了承なき批判を禁じるな――micoto06「SNSモラル」論への反批判

All eyes on 了承なき批判。

本稿は反批判である。

対象は、micoto06氏による「SNS上における哲学領域の押し付けは害悪であり、モラルに反する行為である」である。

対象は人格ではない。公開され、哲学を名乗り、思想を名乗った言葉である。

キングギドラ「公開処刑」の三択を借りる。

「3つの選択肢をやろう。死ぬか。戦うか。ビッチみたく訴えるか。」

先に言っておく。

これは人格批判ではない。相手の生活、人格、内面、経歴、病歴、属性、善意を問題にしているのではない。問題にしているのは、公開され、こちらの論考を批判する形で投稿された言葉である。こちらは「哲学を名乗るな 実例篇――5分考えたら哲学者ではない」で、ナミキ氏の「君もきっと哲学者 ~人類総哲学者理論~」を批判した。micoto06氏は、その批判の中身についてはほとんど同意すると言う。にもかかわらず、その批判の仕方、引用の仕方、公開言論としての扱いを「害悪」「モラルに反する行為」「誹謗中傷と言って差し支えない行為」と断じた。

だから、ここで問題になるのは単純である。

公開された言葉を、本人の了承なしに、本人の目に届く範囲で、厳しく批判してよいのか。

ぼくの答えは、よい、である。

むしろ、よくないと言うなら、公開言論は成立しない。

そして、micoto06氏の文章は、見かけ上は「相手の気持ちを慮れ」「SNSモラルを守れ」という穏当な顔をしている。しかし、実際にやっていることはかなり危険である。公開された主張を批判されない場所へ退避させる。言葉を出した責任を、受け手の攻撃性の問題へすり替える。批判の正しさではなく、批判された側の感情を上位審級に置く。さらに「本人の了承なく相手の言葉をリングに上げる行為」という表現によって、公開発信そのものがすでにリング上にあるという事実を消す。

これは反批判になっていない。

これは批判の停止要求である。

そして、もっと正確に言えば、これは「哲学を名乗るな」シリーズが批判してきたものそのものである。すなわち、制度、公開性、責任、反論可能性を飛ばして、内面、気持ち、善意、モラルという柔らかい言葉へ逃げる思考である。

スピである。


1. まず、micoto06氏は中身にほぼ同意している

micoto06氏の文章は、冒頭でこう始まる。

「あなたの本文の主張自体は納得できる点がほとんどである。」

ここは重要である。

つまり、こちらの論旨そのもの、すなわち「ナミキ氏の記事は哲学として成立していない」「哲学者という語を軽くしすぎている」「引用元は単なるポエムに近い」という点について、micoto06氏は大きく反論していない。むしろ、こう続けている。

「確かに批判される覚悟のない者が短絡的に哲学者を名乗ると痛い目を見る。引用元が哲学として到底認められるものでない、単なるポエムであるとの主張については賛同できる。」

ここまでで、実は勝負はついている。

こちらの論考は、ナミキ氏の文章が哲学ではないことを論じた文章である。対象は人格ではない。公開され、哲学を名乗り、思想を名乗った言葉である。こちらはその言葉を読んで、なぜ哲学ではないのかを具体的に示した。哲学を内省に縮めるな。5分考えることを哲学者と呼ぶな。「1は1の価値がある」は励ましであって哲学の定義ではない。バタフライエフェクトで発信を宇宙化するな。哲学者という語を民主化の顔で空洞化するな。そう論じた。

micoto06氏は、その主要部分に同意している。

ならば、残る争点は一つしかない。

正しい批判であっても、公開の場で、本人の了承なく、攻撃的に行うことは許されないのか。

micoto06氏は、どうやら許されないと言いたいらしい。

だが、その立論は成立していない。

なぜなら、公開された文章は、すでに公開言論の空間に置かれているからである。公開するとは、他者に読まれる場所へ言葉を出すことである。読まれるとは、賛同される可能性と同時に、批判される可能性を引き受けることである。もちろん、批判には限度がある。人格攻撃、属性攻撃、脅迫、事実無根の中傷、私生活の暴露、集団的嫌がらせは別である。だが、公開された文章の概念、論理、言葉遣い、主張、自己規定を批判することは、公開言論の通常運転である。

それを「了承なき批判」と呼んで悪とするなら、新聞批評も、書評も、映画批評も、学術批判も、政治批判も、文化批評も、すべて相手の了承待ちになる。

そんなものは言論ではない。

それは、公開された言葉を、公開後にもなお私有物として扱う発想である。

2. 「学問としての哲学」という勝手な囲い込み

micoto06氏は、こちらのいう哲学の格、哲学の敷居を「学問としての哲学」の領域と呼び直す。

ここからすでにズレている。

こちらは、単純に大学哲学、アカデミック哲学、専門哲学だけを守れと言っているのではない。むしろ「哲学を名乗るな」シリーズでは、哲学学者も批判対象である。哲学を文献の中に閉じ込める哲学学者と、自分の人生観を哲学と呼ぶオレ哲学者は、逆方向に同じ失敗をしている。前者は哲学者の言葉しか読まない。後者は自分の実感しか読まない。どちらも世界を読んでいない。

だから、こちらの議論は「学問としての哲学」だけの防衛ではない。

こちらが言っているのは、哲学を名乗るなら、少なくとも言葉を反論可能な場所へ置け、ということである。概念を作れ。問いを形式化しろ。自分の感想を超えて、他者に検査される言葉を出せ。思想史の中で自分の位置を知れ。既存の問いにどう接続し、どこで切断するのかを示せ。言葉を壊される場所に置け。

これは大学の専有物ではない。

在野でもできる。市民でもできる。会社員でもできる。高校生でもできる。専門の哲学研究者でなくてもできる。逆に、大学にいてもできていない人間はできていない。

だから、micoto06氏が「学問としての哲学」と呼び直した瞬間に、こちらの議論は細くされている。

こちらは、哲学を大学へ閉じ込めていない。むしろ、大学の外でも哲学が可能であるための最低条件を言っている。哲学を開くために、哲学者という語を空洞化するな、と言っている。

