Ave Mujicaの「原作」としてのナボコフ『ロリータ』



影響史ではなく、“based on”として読む

最初に気づいたのは、ドロリスだった。

Ave Mujicaにおける三角初華の仮面名、Doloris。

ナボコフ『ロリータ』の少女の本名、Dolores Haze。

これは、気にならない方がおかしい。

Doloris と Dolores は、単に「似ている名前」ではない。どちらもラテン語 dolor から派生した、痛み、悲しみ、苦しみの名である。Dolores はスペイン語・英語圏で女性名として定着した形であり、Doloris は Ave Mujica が各話副題や仮面名で採用しているラテン語風の命名規則へ、その名を引き戻した形だと考えればよい。

だから、三角初華の Doloris という名が、ナボコフ『ロリータ』の Dolores / Lolita の問題圏を呼び込んでいることは、かなり早い段階で気づいていた。

しかし、それだけならまだ「ふーん」である。

もちろん、Doloris と Dolores は強い。Dolores は Humbert Humbert の語りによって Lolita にされる。Doloris は三角初華の仮面名である。ここには、名前によって人格が上書きされる構造がある。

だが、そこだけならまだ点だった。

名前が似ている。語源的にもつながる。文学的連想もできる。だから何だ、で終わる可能性があった。気の利いた引用かもしれない。偶然かもしれない。あるいは、単に「痛み」や「悲しみ」を意味する名前として採られただけかもしれない。

つまり、Doloris / Dolores / Lolita だけでは、まだ弱かった。

ところが、別の名前がつながった。

CRYCHIC。

クライシック。

そして、Camp Climax。

キャンプ・クライマックス。

その瞬間、話が変わった。

ナボコフの原作小説『ロリータ』では、正確には Camp Q であり、その近くに Lake Climax がある。映画版やミュージカル版などの派生では、Camp Climax という名前が前面化する。

映画版での「Camp Climax」

ここは丁寧に整理しなければならない。

だが、日本語の耳で聞いたとき、クライシックとクライマックスはあまりにも近い。

クライシック。

クライマックス。

Doloris という点が、CRYCHIC という別の点とつながった。

そして点が線になった。

さらに見直せば、線は面になった。

『ロリータ』における Camp Q / Camp Climax は、ロリータがハンバートに出会う前に、すでに決定的な経験を済ませていた場所である。ハンバートの幻想を裏切り、同時にその幻想をさらに歪ませる原初体験の場所である。以後の欲望を規定する場所である。

では、MyGO!!!!! / Ave Mujica における CRYCHIC とは何か。

それもまた、失われた最初の場所である。

祥子にとって、CRYCHIC は忘れたい場所でありながら、忘れられない場所である。燈にとって、声が一度届き、そして壊れた場所である。そよにとって、取り戻したい過去である。睦にとって、死んだまま身体に残り続けるものですらある。そして初華にとって、それは自分が入れなかった場所であり、祥子を奪い返さなければならない理由になった場所である。

つまり CRYCHIC は、ただの前身バンドではない。

あれは、彼女たちの Camp Climax である。

ここまで来て、ようやく分かった。

これは Doloris / Dolores / Lolita だけの話ではない。

Doloris が Dolores / Lolita につながる。CRYCHIC が Camp Q / Camp Climax につながる。さらに Imprisoned XII には、初華が祥子に向ける「今夜 私の神話になって」という欲望がある。KiLLKiSS には、kill と kiss、Judy / Jude / Juda の名前変形がある。祥子は Oblivionis、すなわち忘却を名乗りながら、CRYCHICを忘れられない。初華は Doloris を名乗りながら、祥子を自分の神話にしようとする。

ここまで並ぶと、もう偶然で済ませる方が難しい。

もちろん、これは公式設定の話ではない。

制作陣が「ナボコフを原作にしました」と言ったわけではない。影響史として確定できる話でもない。だから本稿で言う「原作」とは、制作上の原作という意味ではない。

だが批評とは、公式が認めた元ネタだけを数える作業ではない。

作品が差し出している構造を読むことだ。

その意味で、ぼくはこう言う。

Ave Mujica は、ナボコフ『ロリータ』を “based on” している。

より正確に言えば、Ave Mujica は『ロリータ』の単純な引用ではない。『ロリータ』の構造が、少女たちのバンド、仮面、名前、失われた過去、そして神話化の欲望の中へ分散した作品である。

