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スピるとは何か――批判語彙としての「スピ」

All eyes on「スピ」

前書き

「スピる」という言葉がある。

もともとは「スピリチュアル」に由来する若者語だろう。普通に使えば、占い、引き寄せ、波動、宇宙、前世、魂、そういうものに寄っていくことを指す。そして、それを揶揄する文脈で主に使われる。「あいつスピってる」と言えば、「あいつは分別のつかないやつだ」という意味になる。

しかし、ぼくはこの言葉をもう少し広く、もう少し硬い批判語彙として使いたい。

ぼくの定義では、「スピる」とは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味や理念に逃げることである。

だから、これは単なるスピリチュアル批判ではない。占いが嫌いだとか、オカルトが嫌いだとか、宗教的なものを全部否定したいとか、そういう話ではない。むしろ逆である。宗教的な表象、神話、芸術、フィクション、変性意識のようなものを全部まとめて「非合理」として切り捨てる態度も、それはそれで雑すぎる。

問題は、神秘的であることではない。問題は、現実を踏み倒すことである。

この文章では、「スピる」という俗語を、現代の批判語彙として鍛え直す。反証可能性だけでは切れないものを切るために。科学か非科学かではなく、現実の制度・身体・責任・因果を踏み倒しているかどうかを見るために。


1. 「スピる」の定義

制度の問題を内面の問題にすり替える。身体の問題を精神性の問題にすり替える。責任の所在を大きな物語に溶かす。因果の検討を飛ばして、「本当はこういう意味がある」と言い出す。具体的な現実を処理できない、あるいは処理したくないときに、抽象的で大きな言葉へ逃げる。

それが、ぼくの言う「スピる」である。

ここで重要なのは、「スピ」を単なる悪口にしないことである。「あいつはスピっている」と言った瞬間に検討を終わらせるなら、この言葉自体がスピる。つまり、批判語彙のふりをしたレッテル貼りになる。

だから、「スピる」を使うなら、最低限の検品手続きが必要になる。

2. スピ判定チェックリスト

ある言説がスピっているかどうかを見るとき、ぼくは次の観点で検査する。

第一に、概念を実体化していないか。

観察された傾向、便宜的な分類、思考の補助線にすぎないものを、「それこそが本質だ」と扱っていないか。ラベルがラベルであることを忘れて、「本当の正体」や「魂の型」や「世界の真理」にしていないか。操作概念を、拝むべき本質に変えていないか。

第二に、汎化が暴走していないか。

ある限定された領域で使える概念を、人生全体、人間全体、社会全体、歴史全体、宇宙全体へと広げていないか。「この場面ではこう見える」という記述が、いつの間にか「人間とはこうである」「社会はこうあるべきだ」「これを分からない奴はダメだ」という裁きに変わっていないか。

第三に、レイヤーを混同していないか。

芸術の言葉を政治の根拠にしていないか。科学の言葉をポエムの装飾にしていないか。個人の実感を世界の原理にしていないか。宗教的・詩的・美的な体験を、制度や倫理や政策の根拠へ横滑りさせていないか。

第四に、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばしていないか。

誰が責任を取るのか。どの制度が機能していないのか。誰の身体に負荷がかかっているのか。どの因果が検討されていないのか。そうした問いを避けて、いきなり「意味」「理念」「物語」「共感」「祈り」「人類」「魂」「存在」へ逃げていないか。

第五に、その言説自身にこのチェックリストを適用できるか。

これが一番大事である。「スピる」という批判語彙自体も、実体化すればスピる。あらゆるものをスピ判定する万能の物差しになればスピる。若者言葉の直感的な切れ味に甘えて、哲学的な検討をサボればスピる。つまり、この文章自身も、このチェックリストにかけられなければならない。

だから、ぼくは「スピ」を世界の真理として提出しない。これは補助線である。検品道具である。何かを考えるときに、「ここで現実を飛ばしていないか」と自分に問い返すための道具である。

要するに、スピ判定のチェックリストはこうなる。

  • その概念は、操作概念ではなく、拝むべき本質になっていないか。

  • 限定された説明が、人生・社会・歴史・世界全体を裁く物差しに化けていないか。

  • 異なるレイヤーの言葉を、自分の主張を権威づけるために密輸していないか。

  • 制度・身体・責任・因果の検討を飛ばして、「意味」「理念」「物語」「共感」「存在」へ逃げていないか。

  • その批判語彙自身に、同じ検査をかけられるか。

これが、ぼくの言うスピ理論である。

3. 八百万の神々はスピっていない

この定義で見ると、何がスピで、何がスピでないかは、普通の感覚と少しずれる。

たとえば、八百万の神々はスピっていない。

神々なのに、スピではない。ここがまず重要である。

八百万の神々は、抽象的な宇宙真理ではない。超越的一神教的な唯一絶対の原理でもない。山の神、田の神、竈の神、トイレの神、道祖神、土地の神。そうした神々は、場所、物、季節、身体、習慣、儀礼、生活実践に埋め込まれている。