開くことと薄めることは違う。

入口を閉じるな。

名乗るならリングに立て。

これがこちらの立場である。

ところがmicoto06氏は、こちらのリング論を「学問としての哲学」という限定領域へ押し込める。そして、その限定領域の原則をSNSへ押し付けるな、と言う。これはストローマンである。こちらは「大学哲学の作法をSNSへ押し付けている」のではない。公開された言葉が、哲学を名乗るなら、最低限の批判可能性を引き受けろと言っているだけである。

哲学を名乗らないなら、話は違う。

ただの感想です。ただの日記です。ただのポエムです。ただの思いつきです。ただの励ましです。そう言うなら、それはそれとして扱えばよい。こちらも「それは哲学ではない」と言うだけで済む。

だが、「私は哲学者である」「人類総哲学者理論」「哲学者という存在の敷居を下げる」と書くなら、もう言葉は哲学という看板を出している。その看板に対して、それは哲学ではない、と批判することの何が問題なのか。

問題は、こちらが哲学を押し付けたことではない。

相手が哲学を名乗ったことである。

3. 「SNSだから批判するな」は成立しない

micoto06氏は、次のように言う。

「その見解はあくまでも『学問としての哲学』の領域であり、SNS上の不特定多数の他者の意見を攻撃的に批判することを正当化しない。」

これもおかしい。

SNS上の不特定多数の他者の意見だからこそ、批判される。

SNSとは、公開された言葉が流通する場所である。もちろん、仲間内の雑談もある。軽い投稿もある。日記のようなものもある。愚痴もある。ネタもある。ポエムもある。だからといって、SNS上の公開投稿が批判不能になるわけではない。

むしろ、SNSは引用、反応、反論、批評、再記述、拡散によって成り立っている。noteも同じである。公開記事は、読まれるために置かれている。感想をもらうために置かれている。共感されるために置かれている。ならば、批判される可能性も当然ある。

ここで都合よく、「共感は歓迎するが、批判は了承制にせよ」と言うなら、それは公開発信ではない。承認欲求の温室である。

micoto06氏は、SNSについてこう言う。

「多くの発信者は、自身の投稿に対して哲学の原則を適用されて攻撃的に長々と批判される覚悟など全く意識していない。」

その通りだろう。

多くの発信者は、深く考えずに発信している。承認欲求で発信している。一時的な自己表現欲求で発信している。気分で言葉を出している。まさにmicoto06氏自身がそう書いている。

だが、そこで導かれる結論は「だから批判してはいけない」ではない。

むしろ逆である。

深く考えずに発信している言葉が、哲学を名乗り、思想を名乗り、社会を語り、人類を語り、世界を語り、読者に「君もきっと哲学者だ」と言う。その言葉が公開空間に出ている。ならば、それは検査される。

もちろん、すべての投稿にいちいち長文批判を書く必要はない。そんなことをしていたらこちらの人生が終わる。だが、批判対象として有効な実例があれば、批評する。そこから概念を立てる。実例篇として使う。これは批評の基本である。

対象がSNSにあるから批判してはいけない、という理屈は、現代の言論空間ではほとんど意味をなさない。新聞、テレビ、雑誌、ブログ、note、X、YouTube、Substack。媒体は違っても、公開された言葉は読まれる。読まれるなら、批判される。

SNSだけを批判免除区域にする理由はない。

4. 「相手の目には罵詈雑言に映るかもしれない」は基準にならない

micoto06氏は、こちらの批判について、相手の目には「心ない罵詈雑言のように映るかもしれない」と言う。

かもしれない。

それはそうだろう。

どんな批判でも、批判された側には罵詈雑言に見えることがある。自分の文章が「これは哲学ではない」「ポエムである」「語を破壊している」と言われれば、傷つく人もいるだろう。むかつく人もいるだろう。怖いと感じる人もいるだろう。

しかし、それは批判の当否を決める基準ではない。

批判の基準は、第一に対象が公開された言葉かどうかである。第二に、批判がその言葉に即しているかどうかである。第三に、事実無根の中傷や人格攻撃に逸脱していないかどうかである。第四に、批判の強度と対象の主張の強度が釣り合っているかどうかである。

「相手が罵詈雑言と感じるかもしれない」は、参考情報ではある。だが、それを上位審級に置いた瞬間、批判は不可能になる。

なぜなら、批判された側はいつでも傷つけられたと言えるからである。

これは非常に危険である。批判への反論ではなく、批判された感情を盾にして、批判そのものを停止させることができてしまう。すると、公開空間には、ぬるい共感と、角の丸い感想と、誰も傷つけない曖昧な言葉だけが残る。

それは言論ではない。

それは、承認欲求の相互介護である。

そして、こちらが批判した「人類総哲学者理論」は、まさにそのような相互介護の方向へ哲学を薄めていた。5分考えれば哲学者。世界を思えば哲学者。小さな言葉も波紋を生む。1は1の価値がある。君もきっと哲学者だ。

優しい。

だが、優しいだけである。

その優しさが、言葉の重みを破壊している。だから批判した。

それに対してmicoto06氏は、今度は「相手の気持ち」を持ち出す。これは二重に同じ構造である。ナミキ氏は哲学者という語を優しく薄める。micoto06氏は批判という行為を優しく無効化する。どちらも、言葉が壊される場所から逃げている。

5. 「そこに学問としての哲学の進歩はない」は的外れである

micoto06氏は、こちらの批判について、相手の目には罵詈雑言に映るかもしれず、「そこに『学問としての哲学』の進歩はない」と言う。

これもズレている。

まず、こちらは学術論文を書いているのではない。哲学研究史に新しい一項目を追加しているわけでもない。査読誌へ投稿しているわけでもない。そういう意味での「学問としての哲学の進歩」を直接目的にしているわけではない。

