如としてではなく、異なる認知・コミュニケーション様式を持つ者同士の相互的な不一致として捉える「ダブル・エンパシー問題」が提起されている。
2020年の研究では、自閉症者同士、非自閉症者同士、自閉症者と非自閉症者の混合ペアを比較し、混合ペアのラポールが低く、自閉症者同士では比較的高いラポールが成立することが示された。困難が自閉症者の内部に一律に存在するのではなく、組み合わせのミスマッチによって変化するという結果である。
これは、知能差によるコミュニケーション・ギャップが実証されたという話ではない。
ただし、研究方法上の補助線にはなる。
対人困難は、一方の個人に固定された欠陥ではなく、異なる特性を持つ二者の組み合わせによって生じ得る。自閉症者と非自閉症者の組み合わせを比較できるなら、認知能力の近いペアと離れたペアを比較することもできる。
ASD、ADHD、性格、教育歴、語彙、関心などを測定し、それらを統制した後にも、認知能力差や認知プロフィール差が独立した説明力を持つのかを調べればよい。
IQ差を万能説明にする必要はない。
説明変数の一つとして、最初から排除しなければよいのである。
8. 高い側と低い側の双方に負荷がある
IQ差によるコミュニケーション問題は、しばしば高IQ者側から語られる。
相手に合わせて話を簡単にしなければならない。前提を一から説明しなければならない。相手がどこで理解できなくなったかを常に推測しなければならない。抽象的な話をすると、話が飛ぶ、理屈っぽい、偉そうだと言われる。
こうした負荷があり得ることは理解できる。
しかし、低い側にも別の負荷がある。
相手の話が速すぎる。前提が省略されている。抽象語が多く、何を求められているのか分からない。理解できないことを認めると馬鹿にされそうなので、分かったふりをする。指示の意味を確認できず、同意だけする。相手の苛立ちを感じ、見下されていると思う。結果として、話を聞かない、反応が鈍い、努力が足りないと評価される。
同じ会話が、高い側には「何度説明しても通じない」と経験され、低い側には「何を言っても馬鹿にされる」と経験される可能性がある。
したがって、これは高IQ者の被害者物語ではない。
低IQ者の能力不足だけを問題にする話でもない。
関係的な認知的ミスマッチとして捉えるべきである。
もちろん、差があれば必ず問題が起きるわけではない。高い側が説明を楽しみ、低い側が具体的な知識や経験を提供する関係もある。明確な役割分担があり、課題が適切なら、能力差が集団の利益になる場合もある。
だから研究すべきなのは、「差があるか」だけではない。
どの課題で、どの時間制約で、どの役割関係で、どちら側に、どのような負荷が生じるのかである。
9. IQ70とIQ130――連続分布に引かれた二本の線
認知能力は連続的に分布している。
しかし、教育、医療、福祉では、どこかに線を引かなければ制度を運用できない。
現在の知的障害は、IQだけで決まるものではない。知的機能と適応行動の双方に有意な制約があり、それが発達期から存在することが重視される。
AAIDDは、知的障害を知的機能と適応行動の双方に有意な制約があり、22歳以前に生じた状態と定義している。IQについては、おおむね70、測定誤差を考慮すれば75程度までが、知的機能の有意な制約を示す目安とされる。適応行動には、言語・金銭・時間・自己管理などの概念的技能、対人関係・社会的責任・被害回避などの社会的技能、日常生活・就労・健康管理・移動・安全などの実用的技能が含まれる。
つまり、IQ70だけで機械的に診断が決まるわけではない。
69と71の間に自然界の断層があるわけでもない。
検査には測定誤差があり、同じFSIQでも、言語理解、視空間、流動性推理、ワーキングメモリ、処理速度などの構成は異なる。実生活で何に困るかも同じではない。
その少し上、概ね70台から80台前半までを「境界知能」と呼ぶことがある。これは単一の正式診断名というより、知的障害の基準を満たさない一方で、平均より低い認知能力によって生活上の困難を抱え得る範囲を示す記述的な概念である。
反対側には、ギフテッドの識別にしばしば使われるIQ130がある。
現代のSD15尺度では、130は平均から2標準偏差上に当たる。統計的には分かりやすい。しかし、129と131の間に認知的・人格的な質的断絶があるわけではない。
ギフテッド教育でも、IQだけを唯一の条件とせず、学業達成、特定領域の才能、創造性、教師や保護者の観察などを併用する場合がある。ギフテッドの定義や選抜基準は、国、州、学区、教育プログラムによって異なる。
IQ70も130も、平均から約2標準偏差という意味では対称的である。
しかし、制度上の意味は対称ではない。
下側の70は、診断と福祉的支援の目安として使われる。上側の130は、教育的選抜や特別プログラムへの参加基準として使われる。
そして双方で、線のすぐ外側にいる人が見えにくくなる。
IQ80前後の人は、知的障害とは認定されなくても、平均的な認知能力を暗黙の前提とする学校、職場、契約、行政手続の負荷を受ける可能性がある。