だから本稿では、ナボコフ『ロリータ』を、Ave Mujicaの幽霊原作として読む。

『ロリータ』とは何の物語か

ここで先に断っておく。

本稿で『ロリータ』を持ち出すのは、年少者への性的関心について語りたいからではない。

その方向で読まれるなら、最初から読み違えている。

ここで問題にするのは、身体ではない。年齢でもない。まして、現実の未成年者への欲望などではない。

問題は、名前である。

語りである。

他者を、自分の欲望に都合のよい像へ変換する暴力である。

ナボコフ『ロリータ』とは、Dolores Haze という一人の少女が、Humbert Humbert の語りによって Lolita に変換される小説である。

もちろん、Dolores は最初から Lolita ではない。

Lolita とは、Humbert が作った名である。彼が欲望し、語り、装飾し、正当化し、神話化するための名前である。

ここが決定的に重要だ。

『ロリータ』とは、ロリータという少女の物語ではない。

Dolores が Lolita と呼ばれてしまう物語である。

生きている他者が、語り手の欲望によって文学的対象へ変換される物語である。

言い換えれば、『ロリータ』とは名前による上書きの小説である。

そして Ave Mujica もまた、名前による上書きの物語である。

初音は初華になる。

初華は Doloris になる。

祥子は Oblivionis になる。

睦は Mortis になる。

海鈴は Timoris になる。

にゃむは Amoris になる。

彼女たちは仮面を被るだけではない。名前を被る。

そして名前は、ただのラベルではない。

名前は人格を作る。

名前は過去を隠す。

名前は欲望を隠す。

名前は他者を閉じ込める。

Ave Mujicaが仮面バンドであるということは、顔を隠しているという意味だけではない。

名前そのものが仮面なのである。

MyGOは声でつながる。Ave Mujicaは名前で縛る。

ぼくは以前、MyGO!!!!!第10話について論じた。

そのときの主張は単純だった。

高松燈の10話における行為は、ポエトリーリーディングではなく、スポークンワードとして読むべきである。

燈は、完成された詩を朗読しているのではない。燈は、声によってバンドをもう一度生成している。叫び、言葉、息、身体、届かなさ。それらが限界まで圧縮され、ステージ上で一気に噴出する。

MyGO!!!!!は、声の物語である。

もちろん、それは単純な意味での声ではない。綺麗に整えられた歌声ではない。むしろ、歌になる前の声である。音楽になる前の言葉である。燈のスポークンワードは、形式を破って出てくる。だが、その破れた声を、楽奈が音楽へ変換し、メンバーが受け止め、バンドが成立する。