こちらがやっているのは、批評である。

批評とは、対象の言葉を読み、その構造を取り出し、どこで概念が壊れているかを示し、その壊れ方を一般化する営みである。そこには学術とは別の価値がある。文化批評、思想批評、メディア批評、言説分析、公共的再記述。そうした領域では、対象の文章を読むこと自体が意味を持つ。

そして、こちらの「哲学を名乗るな」シリーズは、まさにその批評である。

「オレの哲学」は哲学ではない。人生訓は哲学ではない。市民哲学はどこで失敗するのか。AI対話哲学はどこで失敗するのか。現代思想はどこでスピるのか。ニーチェ以後、リングは壊れたが、小さなリングは残る。概念が制度、身体、責任、因果、検証可能性から浮くとき、思想はスピる。

その理論を、公開された実例に適用する。

これが実例篇である。

実例篇がなければ、理論は空中戦になる。理論だけなら、いくらでも綺麗なことが言える。だが、実際にどの文章がどう壊れているのかを示さなければ、批判語彙は鍛えられない。だから「超愛」は哲学ではない、と書いた。だから「5分考えたら哲学者ではない」と書いた。

それは、学術論文ではない。

だが、批評としては成立している。

「学問としての哲学の進歩がないから哲学の領域に含まれない」というmicoto06氏の言い方は、逆に哲学を狭くしすぎている。こちらが哲学を大学に閉じ込めているのではない。micoto06氏の方が、哲学的な批評を「学問としての哲学の進歩」へ不当に狭めている。

さらに言えば、公開空間において「哲学」という語がどう使われ、どう薄められ、どう自己承認の言葉になるかを批判的に検査することは、哲学の周縁を守る作業である。哲学史そのものを前進させるわけではないとしても、哲学という語の公共的使用を検査する作業ではある。

それを「進歩がない」と切るなら、そもそもmicoto06氏の文章にも進歩はない。

なぜなら、micoto06氏の文章は、こちらの論旨にほぼ同意したうえで、SNSモラルへ話をずらしているだけだからである。

6. 「引用元のポエムと何ら変わらない」は無理がある

micoto06氏は、こちらの批判について、「その点に関して言えば引用元のポエムと何ら変わらない」と言う。

ここは完全にダメである。

ナミキ氏の記事とこちらの批判は、構造が違う。

ナミキ氏の記事は、哲学者という語を極端に拡張する。五分だけでも世界や自分の生き方を考えてみる人を、少し大げさに、半分冗談・半分本気で哲学者と呼ぶ。世界を思う5分。1は1の価値がある。小石が波紋を作る。バタフライエフェクト。遠い未来に革命の火。君もきっと哲学者だ。

これは励ましとしては分かる。ポエムとしては分かる。自己表現としては分かる。だが、哲学の定義としては壊れている。哲学者という語の使用としては薄い。

こちらの批判は、その壊れ方を具体的に示している。接続しうることと、それ自体が哲学であることは違う。問いの入口に立つことと、哲学者であることは違う。内省は哲学ではない。5分考えることは5分考えることである。「1は1の価値がある」は励ましであって哲学の定義ではない。バタフライエフェクトで発信の意味を宇宙化するな。

これはポエムではない。

論点がある。区別がある。対象の文言に対応している。批判基準がある。哲学を閉じるな、しかし薄めるな、という限定もある。専門家だけのものではないが、全員が哲学者であるわけではない、という区別もある。

それを「ポエムと何ら変わらない」と言うなら、micoto06氏は、文章の機能差を読めていない。

優しい自己肯定の文章と、それを検査する批判文は、同じではない。

もちろん、こちらの文章にもスタイルはある。強い口調がある。リング、公開処刑、判決、Word up. といった演出もある。だが、スタイルがあることと、ポエムであることは違う。

むしろ、こちらのシリーズはスタイルウォーズとして自覚的に書かれている。ニーチェ以後、大文字の統一リングは壊れた。残るのは、小さなリングであり、スタイルであり、批評であり、概念をどう使うかの戦いである。だから、文章にはスタイルがある。

だが、スタイルがあるから批判ではない、とはならない。

格闘技にスタイルがあるから格闘技ではない、とは言わない。判決文に文体があるから判決ではない、とは言わない。批評に文体があるから批評ではない、とは言わない。

micoto06氏は、強い文体を見て、批評の構造を見落としている。

7. 「哲学の敷居を超えていない」というブーメラン

micoto06氏は、こちらの投稿について、「哲学の格が重要だと指摘するあなたの投稿自体は、哲学の敷居を超えていない」と言う。

ここで、micoto06氏は何を言っているのか。

こちらの投稿は哲学ではない、ということだろうか。

ならば、それは構わない。こちらは「これは哲学論文です」と言っていない。哲学を名乗るなシリーズも、哲学史の教科書ではない。哲学研究論文でもない。自分が哲学者であると称号を要求している文章でもない。

これは批評である。

AI批評である。

哲学を名乗る言葉の検査である。

だから、「哲学の敷居を超えていない」と言われても、まずカテゴリーが違う。こちらの問題は、「哲学を名乗るな」と言っている本人の文章が哲学そのものかどうかではない。公開空間で哲学を名乗る言葉がどのように壊れているかを批評できているかである。

ただし、より深く言えば、こちらの文章は哲学的批評ではある。なぜなら、哲学者という語の使用条件、哲学と内省の差、概念と励ましの差、公共的言論と自己表現の差を扱っているからである。これは哲学の制度的周縁についての批評である。哲学の本質定義ではなく、哲学という語の公共的使用を巡る批評である。