つまり、八百万の神々は、生活世界の分節である。

そこでは、神は「現実の背後にある巨大な真理」として現実を上から裁くのではない。むしろ、生活の具体的な場面に貼り付いている。田んぼには田んぼの神がいる。台所には台所の神がいる。トイレにはトイレの神がいる。これは、世界を抽象的な理念へ回収することではなく、世界を具体的な場所と作法に分けて扱うことである。

もちろん、そこに迷信的な要素はある。近代科学の意味で正しいと言うつもりはない。けれども、ぼくの定義では、それは直ちにスピではない。なぜなら、それは現実の制度・身体・責任・因果を飛ばしていないからである。むしろ、身体や場所や作法と結び付いている。

たとえばトイレの神という発想は、トイレをきれいに保つという生活実践と切り離せない。そこには、衛生、身体、排泄、掃除、家の秩序がある。神という言葉は、そうした生活実践に厚みを与える。現実から逃げるのではなく、現実に触るための作法として働いている。

だから、八百万の神々はスピっていない。

4. 『トイレの神様』はドスピである

一方で、『トイレの神様』はドスピである。

次のような歌だった。細部を長く引用することは避けるが、中心にあるのは「トイレには……女神様がいる」という教えであり、トイレをきれいにすれば美人になれる、という祖母の語りである。

もちろん、曲そのものを聴いて感動した人を責めたいわけではない。祖母との記憶、家族関係、掃除の習慣、そうしたものが個人の情緒として響くことはあるだろう。そこまで否定する気はない。

しかし、あの歌が社会的に消費された仕方は、かなりスピってる。

トイレという具体的な場所を扱っているようでいて、実際にはトイレという場所の具体性が薄い。排泄、衛生、掃除、身体、家事労働の現実ではなく、「いい子にしていれば美人になれる」「おばあちゃんの教え」「泣ける話」「日本人の心」みたいな情緒道徳へ回収される。

ここで起きているのは、具体性を装った抽象化である。

トイレの神は、トイレに留まっている。だからスピではない。

『トイレの神様』は、トイレを使って、道徳と感動に飛ぶ。だからスピってる。

この差は小さくない。むしろ、「スピる」という批判語彙の核心はここにある。

スピリチュアルな語彙を使っているからスピなのではない。神が出てくるからスピなのではない。逆に、いかにも現実的で、道徳的で、温かくて、みんなが泣ける話の方が、よほどスピってることがある。

スピとは、現実から抽象へ逃げる運動である。

5. 日本はいつスピったのか

この観点から見ると、日本は歴史的に一貫して非スピだった、などとは言えない。

そんな単純な話ではない。日本にもスピ的要素は当然ある。平安仏教、密教、修験道、陰陽道、国学、尊王思想、水戸学。少し挙げるだけでも、スピ的に読めるものはいくらでもある。日本文化は徹頭徹尾リアリズムで、スピリチュアルなものなどなかった、などと言えば、それこそ雑な日本礼賛になる。

ただし、日本のスピ的要素は、多くの場合、分散的で、生活世界的で、儀礼的だった。

山には山の神がいる。川には川の神がいる。家には家の作法がある。祭りには祭りの時間がある。そこには畏れや物語や儀礼があるが、それは多くの場合、具体的な場所や共同体の実践に埋め込まれていた。

それが近代国家の単一イデオロギーとして再編されたとき、日本は本格的に政治スピ化した。

国家神道、皇国史観、現人神、八紘一宇、大東亜共栄圏。明治から昭和20年までの日本は、土着的で分散的だった神々や権威の構造を、近代国家の中心原理へと組み直した。そこでは、生活世界の神々が、国家の物語へ吸い上げられていく。

これは、八百万の神々の延長ではない。

むしろ、八百万の神々のスピ化である。

具体的な場所や物や儀礼に埋め込まれていたものが、国家の大きな意味へ回収される。権威と権力が再結合する。制度上の責任や政策判断や戦争遂行の問題が、「国体」「聖戦」「大義」のような言葉で包まれていく。