つまり MyGO!!!!! とは、声でつながる物語である。

一方、Ave Mujica は逆だ。

Ave Mujica は、最初から形式として現れる。

仮面。

設定。

ステージネーム。

物語。

演出。

シンフォニックメタル的な構築性。

Ave Mujica は、声が形式を破って出てくる物語ではない。

形式が先にある。

名前が先にある。

仮面が先にある。

だからこそ、その奥にある欲望が恐ろしい。

MyGO!!!!!では、燈の声がバンドを再びつなぐ。

Ave Mujicaでは、名前が人を縛る。

MyGOは声でつながる。

Ave Mujicaは名前で縛る。

この対比を押さえたとき、Doloris という名前の意味は決定的に変わる。

Doloris は単なるステージネームではない。

それは、初華が自ら被る名前であり、同時に彼女が逃れられない痛みの名前である。

そしてその名は、Dolores / Lolita の問題圏を呼び込む。

Dolorisとは誰か

Doloris は、初華の仮面名である。

しかし三角初華は、そもそも初華ではなかった。

彼女は初音だった。

ここで名前の層が一気に増える。

初音。

初華。

Doloris。

この三つは、単なる別名ではない。

それぞれが、別の物語を背負っている。

初音は、島で生きていた少女である。

初華は、芸能界で生きるために作られた名前である。

Doloris は、Ave Mujicaの仮面劇の中で与えられた名である。

つまり、初華は最初から「本名/芸名/仮面名」という単純な三層構造を生きているのではない。

彼女の存在そのものが、名前の上書きによって成立している。

そしてこの構造は、『ロリータ』の Dolores / Lolita と恐ろしくよく似ている。

Dolores は、Humbert の語りによって Lolita になる。

初音は、社会的事情と自己演出によって初華になる。

初華は、Ave Mujicaの仮面劇の中で Doloris になる。

ここで重要なのは、Doloris が Dolores に「似ている」ことではない。

Doloris は、Dolores をラテン語風に引き戻した名前として読めてしまうことだ。

Ave Mujicaの命名体系は、明らかにラテン語風である。

Oblivionis。

Mortis。

Timoris。

Amoris。

Doloris。

すべてが「〜の」という属格的な響きを持っている。

忘却の。

死の。

恐れの。

愛の。

痛みの。

悲しみの。

この命名規則の中で Doloris が出てくる以上、それは単なる語感ではない。

Dolores Haze をそのまま持ってくるのではなく、Ave Mujicaのラテン語風命名体系に合わせて Doloris へ変換している。

そう読めてしまう。

そして、そう読めてしまう以上、読むべきである。

批評とは、作品が差し出した構造を、見なかったことにしない営みだからだ。

CRYCHICというCamp Climax

Doloris / Dolores / Lolita は、入口である。

しかし、この論が本物になったのは、CRYCHIC / Camp Climax がつながった瞬間だった。

CRYCHIC は、MyGO!!!!! / Ave Mujica 全体の過去にあるバンドである。

祥子、燈、そよ、立希、睦。

彼女たちは一度、CRYCHICをやっていた。

そしてCRYCHICは壊れた。

その崩壊が、MyGO!!!!!を生み、Ave Mujicaを生む。

つまり CRYCHIC は、単なる前日譚ではない。あらゆる後続物語を支配する失われた原初体験である。

祥子はCRYCHICを忘れようとする。

そよはCRYCHICを取り戻そうとする。

燈はCRYCHICの喪失から、もう一度声を出さなければならなくなる。

立希は祥子への怒りを抱え続ける。

睦は、CRYCHICの死を身体の中に抱え込む。

そして初華は、CRYCHICに入れなかった。

この「入れなかった」ということが重要である。

初華にとって、CRYCHICは失われた場所であると同時に、自分が最初から排除されていた場所である。祥子の過去に存在し、自分はそこにいない。そこには燈がいる。そよがいる。睦がいる。立希がいる。