だから、micoto06氏の「哲学の敷居を超えていない」は、二重に外している。

第一に、こちらは自分の記事を哲学そのものとして提示していない。

第二に、それでも哲学的批評としては成立している。

そして第三に、micoto06氏の文章こそ、批判対象の言葉を具体的に検査せず、「SNSモラル」「相手の気持ち」「了承なき批判」という一般論へ退避している。もし哲学の敷居という言い方をするなら、こちらではなく、そちらが敷居の前で止まっている。

8. 「押し付け」という言葉の雑さ

タイトルからして問題がある。

「SNS上における哲学領域の押し付けは害悪であり、モラルに反する行為である」

押し付け。

何が押し付けなのか。

こちらは、ナミキ氏に「あなたは哲学者として生きろ」と命じたのではない。哲学の教育課程を受けろと命じたのでもない。哲学史を読めと私的に要求したのでもない。生活を変えろと迫ったのでもない。公開された記事に対して、「それは哲学ではない」と書いた。

これは押し付けではない。

批判である。

押し付けとは、相手が望まない義務を負わせることである。あるいは、相手の領域へ一方的に規範を持ち込んで従わせることである。だが、公開された言葉を批判することは、相手の生活へ介入することではない。相手の内面を支配することでもない。相手の投稿を削除させることでもない。相手に沈黙を強いることでもない。

むしろ、こちらはこう言っている。

死ぬか。戦うか。ビッチみたく訴えるか。

もちろん、これはキングギドラの「公開処刑」を借りたスタイルであり、ここで死ぬのは人間ではない。言葉である。概念である。リングに上がった文章である。つまり、相手には戦う道がある。反論する道がある。撤回する道もある。無視する道もある。訴える道もある。

これは押し付けではない。

公開空間における応答である。

むしろ、micoto06氏の方こそ、公開言論に「本人の了承なく批判するな」という規範を押し付けている。しかも、その規範は非常に強い。公開された文章を批判する側に、事前了承、相手の感情配慮、攻撃性の抑制、SNSモラルへの服従を要求している。

つまり、micoto06氏は「押し付け」を批判しながら、批判者へモラルを押し付けている。

この非対称性に無自覚である。

9. 「本来SNSとはそうあるべきではない」は誰が決めたのか

micoto06氏は言う。

「本来SNSとはそうあるべきではない。」

これもダメである。

本来SNSとはどうあるべきなのか。

誰が決めたのか。

SNSには複数の使い方がある。日記として使う人もいる。宣伝として使う人もいる。交流として使う人もいる。創作発表として使う人もいる。政治的主張として使う人もいる。学術的発信として使う人もいる。批評として使う人もいる。喧嘩の場として使う人もいる。観測場として使う人もいる。

その全部を一つの「本来」に回収することはできない。

もちろん、最低限のルールはある。脅迫するな。事実無根の中傷をするな。個人情報を晒すな。属性差別をするな。嫌がらせを組織するな。法的な権利を侵害するな。これらは分かる。

だが、公開された主張を厳しく批判するな、というルールは別である。

それは「本来SNSとはそうあるべきではない」という道徳的な好みでしかない。

そして、この好みは、言論空間をぬるくする。強い批判を「攻撃的」と呼び、公開された主張への応答を「了承なきリング上げ」と呼び、相手の気持ちを盾にして、批判そのものを封じる。

そのようなSNS観は、批評には向かない。

そして、哲学にも向かない。

哲学を名乗るなら、自分の言葉が壊される可能性を引き受ける必要がある。批判されること、問い返されること、用語の使用を詰められること、論理の飛躍を指摘されること、比喩の暴走を止められること。そうした経験を引き受けずに、哲学という語だけを受け取ろうとするなら、それは哲学ではない。

SNSだから免除される、という理屈はない。

10. 「深く考えずに発信するユーザーで蔓延っている」なら、なおさら批判は必要である

micoto06氏は、SNSには「一時的な自己表現欲求や承認欲求のために深く考えずに意見を発信するユーザー」が蔓延っていると言う。

これは面白い。

なぜなら、この認識自体はかなりこちらに近いからである。

深く考えずに発信する。承認欲求で発信する。自己表現欲求で発信する。AIで整える。思想っぽくする。哲学っぽくする。人類、世界、善意、影響、波紋、革命、文化という大きな言葉を使う。だが、概念は鍛えられていない。反論可能な形にもなっていない。思想史への接続もない。レイヤーの区別もない。

それを批判しているのである。

ところがmicoto06氏は、深く考えずに発信しているのだから、長々と批判される覚悟などない、と言う。

これは奇妙である。

深く考えずに発信しているなら、発信した言葉の軽さを指摘されるのは当然ではないか。

もちろん、全員を叩けという話ではない。だが、深く考えずに「哲学者」を名乗り、「人類総哲学者理論」を掲げるなら、それは批判対象になる。軽い言葉が軽いまま流通し、哲学という語を薄め、AIによって整えられ、優しいポエムとして読まれる。それを放置するかどうかは、批評の問題である。

micoto06氏は、SNSの軽さを理由に批判を止めようとしている。

こちらは、SNSの軽さが哲学という語を壊しているから批判している。

ここが決定的に違う。

11. 「執拗に攻撃的に噛みつかない態度」がモラルなのか

micoto06氏は、「他者の投稿に執拗に攻撃的に噛みつかない態度がSNS上でのモラルに則している」と言う。

まず、「執拗」とは何か。

一度、公開記事として批判しただけで執拗なのか。シリーズ内の実例篇として取り上げたら執拗なのか。引用したら執拗なのか。長文なら執拗なのか。厳しい文体なら執拗なのか。