これが政治スピである。

ここで重要なのは、天皇制そのものを神秘主義としてしか読まないことも、逆に天皇制を神秘的に礼賛することも、どちらも雑だということである。

天皇制は、非スピ的に読むこともできる。つまり、権威と権力の分離である。

権威があるからといって、直接に政治権力を行使するわけではない。政治権力を持つ者が、最終的な象徴的権威を独占するわけでもない。この分離には、制度的な知恵がある。もちろん、歴史上それが常にうまく機能したと言うつもりはない。現実には、明治から昭和20年にかけて、まさにその分離が危うくなり、権威と権力が国家イデオロギーの中で再結合した。

だからこそ、ここは神秘主義ではなく制度論として読む必要がある。

天皇制を「神の国」の話として読むとスピる。天皇制を、権威と権力を分ける制度的装置として読むなら、むしろ非スピ的に扱える。

この差を見落とすと、右も左もスピる。

右は、天皇制を神秘的な連続性や万世一系の物語として拝む。左は、天皇制を神秘主義そのものとしてしか読まず、制度的機能の検討を飛ばす。どちらも、現実の制度・権力・責任・歴史的運用を見ていない。

スピるとは、そういうことである。

6. ニーチェは非スピである

この批判語彙は、哲学にもそのまま使える。

ぼくにとって、最も分かりやすい補助線はニーチェである。

ニーチェは、しばしばスピリチュアルに誤読される。超人、永劫回帰、力への意志。言葉だけ見ると、いかにも危ない。実際、それらを新しい背後世界の教義として拝むなら、ニーチェ読解はすぐにスピる。

しかし、ニーチェの核心は、むしろ背後世界批判にある。

この世界の背後に、真の世界がある。現実の生の背後に、より高い意味がある。肉体の背後に、純粋な精神がある。現実の苦痛の背後に、救済の物語がある。そういう発想を、ニーチェは徹底的に疑った。

だから、ニーチェは本来、非スピの思想家である。

もちろん、危うい。ニーチェは劇薬である。力への意志を、世界を動かす霊的エネルギーのように読めば、たちまちスピる。永劫回帰を、宇宙が実際に同じことを無限に繰り返すという謎物理学として読めば、それもスピる。超人を、いつか現れる新人類や救世主のように実体化すれば、それもスピる。

だが、それらを、背後世界に逃げず、この生を肯定するための操作概念として読むなら、ニーチェはむしろスピに対する解毒剤になる。

ここでも基準は同じである。

操作概念として使っているのか。それとも、拝むべき真理にしているのか。

この差である。

7. 後期ハイデガーはスピっている

ハイデガーも同じように腑分けできる。

前期ハイデガー、特に『存在と時間』の世界内存在の分析には、まだ現実へ戻ろうとする力がある。人間は、抽象的な認識主体として世界を眺めているのではない。道具、身体、他者、時間、死、気分、そうしたものの中に投げ込まれている。これは、主客二元論から生活世界へ戻る試みとして読める。

ここまでは、非スピ的に読める。

しかし、後期ハイデガーになると、かなり怪しくなる。

「存在の呼び声」「技術の本質」「ゲシュテル」。こうした語彙が、現実の技術、産業、制度、責任、具体的な政策判断を飛ばして、西洋形而上学の運命のような巨大な物語へ上昇していくとき、それはスピっていると呼べる。

近代技術を批判すること自体が悪いのではない。原子力や情報技術や産業システムを問うことは必要である。しかし、それを具体的な制度、リスク、責任、コスト、因果、運用の問題として考えるのではなく、「存在がどうこう」「技術の本質がどうこう」という大きな言葉で包んだ瞬間、現実は見えなくなる。

それは哲学ではなく、ポエムである。

同じ意味で、精神分析やマルクス主義も、そのまま科学や哲学として受け取るにはかなり無理がある。個別の洞察や歴史的意義まで否定する気はない。しかし、無意識や階級闘争を、あらゆる現実を説明する背後世界の原理として使い始めた瞬間、それはスピでありポエムになる。

哲学というもの自体ポエムじゃないか? 半分はそうだ。少なくとも、ローティが批判したのは、哲学が世界の最終審級であり、知や道徳や政治を基礎づける特権的な学であるかのように振る舞う態度だった。哲学が一つの語彙、一つの会話、一つの文化的実践であることを引き受けるなら、それはまだ誠実でいられる。現代において「哲学者」を名乗るものには、それくらいの自己相対化は必要だろう。