IQ120前後の人は、ギフテッドとして特別な教育対象にはならなくても、所属する集団によっては周囲から20点、30点離れた位置に置かれる可能性がある。
70と130の線だけを見ていると、その中間にいる80と120の問題が消える。
10. 成人には、自分で環境を探せという
子どものギフテッド教育では、能力に合った教材、加速、知的に近い仲間の必要性が語られる。
子どもが通常学級で退屈しているなら、より難しい課題を与える。年齢より上の学年へ進ませる。同程度の能力を持つ生徒を集める。本人の能力と環境を合わせることが、教育的配慮として正当化される。
では、成人になった後はどうなるのか。
適職を探す。同程度の知的関心を持つ友人を探す。専門的な共同体へ入る。配偶者や居住地を選ぶ。
基本的には本人が自分でやれ、となる。
ホリングワースは、成人になれば学会などを通じて知的に近い人を自分から探しやすくなり、孤立問題が緩和し得ると考えていた。一方で、子ども期の孤立が習慣化し、成人後の対人関係に残る可能性にも触れている。タワーズも、知的な同類を得られた成人と、外面的な職業生活と私的な知的生活を分離した成人を区別している。
しかし、全員が大学教授、研究者、医師、法曹、技術者になるわけではない。
そこで、IQ80前後と120前後を同じ枠組みで考える必要がある。
現代のSD15尺度では、IQ80と120は、平均100から同じ20点だけ離れている。どちらも平均から約1.33標準偏差の位置にある。
ただし、困難の形は同じではない。
IQ80前後の人は、文章読解、複数条件の同時処理、抽象的な指示、複雑な契約、状況に応じた判断など、社会の標準仕様そのものから負荷を受ける可能性がある。所属集団を選ぶ以前に、教育、行政、雇用市場の基本的な仕組みが平均的能力を前提としているからである。
一方、IQ120前後の人は、通常、標準的な制度を理解し、利用し、要求へ適応できる。しかし、所属する職場や集団の平均が90から100程度なら、周囲との間に20点から30点の差が生じる。
その環境では、会話の抽象度を落とす、説明を追加する、関心を共有できない、発言を控えるといった関係的負荷が生じる可能性がある。
IQ120は、極端な高知能ではない。
大学、研究職、医学、法務、IT、コンサルティングなどの環境では、特に珍しい位置ではないだろう。その場では本人は平均付近かもしれない。
しかし、別の職場や地域集団では外れ値になり得る。
逆にIQ80前後の人も、具体的な作業、明確な手順、十分な反復、安定した人間関係、本人の経験が生きる環境では力を発揮できるかもしれない。
同じ人でも、環境によって困難は変わる。
80と120を厳密に上下対称とは言えない。120の人には、環境を選択し、移動し、制度を利用する能力が比較的残されている。80の人には、その選択自体が困難な場合がある。
それでも、両方に共通する問いはある。
本人の絶対的な認知能力、相手との能力差、所属集団の能力分布の組み合わせが、適応と負荷をどう変えるのか。
ギフテッド児には環境調整が必要だと認めながら、成人には適切な環境を自分で探せと言う。
境界知能の人には生活上の困難があり得ると認めながら、知的障害の基準を満たさなければ自分で適応しろと言う。
上下の両側で、制度上の明確な線から外れた人の困難が、自己責任化されている。
11. スレッショルド仮説は何を示し、何を示さないか
知能研究には、IQ120前後を境に、知能と創造性の関係が弱くなるというスレッショルド仮説がある。
一定水準までの知能は創造的課題に必要だが、それ以上では、IQがさらに高くなっても創造性をあまり説明しなくなる、という考え方である。
この仮説は、知能と創造性が単純な直線関係ではない可能性を示すものとして、長く議論されてきた。しかし、閾値が一貫して120に現れるわけではなく、創造性をどのように測るかによって結果も変わる。支持する研究もあれば、上位能力層でも能力差が科学的・創造的達成を予測するとする研究もある。
重要なのは、これが創造性についての仮説だということだ。
「IQ120以上ではIQ差に意味がない」という意味ではない。
「IQ120以上の人々は同じ認知能力を持つ」という意味でもない。
「高IQ者間ではコミュニケーション負荷が生じない」という意味でもない。
IQの効果は、何を結果変数とするかによって異なる。
学習速度、複雑課題の遂行、職業達成、創造性、会話、集団適応、精神健康は、同じものではない。
創造性に対するIQの追加的説明力が一定水準から弱まるとしても、会話における抽象化、処理速度、語彙、作業記憶、説明の圧縮度の差が消えるとは限らない。
スレッショルド仮説は、IQ30差説の傍証にはならない。
しかし、知能の効果をアウトカムごとに直接測らなければならないという、本稿の主張を補強する。
創造性について分かったことを、会話へ勝手に移植してはならない。
ホリングワースのリーダーシップ観察を、タワーズがコミュニケーション一般へ移植したのと同じ誤りを繰り返すことになる。
12. 研究は十分可能である