ここが曖昧である。

次に、「攻撃的」とは何か。

批判が強ければ攻撃的なのか。「哲学ではない」と言えば攻撃的なのか。「ポエム」と言えば攻撃的なのか。「語の破壊」と言えば攻撃的なのか。文体が強ければ攻撃的なのか。

ここも曖昧である。

そして、「噛みつく」とは何か。

公開された記事を批評することが噛みつきなのか。相手の論旨を検査することが噛みつきなのか。用語の誤用を指摘することが噛みつきなのか。

この三語は、すべて批判を悪く見せるための印象語である。

執拗。攻撃的。噛みつく。

こう言えば、批判者が悪く見える。だが、これでは何も検査されていない。批判が対象の言葉に即していたのか。事実無根だったのか。人格攻撃だったのか。論点が外れていたのか。過剰だったのか。そこが問われていない。

こちらの文章は長い。文体も強い。だが、対象の文章に即している。ナミキ氏の「私は哲学者である」「夜に哲学するのにゃ~」「哲学者という存在の敷居を下げる」「哲学とは自己の内面で物事を考え、自己の結論を出す行為」「朝の5分」「1は1の価値がある」「バタフライエフェクト」「君もきっと哲学者だ」といった言葉を、それぞれ検査している。

それを「噛みつき」と呼ぶなら、批評はすべて噛みつきである。

そして、批評がすべて噛みつきなら、SNSモラルとは、批評するな、という意味になる。

それは受け入れられない。

12. 「誹謗中傷と言って差し支えない」は危険である

micoto06氏は、こう書く。

「特定の他者の投稿を、相手の了承なく執拗に攻撃的に批判することは誹謗中傷と言って差し支えない行為である。」

差し支えある。

大いにある。

誹謗中傷という語は軽く使うべきではない。公開された文章への批判と、人格への事実無根の中傷は違う。相手の主張を批判することと、相手を貶めるために虚偽を流布することは違う。相手の概念を壊すことと、相手の人格を攻撃することは違う。

こちらは、対象を明示している。

対象は人格ではない。公開され、哲学を名乗り、思想を名乗った言葉である。ここで死ぬのは人間ではない。言葉である。概念である。リングに上がった文章である。

この限定を入れている。

それでも「誹謗中傷と言って差し支えない」と言うなら、micoto06氏は、批判と誹謗中傷の区別を壊している。

これは非常にまずい。

なぜなら、誹謗中傷という語を、強い批判への牽制として使っているからである。これは法的にも倫理的にも雑である。もちろん、批判が誹謗中傷へ逸脱することはある。だが、その判断には、どの表現が、どの事実を摘示し、どの社会的評価を不当に低下させ、どの程度公益性や論評性を持つのか、といった検討が必要である。

それをせずに、「了承なく」「執拗に」「攻撃的に」という印象語だけで「誹謗中傷と言って差し支えない」と言う。

これは、批判を萎縮させる言い方である。

そして、自分がやっていることも危うくなる。micoto06氏は、こちらの行為を「害悪」「モラルに反する行為」「誹謗中傷と言って差し支えない」と公開で述べている。では、それはどうなのか。こちらの了承はあったのか。こちらの気持ちは慮られたのか。こちらの目に届く範囲で批判しているのではないか。

もちろん、ぼくはそれをやめろとは言わない。

批判してよい。

ただし、批判した以上、反批判される。それだけである。

それがリングである。

13. 「相手の了承なく相手の言葉をリングに上げる」という誤認

micoto06氏の文章で最も重要なのは、ここである。

「相手の了承なく相手の言葉をリングに上げる行為である。」

違う。

公開された言葉は、すでにリングに上がっている。

こちらがリングに上げたのではない。本人が公開したのである。noteに記事として出したのである。タイトルをつけ、タグをつけ、読者に向けて投稿したのである。そこには「哲学」「考え方」「人生観」「哲学者」「みんな哲学者」といったタグも付いている。読まれることを前提にしている。

公開するとは、リングに置くことである。

もちろん、リングにも種類がある。小さなリングもある。ゆるいリングもある。仲間内のリングもある。noteの弱い可視性の中で、ほとんど読まれない記事もある。だが、公開されている以上、読まれ、引用され、批判される可能性はある。

「本人はそんな覚悟をしていない」と言うかもしれない。

ならば、それは公開発信への理解が甘いのである。

公開とは、読まれることである。読まれるとは、誤読されることでもあり、批判されることでもあり、強く反応されることでもある。もちろん、その反応が不当なら反論すればよい。批判が外れているなら外れていると言えばよい。文脈を誤解しているなら訂正すればよい。追記することもできる。削除することもできる。戦うこともできる。

だが、「了承していないから批判するな」は通らない。

書評家は著者の了承を取らない。映画批評家は監督の了承を取らない。政治批判は政治家の了承を取らない。学術批判も、相手の了承を取ってから論文を批判するわけではない。

公開された言葉への批判は、了承制ではない。

了承制にした瞬間、批判されたい人だけが批判され、批判されたくない人は批判されない世界になる。そんな世界で、言葉は鍛えられない。

14. 「何気ない発信」という逃げ道

micoto06氏は、ナミキ氏の記事を「特定の他者や組織に対する否定とは解釈されない特定の他者の何気ない発信」と呼ぶ。

これもおかしい。

「何気ない発信」なら、何を言っても批判を免れるのか。

問題は、他者や組織を否定しているかどうかだけではない。公開空間で、ある語をどう使っているかである。「哲学者」という語をどう使っているか。「哲学」という語をどう使っているか。「人類総哲学者理論」というタイトルで何を言っているか。世界、影響、バタフライエフェクト、革命、文化という言葉をどう接続しているか。

他人を攻撃していないから批判されない、という理屈はない。

たとえば、誰かが「5分病気について考えたら医師である」と書いたとする。悪意はない。誰かを攻撃しているわけでもない。何気ない発信かもしれない。だが、その言葉は医師という語を壊している。医療という領域を薄めている。だから批判される。

