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映画『1917 命をかけた伝令』を通して見るTVアニメ『幼女戦記』――泥濘から空へ、日本アニメの異世界創造力


1.『1917』を見て、『幼女戦記』の評価が上がった

ぼくがTVアニメ『幼女戦記』第1期を見たのは、2020年より後だったと思う。2017年の放送時に追っていたわけではない。すでに評価の定まった作品として、配信でまとめて見た。

面白かった。幼女の姿をした合理主義者が、第一次大戦と第二次大戦を混ぜ合わせたような異世界で軍人として戦う。その設定だけを抜き出せば、いかにも日本のライトノベル原作アニメらしい。しかし、実際に見てみると、設定の奇抜さだけで押している作品ではなかった。

空中戦は気持ちよい。ターニャ・デグレチャフの高速機動、急降下、砲撃、編隊戦闘には、アニメーションでなければ出せない快楽がある。その一方で、参謀本部の爺さんたちが地図を囲み、兵站や戦線や政治的制約について延々と話している。それも面白い。そして地上では、歩兵が塹壕に入り、砲撃に耐え、泥と雪と廃墟の中で消耗している。

よくできた軍事アニメだと思った。

その後、Amazon Prime Videoで映画『1917 命をかけた伝令』を見た。サム・メンデス監督による、第一次大戦の西部戦線を舞台にした実写映画である。

普通なら、莫大な予算を投じた実写の戦争映画を見た後では、先に見たTVアニメの戦場描写が相対的に軽く見えてもおかしくない。実物の人間、広大なセット、泥、水、火薬、廃墟。アニメではどうしても省略される物質的な細部を、実写映画は直接画面に出せる。

しかし、ぼくの中で起きたのは逆だった。

『1917』を見たことで、『幼女戦記』の評価がさらに上がった。

『1917』が、第一次大戦の戦場とはどういう空間であったのかを圧倒的な具体性で見せてくれた。その結果、『幼女戦記』第1期がすでに、その泥濘、塹壕、砲撃、廃墟、曇天の感触をかなり正確に捉えていたことが分かったのである。

もちろん、『幼女戦記』が『1917』を参照したわけではない。制作順は逆である。『幼女戦記』第1期は2017年、『1917』は2019年の映画だ。

ここで言いたいのは模倣関係ではない。

後から見た優れた実写映画を比較基準にすることで、先に見た日本のTVアニメが何をすでに達成していたのかを、より正確に評価できるようになったということである。

2.『1917』が描いた、文字どおり泥臭い戦争

『1917』の物語は単純である。

ドイツ軍が撤退したように見せかけてイギリス軍を罠に誘い込もうとしている。攻撃中止命令を前線へ届けなければ、多数の兵士が死ぬ。二人の若い兵士が、敵地を横断して伝令に向かう。

この映画の核心は、物語の複雑さにはない。

人間の身体が戦場という空間を通過する、その過程そのものにある。

兵士たちは塹壕を歩く。泥に足を取られる。狭い通路ですれ違う。鉄条網を越える。砲撃で掘り返された土地を進む。水に浸かり、死体を避け、崩壊した建物の中を抜けていく。

戦場は背景ではない。

人物が会話し、事件が起こる後ろに、それらしい景色が置かれているのではない。泥、穴、水、瓦礫、死体、崩れた道路そのものが、兵士の行動を制約する。戦場という環境それ自体が、登場人物に敵対している。

『1917』は全編が一続きに見えるような長回し風の撮影で知られている。しかし、それは単なる技巧ではない。

カメラが切れずに兵士についていくことで、出発点から目的地までの距離が消去されない。戦場は編集によって飛び越えられる抽象的な地点ではなく、実際に身体で踏破しなければならない土地になる。