初華はいない。

だからCRYCHICは、初華にとって二重に耐えがたい。

それは祥子の傷である。

同時に、初華が入り込めない祥子の神話である。

『ロリータ』における Camp Q / Camp Climax もまた、ハンバートが入り込めない場所である。

そこでは、ロリータがハンバートに出会う前に、すでに何かを経験している。

ハンバートは、自分がロリータを発見したと思っている。自分がロリータを名づけ、自分がロリータを所有し、自分がロリータの物語を語ると思っている。

だが、その幻想は最初から裏切られている。

ロリータには、ハンバート以前がある。

ハンバートの物語に収まらない過去がある。

だから Camp Q / Camp Climax は、ハンバートの幻想を破壊する場所である。

Ave MujicaにおけるCRYCHICも同じだ。

祥子には、初華以前がある。

初華が入れない過去がある。

初華がどれだけ祥子を愛しても、どれだけ祥子のために動いても、どれだけ祥子の隣に立とうとしても、CRYCHICという過去には入れない。

そこに初華の嫉妬が生まれる。

そして、その嫉妬が Ave Mujica を駆動する。

だからCRYCHICは、彼女たちのCamp Climaxである。

失われた最初の場所。

以後の欲望を規定する場所。

忘れたいのに忘れられない場所。

入りたかったのに入れなかった場所。

神話化され、否認され、反復される場所。

Ave Mujicaを読むなら、CRYCHICをただの前身バンドとして扱ってはいけない。

あれは、すべての歪みが始まった場所である。

「すべて忘れさせて」の誤読

ここで、祥子と初華の関係をさらに歪ませている言葉がある。

「すべて忘れさせて」。

この言葉は、恐ろしく曖昧である。

祥子が忘れたかったものは何か。

それは、CRYCHICだったのではないか。

壊れたバンド。

届かなかった声。

捨てた仲間。

自分が終わらせた過去。

祥子にとって、忘れたいものはCRYCHICだった。

だが、初華はそれをどう受け取ったのか。

初華にとって、忘れさせるべきものは何だったのか。

ここにズレがある。

初華は、祥子が忘れたいものを、祥子の家庭、豊川家、父親の失脚、そうした現実的な破滅の方へ結びつけたのではないか。あるいは、少なくとも彼女は、祥子の傷を自分が処理できるものとして引き受けた。