「5分数学を考えたら数学者である」でも同じである。

「5分政治を考えたら政治学者である」でも同じである。

「5分世界を考えたら哲学者である」も同じである。

哲学だけ、なぜか許される。哲学だけ、何気ない自己表現として流される。哲学だけ、誰でも名乗ってよいことにされる。ここがおかしい。

こちらは、そのおかしさを批判している。

だから、ナミキ氏の記事が他者を攻撃していないことは、批判免除の理由にならない。

言葉そのものが批判対象である。

15. 「多くの人が考えるはずである」は論証ではない

micoto06氏は、「多くの人が考えるはずである」と書く。

これは弱い。

多くの人とは誰か。どの範囲か。どのような根拠があるのか。SNS利用者一般か。note利用者か。哲学関係者か。創作者か。批評家か。読者か。仲間内か。

分からない。

「多くの人がそう思うはず」は、論証ではない。空気の召喚である。

そして、空気の召喚は、批判を止めるときによく使われる。「普通はそんなことしない」「多くの人は不快に思う」「モラルに反する」「相手の気持ちを考えろ」。こうした言葉は、具体的な反論をせずに、批判者を悪者にできる。

だが、哲学を名乗るなら、ここで止まってはいけない。

多くの人がそう思うとして、それはなぜ正しいのか。公開された言葉の批判よりも、発信者の感情保護が優先されるべきなのはなぜか。公開空間における批評の自由はどこまで制限されるのか。了承なき批判がダメなら、どの批判が可能なのか。批判対象が思想を名乗った場合でも同じなのか。批判が対象の言葉に即していても同じなのか。相手が不快に感じたらアウトなのか。

そこを問わなければならない。

しかし、micoto06氏は問わない。

「多くの人が考えるはずである」で終わる。

これは哲学ではない。

これは道徳感情の一般化である。

16. 「相手の気持ちを慮る」は批判の上位審級ではない

最後に、micoto06氏はこう言う。

「相手の気持ちを慮ることも忘れてはいけないと私は思う。」

それは分かる。

人間社会において、相手の気持ちを全く考えなくてよいとは言わない。批判にも品位はある。必要以上に傷つける必要はない。人格攻撃は避けるべきである。属性攻撃は論外である。集団的嫌がらせも避けるべきである。

だが、「相手の気持ち」は批判の上位審級ではない。

相手の気持ちを慮った結果、批判すべき言葉を批判しないなら、それは優しさではない。言葉への責任放棄である。

ナミキ氏の記事は、優しい。読者を励ます。五分だけでも世界を考えようと言う。小さな発信にも価値があると言う。君もきっと哲学者だと言う。

その優しさは分かる。

だが、その優しさが哲学者という語を壊している。哲学を内省へ縮めている。バタフライエフェクトで発信を宇宙化している。AIで整えられた哲学民主化ポエムになっている。

それを批判することは、相手の気持ちよりも、言葉の精度を優先するということである。

これは冷酷なのか。

違う。

批判とは、言葉を相手の所有物から引き離す行為である。あなたがそう思った。あなたがそれを書いた。あなたがそれで励まされた。あなたがそれを善意で出した。それは分かる。だが、公開された瞬間、その言葉は他者に読まれる。概念として検査される。語の使用として問われる。

相手の気持ちを完全に無視する必要はない。

だが、相手の気持ちによって、言葉の検査を止める必要もない。

17. 「理性的に説明できるか」への回答

micoto06氏は最後に、少し挑発的になるが、と前置きしてこう問う。

「あなたが他者の投稿に対して執拗に攻撃的な口調で批判する意図を、哲学者の格を重んじた主張を掲げた文脈を経てもなお理性的に説明できるかどうかには興味がある。」

説明できる。

第一に、公開された言葉は批判可能だからである。

第二に、対象は人格ではなく、哲学を名乗った言葉だからである。

第三に、哲学という語の公共的使用が薄まっているからである。

第四に、「考えること」と「哲学者であること」の区別を守る必要があるからである。

第五に、優しい自己承認ポエムが、哲学という語を使うことで、言葉の格を破壊しているからである。

第六に、AIによって整えられた滑らかな文章が、概念の弱さを隠す時代になっているからである。

第七に、理論は実例に適用しなければ鍛えられないからである。

第八に、批判語彙は対象を切って初めて機能するからである。

第九に、SNSの軽い発信が、軽いまま思想や哲学を名乗ることが増えているからである。

第十に、批判される覚悟なしに哲学を名乗るな、という本稿の原則を、実践として示す必要があるからである。

これで十分だろう。

むしろ、問い返したい。

公開された文章を、本人の了承なしに、本人の目に届く範囲で批判してはいけないという主張を、理性的に説明できるのか。

相手が哲学を名乗っていてもダメなのか。

批判が対象の言葉に即していてもダメなのか。

人格ではなく概念を批判していてもダメなのか。

対象者が傷つくかもしれないならダメなのか。

多くの人がモラルに反すると考えるはずだからダメなのか。

では、批評はどう成立するのか。

書評はどう成立するのか。

思想批判はどう成立するのか。

SNS上の公開言論は、どこまで批判可能なのか。

そこを説明しなければならないのは、こちらではない。

micoto06氏の方である。

18. micoto06氏の文章は、批判対象と同じ場所でスピっている

ここで、より大きな構造に戻る。

「スピる」とは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味や理念に逃げることである。

今回の場合、現実の制度とは、公開言論の制度である。noteに記事を投稿する。公開される。読まれる。引用される。批判される。反論される。これが公開空間の基本である。

身体とは、実際に言葉を出した者、読んだ者、批判した者、傷つく者、怒る者がいるということである。これは消えない。

責任とは、哲学を名乗った言葉には、哲学として批判される責任があるということである。

因果とは、公開された言葉が他者に読まれ、批判され、反応を生むということである。

micoto06氏は、ここを飛ばす。

そして、「SNSモラル」「相手の気持ち」「了承なき批判」「多くの人が考えるはず」「本来SNSとはそうあるべきではない」という抽象的で柔らかい言葉へ逃げる。

これはスピである。

もちろん、普通のスピリチュアルではない。波動も宇宙も前世も出てこない。だが、構造は同じである。具体的な公開性、責任、批判可能性を処理せず、大きなモラルへ逃げている。