前線から前線へ移るには、泥の中を歩かなければならない。廃墟を抜けなければならない。川を渡らなければならない。走っても、転び、ぶつかり、息を切らす。

戦争とは、まず移動が困難になった世界なのだ。

兵士は国家や戦略のために戦っている。しかし、兵士の身体にとっての戦争は、理念や地図ではない。目の前にある泥、壁、穴、距離、重力である。

『1917』は、それを文字どおり泥臭く描いた。

3.『幼女戦記』は、すでに地面を描いていた

『幼女戦記』について語るとき、まず注目されるのは航空魔導師だろう。

人間が演算宝珠と魔導具を使い、銃器を携えて空を飛ぶ。ターニャたちは航空機のように高速で移動し、偵察し、爆撃し、敵魔導師と交戦する。

この設定は目立つ。

だから『幼女戦記』は、空を飛ぶ幼女軍人のアニメとして記憶されやすい。

しかし、『1917』を見た後で第1期の記憶をたどると、『幼女戦記』が空だけを描いた作品ではなかったことが、よりはっきり分かる。

あの作品は、地面をきちんと描いていた。

塹壕がある。泥濘がある。雪原がある。砲撃によって掘り返された土地がある。倒壊した市街地がある。煙と煤に覆われた空がある。兵士たちは地形に拘束され、遮蔽物に身を隠し、砲撃を避け、命令を待っている。

戦場の地面は、単なる背景ではない。

兵士が自由に動けない理由として存在している。部隊の進行を妨げ、攻撃方向を限定し、損害を発生させる具体的な空間になっている。

特に優れていたのが美術だと思う。

『幼女戦記』の戦場は、色が沈んでいる。土、雲、煙、軍服、建物が、灰色や褐色の近い領域に収まっている。画面全体が乾いているようでいて、地面だけは湿って重い。空は広いのに明るくない。人物がいなくても、その場所が人間を消耗させるための空間だと分かる。

戦争アニメでは、キャラクター作画やメカ作画、戦闘エフェクトが注目されやすい。もちろん『幼女戦記』も、そこは優れている。

しかし、戦場の説得力を支えていたのは、背景美術とレイアウトだった。

塹壕を塹壕らしく描くこと。爆撃された都市を、単なる壊れた建物の集合ではなく、人間の生活空間が軍事的地形へ変わってしまった場所として描くこと。雪や泥を、季節感の記号ではなく、兵士の移動や生存を左右する条件として描くこと。

それらができていたから、『幼女戦記』の戦争は、魔法のある異世界の出来事でありながら、地に足がついていた。

『1917』は、大規模なセットと実写撮影によって、戦場の物質性を徹底的に見せる。

『幼女戦記』は、TVアニメの限られた尺と制作条件の中で、背景美術、色彩、レイアウト、音響によって、同じ種類の重さを作っていた。

『1917』を見たことで、その仕事の水準が分かった。

日本のTVアニメは、こんなところまでやっていたのかと思った。

4.地面が重いから、空を飛ぶことが気持ちいい

『幼女戦記』の空中戦が気持ちよいのは、作画がよく動くからだけではない。

地上が重いからである。

地上の兵士は、塹壕に縛られる。泥に足を取られる。遮蔽物から遮蔽物へ移動する。砲撃範囲から簡単には逃れられない。前線は水平方向に伸び、兵士はその中で少しずつ前進し、後退し、消耗する。

そこから魔導師たちは空へ抜ける。

上昇する。加速する。急降下する。旋回する。敵の側面や背後へ回り込む。地上では閉ざされていた垂直方向を使い、三次元的に戦場を移動する。

『1917』では、兵士の身体は地面に押しつけられている。

『幼女戦記』では、その地面の重さを残したまま、一部の兵士だけが空へ離脱する。

この落差が、航空魔導戦の快楽を作る。

地上戦の重さを描かず、最初から誰もが自由に飛び回っていたなら、あの空中戦は単なる異能バトルになっていただろう。

しかし、『幼女戦記』の画面には、常に地上がある。

ターニャたちが空を飛んでいる間も、その下では歩兵が塹壕を守り、砲兵が射撃し、部隊が損耗している。魔導師は地上戦から切り離されたヒーローではなく、地上軍の作戦を成立させるために投入される軍事戦力である。