だが、祥子の奥にあったのは、もっと厄介なものだった。

CRYCHICである。

初華が入れない過去である。

初華がいくら動いても消せない場所である。

つまり二人は、最初から同じ言葉を違う意味で使っていた。

祥子は「忘れさせて」と言った。

初華は、それに応えたつもりだった。

だが、二人が見ていた「忘却」は同じではなかった。

ここに、悲劇の初期条件がある。

物語は最初からズレていた。

祥子が始めた物語である。

だが、初華はその物語を誤読して始めた。

そして誤読された物語が、祥子自身を縛り返す。

この構造は、きわめてナボコフ的である。

『ロリータ』においても、語り手は相手を理解しているつもりで、実際には自分の欲望を語っている。

Ave Mujicaでも同じだ。

初華は祥子を理解しているつもりで、実際には自分の欲望を祥子に重ねている。

祥子は初華に救われたつもりで、実際には初華の物語に取り込まれていく。

ここで、単純な救済は消える。

あるのは、誤読された言葉によって始まった物語である。

Imprisoned XII――私の神話になって

Ave Mujicaにおける初華の欲望が最も露骨に現れるのは、Imprisoned XIIである。

この曲は、ただの恋愛歌ではない。

まして、ただの重い感情の吐露でもない。

これは、初華が祥子を閉じ込めようとする歌である。

タイトルからしてそうだ。

Imprisoned。

幽閉されること。

囚われること。

閉じ込められること。

そしてその中で、初華は祥子に向かって言う。

「今夜 私の神話になって」。

これは決定的である。

「私の恋人になって」ではない。

「私のものになって」でもない。

「私の神話になって」である。

神話とは何か。

それは、ただの記憶ではない。

ただの思い出でもない。

神話とは、現実を超えて意味づけられた物語である。人が自分の世界を組み立てるために、繰り返し参照する物語である。

つまり初華は、祥子に「私の神話になって」と言っている。

祥子を現実の人間として受け入れるのではない。

祥子を、自分の物語の中心に据えようとしている。

祥子を、初華自身の世界を成立させる神話的対象にしようとしている。

これは完全に Humbert 的な欲望である。

ここで重要なのは、役割が反転していることだ。

一見すると、初華は Lolita 側に見える。

Doloris という名前を持つ。

Dolores / Lolita の連想を背負う。

祥子に見出され、Ave Mujicaの中で仮面を与えられた存在である。

だが Imprisoned XII では違う。

ここでHumbert的なのは初華である。

初華が、祥子を神話化する。

初華が、祥子を閉じ込めようとする。

初華が、祥子を自分の物語の中に所有しようとする。

つまり Ave Mujica は、『ロリータ』の単純な反転ではない。

初華=Lolita、祥子=Humbert。

そんな対応では弱すぎる。

Ave Mujicaにおいて、『ロリータ』の構造は分散している。

名づけられる者が、名づける。

神話化される者が、神話化する。

閉じ込められる者が、閉じ込める。

ここに、Ave Mujicaの歪みがある。

そしてこの歪みこそが、Ave Mujicaをただの仮面バンドものにしない。

初華は被害者である。

だが、それだけではない。

初華は欲望する。

初華は奪おうとする。

初華は神話化する。

初華は閉じ込めようとする。

この多層性を見ないなら、Ave Mujicaを読んだことにはならない。

KiLLKiSS――誰が殺し、誰が殺されるのか

KiLLKiSS もまた、決定的である。

タイトルからして、愛と暴力が分離していない。

kill。

kiss。

殺すこと。

接吻すること。

破壊すること。

愛すること。

この二つが、一語の中に押し込められている。

『ロリータ』において、Humbert の愛は Dolores を救わない。

むしろ、Dolores を Lolita として殺す。

もちろん、物理的に殺すという意味ではない。

Dolores という生きている他者を、Lolita という美的対象へ変換する。生きた人物を、自分の物語の中の像へ変えてしまう。

それは愛の名を借りた殺害である。

Ave Mujicaでも同じことが起きている。

祥子は、初音を初華として呼び続ける。

初華は、祥子を自分の神話にしようとする。

CRYCHICは、Ave Mujicaによって殺される。

だが同時に、Ave MujicaはCRYCHICに殺され続けている。

ここで問いを立てなければならない。

誰が殺すのか。

誰が殺されるのか。

祥子が初音を殺すのか。

初華が祥子を殺すのか。

Ave MujicaがCRYCHICを殺すのか。

それとも、CRYCHICがAve Mujicaを殺し続けるのか。

答えは一つではない。

だから KiLLKiSS なのである。

愛することが殺すことになる。

接吻することが閉じ込めることになる。

名づけることが相手の生を奪うことになる。

さらに KiLLKiSS には、名前のズレがある。

Judy。

Jude。

Juda。

そして、その背後にある Judas。

これはただの音遊びではない。

Judas は裏切りの名である。

信仰、愛、共同体、神話、それらの内部に裏切りを持ち込む名前である。

『ロリータ』の冒頭が、名前を音として転がし、Dolores / Dolly / Lo / Lola / Lolita のように変形させていく小説であったことを思えば、KiLLKiSS における Judy / Jude / Juda の変形はあまりにも露骨である。