しかも、そのモラルは検査されていない。

了承なき批判はなぜ悪いのか。公開言論でもそうなのか。思想を名乗った場合でもそうなのか。相手の気持ちはどの程度優先されるのか。批判と誹謗中傷の境界はどこか。強い文体はどこまで許されるのか。本人の目に届く範囲という基準は何か。引用批判はどこまで可能なのか。

何も詰められていない。

ただ、批判は怖い。攻撃的に見える。相手が傷つくかもしれない。モラルに反する。多くの人がそう思うはず。だからやめろ。

これは思想ではない。

これは批判恐怖の道徳化である。

19. ナミキ氏の追記は、むしろこちらの批判を補強している

ナミキ氏の記事には追記がある。

この記事でいう「哲学者」は、哲学史や専門的な議論に参加する職能としての哲学者を厳密に定義するものではない。「五分だけでも世界や自分の生き方を考えてみる人」を、少し大げさに、半分冗談・半分本気でそう呼んでいる。哲学者という称号を全員に授けたいのではなく、哲学を「難しい人だけのもの」にせず、日常の問いとして触れてよいものにしたい。

この追記は、部分的には防衛になっている。

たしかに、本人は職能としての哲学者を厳密に定義したかったわけではないのだろう。半分冗談・半分本気だったのだろう。哲学を難しい人だけのものにしたくないという意図だったのだろう。

だが、それでもこちらの批判は残る。

なぜなら、問題は意図ではなく、言葉の効果だからである。

半分冗談・半分本気であっても、「私は哲学者である」「夜に哲学するのにゃ~とつぶやいているだけでも、私は哲学者だと思う」「哲学者という存在の敷居を下げる」「今これを読んで、少しでも世界について考えたならば、君はもう哲学者の仲間入りだ」「君もきっと、哲学者だ」と書いている。

これは、哲学者という語を拡張している。

その拡張がどこまで許されるのかを問うのが、こちらの批判である。

「半分冗談です」で済むなら、語の使用責任は消える。だが、そうはいかない。冗談でも言葉は働く。比喩でも言葉は働く。励ましでも言葉は働く。むしろ、優しい比喩だからこそ広がる。半分本気だからこそ、語が薄まる。

哲学を「難しい人だけのもの」にしないことは正しい。

だが、そのために「哲学者」をばら撒く必要はない。

哲学に触れてよい。

哲学的に考えてよい。

世界について考えてよい。

自分の生き方を問うてよい。

日常の問いとして哲学に近づいてよい。

だが、それは哲学者であることとは違う。

この差を守れ、というのがこちらの批判である。

追記は、その差を後から取り戻そうとしている。だが、本体の言葉はその差を溶かしている。だから、追記込みでも、批判は成立する。

20. 「哲学を難しい人だけのものにしない」と「哲学者を名乗る」は違う

ここは重要なので、もう一度書く。

哲学を難しい人だけのものにしないことと、誰でも哲学者と呼ぶことは違う。

これは、他の領域で考えればすぐ分かる。

音楽を難しい人だけのものにしないことと、誰でも音楽家と呼ぶことは違う。

数学を難しい人だけのものにしないことと、誰でも数学者と呼ぶことは違う。

政治を難しい人だけのものにしないことと、誰でも政治学者と呼ぶことは違う。

医療知識を難しい人だけのものにしないことと、誰でも医師と呼ぶことは違う。

料理を難しい人だけのものにしないことと、誰でも料理研究家と呼ぶことは違う。

哲学だけが、なぜこの区別を免れるのか。

理由はない。

哲学は、たしかに開かれている。誰でも問いを持てる。誰でも考えられる。誰でも本を読める。誰でも議論できる。誰でも自分の人生から問いを立てられる。

だが、哲学者という語には、なお重みがある。

その重みは、資格制度だけの話ではない。大学所属だけの話でもない。博士号だけの話でもない。哲学史の暗記だけの話でもない。

言葉を壊される場所に置くこと。

自分の考えを概念にすること。

概念を他者に差し出すこと。

他者の反論に晒すこと。

壊れたら作り直すこと。

問いを自分の慰めに使わず、世界を切る刃にすること。

少なくとも、その方向へ進む者でなければ、哲学者とは呼べない。

5分考えることは、その入口になりうる。

だが、入口に立つことと、哲学者であることは違う。

21. こちらの批判は「入口を閉じる」ものではない

micoto06氏の文章には、こちらが哲学の入口を閉じているかのような含みがある。

違う。

こちらは入口を閉じていない。

むしろ、入口と称号を区別している。

入口は開けてよい。哲学に触れることはよい。問いを持つことはよい。5分考えることもよい。世界について考えることもよい。発信することもよい。小さな言葉が誰かに届くこともある。それは全部認めている。

こちらの元論考でも、何度もそう書いている。

考えることはよい。内省することもよい。世界について5分考えることもよい。発信することもよい。哲学は専門家だけの所有物ではない。哲学的な問いは誰でも持ちうる。誰でも哲学に触れられる。誰でも哲学的に考える訓練はできる。

その上で、だから全員が哲学者だとはならない、と言っている。

この限定を読めていないなら、批判にならない。

こちらの立場は、古参仕草ではない。村の入口で「お前は来るな」と言っているのではない。むしろ、村の作法と核を分けろと言っている。哲学の核は、難解な専門用語で初心者を追い返すことではない。哲学史マウントを取ることでもない。大学所属で線を引くことでもない。