「高知能者は希少だから研究が難しい」という説明は、極端な高IQ者だけを想定している。
IQ160以上の人を何百人も集める必要はない。
研究したいのは、天才特有の孤独ではなく、認知能力差が二者間・集団内コミュニケーションへ与える影響である。
一般人口から、能力差がほとんどないペア、10点程度違うペア、20点程度違うペア、30点以上違うペアを構成すればよい。
絶対水準も分ける必要がある。
80対100、90対110、90対120、100対120、100対130、120対130。
同じ20点差でも、80対100と100対120では同じ結果にならないかもしれない。低い側の絶対水準が、課題の理解や遂行へ直接影響する場合があるからだ。
同じ30点差でも、90対120と100対130では異なるかもしれない。
だから、IQ差だけでなく、二人それぞれの絶対水準と、所属集団の平均・分散を同時に分析する。
会話課題も一種類では足りない。
雑談、抽象的議論、具体的な共同作業、情報伝達、問題解決、相手への説明などを分ける。
客観指標としては、伝達情報の正確さ、会話後の理解度テスト、課題達成率、聞き返し、誤解の修復、説明の反復、発話量の偏り、沈黙時間、語彙や抽象度の調整を測定できる。
主観指標としては、疲労、退屈、苛立ち、会話が成立した感覚、相手を理解できた感覚、自分が理解された感覚、見下された感覚、相手に合わせた感覚、再び話したいかを測定できる。
会話後の質問紙だけでなく、録画を見ながら、どの発言で理解できなくなったか、どこで相手に合わせたかを事後インタビューすることもできる。
ASD、ADHD、性格、教育歴、年齢、言語能力、専門知識、関心、社会階層、既知関係などを統制する。
参加者には相手のIQを知らせなければよい。事前に認知検査を実施し、別目的の会話課題として組み合わせれば、IQラベルへの自意識が結果へ与える影響を減らせる。
同じ参加者を複数の相手と組ませれば、個人差を統制した反復測定も可能になる。
さらに、二者実験の次には集団研究ができる。
集団内の平均IQ、分散、本人の平均との差を測り、発言量、影響力、孤立感、ストレス、欠勤、離職、集団課題の成績との関係を追跡する。
実験室だけでなく、学校、職場、就労支援施設、オンライン共同体でも研究できる。
もちろん、簡単な研究ではない。
IQは測定誤差を含む。単純な差得点は信頼性が落ちる可能性がある。総合IQだけでなく、言語理解やワーキングメモリなど、どの能力差が効いているのかを分ける必要もある。「会話が成立した」を何で定義するかという操作化の問題もある。
しかし、実施不能な研究ではない。
少なくとも、「極端な高知能者が希少だから調べられない」で終わる話ではない。
そして、研究結果が20点説や30点説を否定しても構わない。
差に効果がない、あるいはIQ差より性格や関心の方がはるかに重要だという結果になるかもしれない。
特定の閾値は存在せず、差が連続的に作用するかもしれない。
総合IQではなく、言語理解の差だけが効くかもしれない。
高い側と低い側で、主観的負荷の方向がまったく異なるかもしれない。
それを知るための研究である。
俗説を証明するための研究ではない。
13. 俗説を笑うなら、空白を研究しろ
「IQが30違うと会話が成立しない」は、心理学的に実証された法則ではない。
しかも、その30点の源流とされるホリングワースのIQは、現在のWAISやWISCと同じ尺度ですらない。
ホリングワースが書いたのは、主として子どものリーダーシップと、極端な高知能児の孤立に関する経験的観察だった。
タワーズはそれを、成人を含むコミュニケーション一般へ拡張した。
20点説には、公刊された一次資料も確認できない。
だから、20点でも30点でも、俗説は俗説である。
しかし、そこで話を終わらせてよいのか。
ホリングワース以来、ギフテッド教育の現場では、知的に近い仲間を得られないことによる退屈、孤立、自己抑制が繰り返し扱われてきた。
反対側では、境界知能とされる人々が、知的障害の基準には該当しないまま、社会の標準仕様との不一致に苦しんでいる。
成人高知能者の研究もある。知的障害の研究もある。ASDやADHDの研究もある。同類交配、友人選択、リーダーシップ、集団多様性の研究もある。
それでも、本人と相手の認知能力差、本人と集団平均との距離が、会話、疲労、誤解、孤立、就労継続に何をもたらすかは、ほとんど直接測られていない。
俗説が生き残るのは、人々が非科学的だからだけではない。
科学が扱わない経験を、俗説が代わりに説明しているからでもある。
不都合な真実は、「IQ30差で会話不能」という説が間違っていることではない。
一定の認知能力差によるコミュニケーション・ギャップが本当に存在するのか。存在するなら、誰に、どの環境で、どのような負荷を与えるのか。それを心理学がまともに直接検証してこなかったことが、不都合な真実なのである。
俗説を否定するだけで、俗説が代弁してきた生きづらさまで存在しないことにしてはならない。
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