もちろん、作詞者の内面は証明できない。

だが、このレベルの言葉遊びを仕掛ける者が、Dolores / Lolita という西洋文学史上あまりにも有名な名の変形を完全に素通りしていたと考える方が難しい。

少なくとも、KiLLKiSS はナボコフ的な名前変形の快楽と同じ回路で動いている。

名前がずれる。

意味がずれる。

愛が殺害へずれる。

接吻が裏切りへずれる。

そして、そのズレこそがAve Mujicaである。

誰がHumbertで、誰がLolitaなのか

ここまで来ると、単純な対応表は壊れる。

初華=Lolita。

祥子=Humbert。

そう言いたくなる。

だが、それでは浅い。

もちろん、初華は Doloris である。

Doloris は Dolores / Lolita を呼び込む。

だから初華は Lolita 的である。

しかし、それだけではない。

Imprisoned XII において、初華は祥子を「私の神話」にしようとする。

この時、初華は明らかに Humbert 的である。

一方、祥子はどうか。

祥子は Oblivionis である。

忘却の名を持つ。

彼女はCRYCHICを忘れたい。自分が壊したものを忘れたい。自分が逃げたものを忘れたい。

だが、忘れたいものは忘れられない。

むしろ忘れたいという欲望そのものが、CRYCHICを神話化してしまう。

この意味で、祥子もまた、CRYCHICに所有されている。

そして初華から見れば、祥子は神話化される対象である。

つまり祥子は、Humbertであると同時にLolitaでもある。

名づける側であり、名づけられる側である。

物語を始めた側であり、物語に閉じ込められる側である。

この複雑さが、Ave Mujicaの核心である。

『ロリータ』では、Humbertが語り手であり、Doloresが語られる対象である。

もちろん、小説自体はその非対称性を批判的に露呈させる。

だが、構造としては、語る側と語られる側がある。

Ave Mujicaでは違う。

語る側と語られる側が固定されない。

名づける者が、名づけられる。

神話化する者が、神話化される。

閉じ込める者が、閉じ込められる。

だからAve Mujicaは『ロリータ』の単純な再演ではない。

『ロリータ』の構造が、バンドという複数主体の劇の中に分散している。

これが “based on” の意味である。

公式がそう言ったかどうかではない。

構造がそうなっている。

共犯者たち

ここで必要になるのが、「共犯者」という言葉である。

Ave Mujica第13話で、祥子は真実を知った後も、初音を「初華」と呼ぶ。

これは重要である。

真実が明かされた。

初華は初華ではなかった。

初音だった。

それなら、物語は「本当の名前」へ戻ることで解決するはずである。

しかし、そうはならない。

祥子は初音を初華と呼び続ける。

Ave Mujicaも続く。

ここで何が起きているのか。

仮面が暴かれた後に、なお仮面を使い続けるのである。

嘘が嘘だと分かった後に、その嘘を共有するのである。

これは単なる優しさではない。

共犯である。

『ロリータ』におけるHumbertの名づけは、一方的で暴力的である。

Dolores は Lolita と呼ばれる。

そこには非対称な支配がある。

だがAve Mujicaでは、名前の暴力は一方通行ではない。

祥子は初音を初華と呼び続ける。

初華は祥子を自分の神話にしようとする。

二人は互いに相手を誤読し、神話化し、閉じ込める。

そしてそのことを、少なくとも完全には知らないふりをできない地点まで来ている。

それでも続ける。

だから共犯者なのである。

解決ではない。

和解でもない。

欲望の成就でもない。

矛盾を抱えたまま、名前を維持すること。

仮面を仮面と知ったうえで、なお被り続けること。

これがAve Mujicaの悲劇である。

ぼくは以前、初華の第1話と第13話に現れる微笑を、アルカイックスマイルとして読んだ。

あの微笑は、幸福の微笑ではない。

絶望の微笑でもない。

あれは悲劇の微笑である。

なぜなら、そこでは矛盾が解決していないからだ。

初華と初音。

仮面と素顔。

理解と断絶。

欲望と受容。

それらは最後まで消えない。

今回の論で、その構造はさらに明確になる。

あの微笑は、名前の矛盾を抱えた者の微笑である。

初音でありながら初華であり、初華でありながらDolorisであり、名づけられる者でありながら名づける者でもある。

その矛盾を消さない。

抱えたまま続ける。

だから、あの微笑はアルカイックスマイルなのである。

他の仮面たち

ここまで、初華と祥子を中心に論じてきた。

それは当然である。

Doloris / Dolores / Lolita の線も、Imprisoned XII の神話化欲望も、CRYCHICへの嫉妬も、最も強く現れるのは初華と祥子の関係だからだ。

しかし、Ave Mujicaは二人だけの物語ではない。

この構造は、バンド全体に分配されている。

睦は Mortis である。

死の名を持つ。

睦は、CRYCHICの死を身体化している。彼女は、単に過去のメンバーなのではない。CRYCHICが死んだまま終わっていないこと、その死が現在に残り続けていることを示す存在である。

だからMortisなのである。

海鈴は Timoris である。

恐れの名を持つ。

海鈴は、Ave Mujicaの神話に完全には呑まれない。彼女はしばしば、神話化された関係を現実の語彙へ引き戻す。美少女たちの繊細な関係性を、身も蓋もない言葉で処理してしまう冷たさを持つ。

だからTimorisなのである。

にゃむは Amoris である。

愛の名を持つ。

だが、にゃむの機能は、単に愛することではない。彼女は仮面を剥がす。第1話のライブで、仮面剥がしの流れを作るのはにゃむである。自ら仮面を脱ぎ、睦と海鈴の仮面を剥がし、その流れが祥子と初華へ及ぶ。