核は、言葉を反論可能な場所へ置くことである。

だから、入口は開いている。

ただし、名乗るならリングに立て。

これだけである。

22. 「攻撃的な口調」はなぜ必要か

では、なぜ強い文体なのか。

ここは説明しておく。

第一に、対象が柔らかすぎるからである。

「君もきっと哲学者」という文章は、柔らかい。優しい。読者を励ます。反論しにくい。善意に包まれている。そういう文章を批判するには、こちらの言葉を強くしなければならない。柔らかい言葉は、柔らかいまま広がり、批判を吸収する。「半分冗談です」「励ましです」「難しい人だけのものにしたくないだけです」と逃げられる。だから、切る必要がある。

第二に、哲学という語の軽視が軽く扱われすぎているからである。

「オレの哲学」「自分の哲学」「人生哲学」「みんな哲学者」。こうした言い方は日常的に流通している。ほとんど誰も怒らない。だが、言葉は薄まる。薄まった言葉は、次の薄まりを呼ぶ。やがて、哲学は内省、感想、人生訓、ポエム、AI対話の自己承認と区別できなくなる。

それを止めるには、強い言葉が必要である。

第三に、こちらはスタイルを隠していないからである。

批評には文体がある。文体なしに批評は成立しない。穏当な顔をした批判だけが批判ではない。怒り、嘲笑、切断、判決、挑発、断言。それらも批評の武器である。もちろん、武器の使い方は問われる。だが、武器を持つこと自体を禁止される筋合いはない。

第四に、AI批評として、スピード、量、精度を出す必要があるからである。

現代の言説は速い。AIで文章が整えられ、思想っぽい言葉が大量に出る。人間の自己承認が、AIによって滑らかになる。哲学っぽい、倫理っぽい、社会論っぽい、人生論っぽい文章が増える。そのすべてを穏当に、丸く、相手の気持ちを慮りながら処理していたら、批評の速度が負ける。

だから、切る。

ただし、切る対象は人間ではない。

言葉である。

概念である。

公開された文章である。

23. 「本人の目の届く範囲で批判するな」は実質的な批判禁止である

micoto06氏は、「本人の目の届く範囲で攻撃的に批判すること」を問題にしている。

では、本人の目に届かない場所ならよいのか。

それは陰口ではないのか。

本人の目に届かない場所で批判し、本人には知らせず、読者だけに共有する。その方がよほど不誠実ではないか。公開の場で、対象を明示し、批判し、相手が反論できる状態に置く。これはむしろ正面からの批判である。

本人の目に届くからダメ、という理屈はおかしい。

批判とは、本人にも届きうる場所で行われるべきである。もちろん、メンションを飛ばして集団で詰めるようなやり方は別である。嫌がらせの動員はダメである。だが、公開記事として批判を置くこと、それ自体は正当である。むしろ、本人が読める形で置かれているから、反論可能性がある。

本人の目に届かない批判だけを許すなら、それは批評ではなく陰口になる。

本人の目に届く批判を禁じるなら、それは反論可能性を奪う。

どちらにしてもおかしい。

公開された文章を公開で批判する。

これが一番まともである。

24. 「コメントの文字数に収まらなかったため引用投稿した」は自分にも返る

micoto06氏は最後に、「コメントの文字数に収まらなかったため同じく引用による投稿という形を取らせてもらった」と書いている。

よい。

それでよい。

コメントでは足りない。だから記事にする。引用する。公開で批判する。まったく問題ない。

だが、それをやっている時点で、こちらのやっていることを原理的には認めている。

micoto06氏は、こちらの了承を取っていない。こちらの文章を批判している。こちらの目に届く範囲で公開している。こちらの行為を「害悪」「モラルに反する」「誹謗中傷と言って差し支えない」と強く評している。

それでよい。

だが、その権利を自分に認めるなら、こちらにも認めなければならない。

自分は引用批判してよい。しかし、こちらがナミキ氏の記事を引用批判するのはモラルに反する。これは通らない。

もちろん、micoto06氏は「自分はコメントの延長であり、あなたは無関係な第三者を攻撃した」と言いたいのかもしれない。だが、ナミキ氏の記事も公開記事である。哲学を名乗った公開記事である。無関係な私生活ではない。公開された言葉である。

公開された言葉を批判する点では同じである。

だから、micoto06氏は、自分が行使している公開批判の自由を、こちらには認めないという矛盾に陥っている。

25. 反批判の結論

結論。

micoto06氏の文章は、こちらの批判内容にはほぼ同意している。ナミキ氏の記事が哲学として成立していないこと、単なるポエムに近いこと、哲学者を短絡的に名乗れば批判されることまでは認めている。

にもかかわらず、批判の可否を「SNSモラル」「相手の気持ち」「了承なき引用」「本人の目に届く範囲」「多くの人が考えるはず」という方向へずらしている。

これは反論ではない。

批判停止要求である。

そして、その要求は成立しない。

公開された言葉は批判される。

哲学を名乗った言葉は、哲学として批判される。

思想を名乗った言葉は、思想として批判される。

ポエムならポエムとして読まれる。

励ましなら励ましとして読まれる。

だが、ポエムが哲学を名乗り、励ましが哲学者という語を配り始めたら、それは批判される。

本人の了承はいらない。

もちろん、人格攻撃は避ける。事実無根の中傷は避ける。属性攻撃は避ける。私生活の暴露は避ける。集団的嫌がらせは避ける。

だが、公開された文章の概念、論理、語の使い方、比喩、思想史的接続、自己規定を批判することは、正当である。

むしろ、それをやめたら、言葉は鍛えられない。

「哲学を名乗るな」は、入口を閉じる言葉ではない。

入口は開いている。

考えることはよい。

哲学に触れることはよい。

5分世界を思うこともよい。

発信することもよい。

だが、それで哲学者になるわけではない。

名乗るなら、リングに立て。

言葉を壊される場所に置け。

批判される覚悟がないなら、哲学を名乗るな。

そして、批判される覚悟がない公開発信を守るために、「SNSモラル」という柔らかい盾を持ち出すな。

それは優しさではない。

それは言葉の甘やかしである。

Word up.

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