しかも、空を飛べば自由になるわけでもない。

魔導師は編隊に拘束される。命令系統に拘束される。魔力残量、射程、敵の対空砲火、任務目的に拘束される。地上の泥からは離れられても、軍隊と戦争からは離れられない。

自由に見える高速機動も、実際にはきわめて厳密な任務遂行である。

この二重性が面白い。

地上の兵士よりは自由に動ける。しかし、自由な個人として飛んでいるのではない。より高速で、より広い範囲に、軍事組織の命令を実行するために飛んでいる。

『幼女戦記』は、地面の閉塞と空の解放感を対比させながら、どちらも戦争の内部に置いている。

だから空中戦が軽くならない。

気持ちよいのに、戦争の重さが消えない。

5.爺さんたちの会話が、戦場を作る

『幼女戦記』の魅力は、戦闘だけではない。

ゼートゥーア、ルーデルドルフ、レルゲンをはじめとする軍人たちが、地図や書類を前に延々と話している。戦況を分析し、兵站を考え、政治的制約を読み、部隊をどこへ投入するかを決める。

爺さんたちの会話劇である。

しかも、これが面白い。

彼らは戦争の正義について熱く演説するわけではない。敵への憎悪を叫ぶわけでもない。限られた兵力、補給能力、外交条件、組織上の都合を前提として、どの選択肢が最も合理的かを考えている。

その乾いた合理性が、『幼女戦記』の世界を作っている。

前線の戦闘は、突然起こる見せ場ではない。

参謀本部が地図上で線を引き、部隊を動かし、作戦を承認した結果として発生する。逆に、前線で生じた損害や混乱は報告書となり、再び爺さんたちの机へ戻ってくる。

机上の会話と、泥の中の死体がつながっている。

そこが重要である。

戦争を描く作品では、参謀や官僚は、しばしば現場を理解しない無能な上層部として描かれる。あるいは、主人公の活躍を説明するための情報提供役になる。

『幼女戦記』の爺さんたちは、それほど単純ではない。

彼らは有能である。前線の状況を理解し、国家の限界も理解している。そのうえで、合理的に考えた結果として、人間を危険な戦場へ送り込む。

合理性が非人間的なのではない。戦争という制度の中では、人間的な善意だけでは判断できないのである。

ターニャも同じだ。

安全な後方勤務を望み、合理的に振る舞い、規則に従い、組織の中で最適解を選ぼうとする。その結果、優秀すぎる軍人として前線へ送り込まれ続ける。

個人の合理性と組織の合理性が、互いに噛み合いながら本人の希望とは逆の結果を生む。

爺さんたちの会話劇は、その構造を見せている。

だから戦闘がなくても面白い。

地図の前で人が話しているだけなのに、国家が動き、軍隊が動き、次の戦場が生まれていくのが分かる。

6.異世界とは、現実から逃げることではない

『幼女戦記』は異世界作品である。

ただし、剣と魔法の中世風世界ではない。第一次大戦と第二次大戦のヨーロッパを思わせる国家、軍隊、兵器、政治体制を組み合わせ、そこに魔法と航空魔導師を追加した世界である。

現実の歴史をそのまま再現しているわけではない。

帝国はドイツ帝国を中心に複数の歴史的要素を混ぜている。共和国、連合王国、連邦、合州国も、それぞれ現実の国家をモデルにしながら、そのままではない。戦争も、第一次大戦と第二次大戦の戦況、兵器、作戦思想が混在している。

それでも世界が崩れないのは、現実の構造を理解したうえで組み替えているからだ。

国家には利害がある。軍隊には指揮系統がある。部隊には兵站が必要である。兵器には役割がある。地形と天候は作戦を制約する。政治的決定と軍事的合理性は一致しないことがある。

その基本構造を壊さずに、航空魔導師という架空の要素を差し込んでいる。

航空魔導師も、ただの空を飛ぶ魔法使いではない。

偵察、制空、地上攻撃、砲撃観測、特殊作戦を担う軍事単位として設計されている。魔法が何でも解決するのではなく、既存の兵科とどう組み合わされ、どこで有効で、どこに限界があるのかが描かれる。