愛は、仮面を守るとは限らない。

愛は、仮面を剥がすこともある。

だからAmorisなのである。

祥子は Oblivionis である。

忘却の名を持つ。

だが彼女は忘れられない。

CRYCHICを忘れたい。過去を忘れたい。自分の失敗を忘れたい。すべてを忘れたい。

しかし忘却を名乗ることで、逆に忘却できないことが露呈する。

だからOblivionisなのである。

初華は Doloris である。

痛みの名を持つ。

悲しみの名を持つ。

Dolores / Lolita を呼び込む名を持つ。

だが、彼女はただ痛む者ではない。

痛みを使って、相手を神話化する者でもある。

だからDolorisなのである。

このように、Ave Mujicaの仮面名は、単なるキャラ属性ではない。

それぞれが、バンド全体に分配された悲劇の機能である。

死。

恐れ。

愛。

忘却。

痛み。

これらが一つのバンドとして舞台に立つ。

それがAve Mujicaである。

これは偶然ではない

ここまで並べても、まだ偶然と言いたいなら、そう言えばいい。

Doloris / Dolores / Lolita も偶然。

CRYCHIC / Camp Climax も偶然。

Imprisoned XII の神話化欲望も偶然。

KiLLKiSS の kill / kiss も偶然。

Judy / Jude / Juda の名前変形も偶然。

Oblivionis が忘却を名乗りながら忘れられないことも偶然。

Doloris が痛みの名を持ちながら神話化することも偶然。

そう言いたければ、言えばいい。

だが、それは批評ではない。

偶然と言えば、何でも偶然にできる。

問題は、作品がどのような構造を差し出しているかである。

Ave Mujicaは、名前の作品である。

仮面の作品である。

神話化の作品である。

失われた原初体験の作品である。

そして、それらはナボコフ『ロリータ』の構造とあまりにも強く響き合っている。

だから、ぼくは断言する。

Ave Mujicaはナボコフ『ロリータ』を “based on” している。

影響史としての断定ではない。

公式設定としての断定でもない。

だが、構造としてはそう読める。

いや、そう読む方が自然である。

『ロリータ』とは、Dolores が Lolita と呼ばれてしまう物語だった。

Ave Mujicaとは、初音が初華と呼ばれ、初華がDolorisと呼ばれ、祥子がOblivionisと呼ばれ、CRYCHICが失われた原初体験として神話化され続ける物語である。

『ロリータ』では、HumbertがDoloresをLolitaへ変換する。

Ave Mujicaでは、その構造が全員に分配される。

名づけられる者が、名づける。

神話化される者が、神話化する。

閉じ込められる者が、閉じ込める。

そしてその全員が、仮面を外したあとも、なお名前という仮面を被り続ける。

おわりに

Ave Mujicaは、ただの仮面バンドではない。

ただのゴシックな美少女バンドでもない。

ただの重い感情の物語でもない。

あれは、名前によって人が作り替えられる物語である。

Dolores が Lolita にされたように。

初音は初華になり、初華は Doloris になる。

祥子は忘却を名乗りながら、忘れられない。

睦は死を名乗りながら、死んだ過去を生き続ける。

海鈴は恐れを名乗りながら、神話を現実へ引き戻す。

にゃむは愛を名乗りながら、仮面を剥がす。

そしてCRYCHICは、彼女たちのCamp Climaxとして、失われた最初の場所であり続ける。

だから、Ave Mujicaの「原作」はナボコフ『ロリータ』である。

もちろん、これは公式の原作ではない。

影響史として確定された原作でもない。

だが、構造上の原作である。

幽霊原作である。

作品の奥で鳴っている、もう一つの楽譜である。

そして、その楽譜を聞いてしまえば、もう以前のようにはAve Mujicaを見られない。

Doloris。

CRYCHIC。

Imprisoned XII。

KiLLKiSS。

Oblivionis。

Mortis。

Timoris。

Amoris。

それらはばらばらの記号ではない。

ひとつの構造を作っている。

Ave Mujicaは『ロリータ』の単純な反転ではない。

『ロリータ』の構造が、少女たちのバンドの中へ分散し、反転し、相互化した作品である。

だから、こう言い切ってよい。

Ave Mujicaは、ナボコフ『ロリータ』を “based on” している。

そして初華のアルカイックスマイルは、その事実を最後まで隠し、最後にもう一度だけ、こちらへ見せる。

あれは幸福の微笑ではない。

絶望の微笑でもない。

名前によって縛られた者たちが、それでもその名前を引き受けて続いていく、悲劇の微笑である。

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