異世界創造力とは、現実と無関係な設定を思いつく力ではない。

現実の制度、技術、身体、空間を理解し、その構造を保ったまま、存在しない要素を追加する力である。

『幼女戦記』は、その点で非常に優れている。

魔法を導入しているのに、戦争が軽くならない。

幼女を主人公にしているのに、軍隊が幼稚にならない。

異世界であるのに、地面の泥が消えない。

むしろ、現実の戦争をよく理解しているからこそ、現実には存在しない航空魔導戦を説得的に描ける。

それが日本アニメの強さだと思う。

7.監督が変わっても、『幼女戦記』は『幼女戦記』だった

そして2026年、第2期が始まった。

第1期と劇場版で監督を務めた上村泰から、山本貴之へ監督が交代した。上村泰は『幼女戦記』の映像的な文法を作った人物である。空中戦の速度感、誇張された表情、軍人たちの会話劇、地図上の戦略と前線の戦闘を往復する構成。

監督交代には、当然不安があった。

続編で監督が変わると、同じキャラクター、同じ声優、同じ設定を使っていても、別の作品に見えることがある。演出の間、画面の情報量、戦闘の見せ方、会話場面のリズムは、監督によって変わる。

しかし、第2話まで見た限り、その不安はかなり小さくなった。

第1話の空中戦は、きちんと『幼女戦記』だった。

速度感がある。攻撃の重量がある。カメラが動いても、誰がどこにいて何をしているのかが分かる。魔導師が単に光線を撃ち合うのではなく、軍事的な位置取りと判断によって戦っている。

そして第2話は、目立った戦闘場面がなくても面白かった。

爺さんたちが話す。各国の軍人や政治家が状況を判断する。誰が何を恐れ、何を期待し、どこで誤算しているのかが、会話と表情と場面転換によって示される。

説明台詞は多い。

それでも、ただ情報を読み上げているようには見えない。話す人物の立場、相手との距離、発言の裏にある計算が演出されている。地図や資料の見せ方も含め、画面が止まらない。

戦闘がない回で演出のうまさが分かるというのは、かなり信頼できる。

派手なアクションは、優秀な作画スタッフを集めれば局所的には成立する。しかし、複数の人物が会議室で話しているだけの場面を面白くするには、作品の構造を理解していなければならない。

山本貴之は、独自色を示すために『幼女戦記』を作り替えようとはしていない。

第1期と劇場版が作った文法を理解し、それを継承しながら、新しいシリーズを動かしている。

監督としての主要実績がまだ多くないことを考えれば、かなりよくやっていると思う。

少なくとも第2話まで見た段階では、監督が変わったことを理由に身構える必要はなさそうだ。

安心して見られる。

そして、普通に面白い。

8.泥濘から空へ

『1917』は、人間が地面に縛りつけられる戦争を描いた。

兵士は塹壕を歩き、泥に沈み、廃墟を抜け、距離を身体で引き受ける。戦争とは、地面が人間を逃がさない世界である。

『幼女戦記』も、その地面を描いていた。

塹壕、泥濘、雪、砲撃跡、廃墟、曇天。背景美術とレイアウトによって、兵士が消耗する空間を作っていた。

そのうえで、航空魔導師を空へ飛ばした。

地面の重さがあるから、上昇が気持ちよい。水平に閉ざされた戦線があるから、垂直方向への突破が快楽になる。泥濘があるから、空が輝く。

しかし、空へ出ても戦争から自由になるわけではない。

ターニャたちは軍隊の命令を受け、国家の都合に動かされ、合理的に戦い続ける。

『幼女戦記』は、現実の戦場を忘れて異世界へ逃げた作品ではない。

現実の戦場を理解し、その構造を組み替え、現実には存在しない運動を追加した作品である。

『1917』という優れた実写戦争映画を見たことで、そのことがより明確に分かった。

2017年の日本のTVアニメは、すでにここまでやっていた。

そして第2期も、その達成を壊していない。

爺さんたちは相変わらず地図を囲み、国家と軍隊を動かしている。ターニャたちは、その計算の結果として再び空を飛ぶ。

『幼女戦記』は、幼女が無双するだけの異世界アニメではない。

泥濘を描き、地上戦を描き、軍隊を描き、組織を描いたうえで、空を飛ぶことの快楽を成立させた作品である。

やはり『幼女戦記』はすごい。

第2期も、安心して見ていられる。

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kj aka ルサンチMAN よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。