少なくとも、ぼくはそう読む。

8. 反証可能性だけでは足りない

ここで言っていることは、ポパーの反証可能性だけでは切れない。

反証可能性は強い。科学と疑似科学を分けるナイフとして、今でも有効である。だが、反証可能性だけでは、扱える範囲が狭い。芸術、宗教、神話、生活世界、哲学的操作概念、政治理念。これらは、単純に反証可能かどうかで切ると、ほとんど全部が雑に死ぬ。

しかし、全部を「科学ではないから無意味」と切り捨てるのも違う。

八百万の神々は、科学ではない。だが、スピではない。

ニーチェの超人も、科学命題ではない。だが、操作概念として読む限り、スピではない。

一方で、『トイレの神様』は、科学命題ではないから悪いのではない。具体的な生活実践を、情緒道徳と感動消費に回収するからスピる。

後期ハイデガーも、反証不能だから悪い、というだけでは足りない。問題は、現実の技術や制度や責任を、巨大な存在論的物語に回収するところにある。

つまり、「スピ」という批判語彙は、反証可能性よりも広い領域を扱う。

科学か非科学かではなく、現実を踏み倒しているかどうかを見る。

この意味で、「スピ論」は、『知の欺瞞』のカジュアル版に近い。『知の欺瞞』とは、ソーカルとブリクモンが、現代思想における科学用語の誤用や権威づけを批判した本である。ただし、ぼくがここで問題にしているのは、科学用語の誤用だけではない。数理や物理学の概念をポエムとして密輸することもスピだが、それは一例にすぎない。

もっと広く、異なるレイヤーの言葉を、自分の物語を権威づけるために持ち出すこと。現実の制度や身体や因果を、抽象的な理念や情緒へ回収すること。操作概念を、拝むべき真理へ変えること。

それを、ぼくはスピると呼ぶ。

9. 芸術やフィクションを否定しているわけではない

ただし、ここで誤解されたくないことがある。

ぼくは、芸術やフィクションや音楽やレジャーや変性意識を否定しているわけではない。

むしろ、それらは必要である。

人間は、制度と因果だけで生きているわけではない。音楽を聴いて持っていかれることはある。映画や小説に救われることもある。山で、海で、ライブハウスで、あるいは運動や創作の中で、日常意識が少し変わることもある。そうした経験を全部「非合理」として切り捨てるつもりはない。

問題は、それを日常の外へ持ち出すことではない。むしろ、日常の中で経験される強度として扱うことはできる。

問題は、それを現実の制度や政治や倫理や責任のレイヤーに持ち出して、他人を裁いたり、制度設計をサボったり、因果の検討を飛ばしたりすることである。

フィクションはフィクションとして強い。音楽は音楽として強い。神話は神話として強い。芸術は芸術として強い。

それを、現実を踏み倒す免罪符にした瞬間、スピる。

10. この語彙はどこへ接続するか

この語彙は、今後、いくつかの論考に接続する。

たとえば、ぼくはすでにEQ批判をYouTubeで出している。EQは、組織人事におけるスピである。能力、評価、配置、制度設計の問題を、「共感力」「心の知能」「人間性」の問題にすり替える。これは、現実の制度・能力・責任を、内面の美徳に逃がす典型である。

心理的安全性の誤読も同じである。本来は、チームにおける発言コスト、権限、意思決定、評価、学習行動の問題である。それを「優しい雰囲気」「安心できる場」「みんな仲良く」の話にしてしまえば、それはスピる。

コスモポリタニズムもスピりうる。「世界市民」「人類」「普遍理性」という大きな言葉で、具体的な国家、制度、責任、国民、市民、教育、福祉の問題を飛ばすなら、それはスピだ。

日本共和制論にもつながる。天皇制を神秘主義として拝むのもスピだが、逆に神秘主義としてしか読まず、権威と権力の分離という制度的機能を見ないのもスピってる。

このほか、フェミニズム、Woke、AI倫理、GATB、義務教育、ホワイトカラー幻想、少子高齢化にも、それぞれの仕方でこの語彙は接続する。アルピニズムや須原一秀のように、一見スピリチュアルに見えるが、むしろ身体と現実の極限に根を持つ領域についても、いずれこの語彙で扱える。

だが、ここではまだ展開しない。

まずは、定義を置く。

スピるとは、神秘的なものを信じることではない。

スピるとは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味に逃げることである。

だから、八百万の神々はスピっていない。

だが、『トイレの神様』はドスピである。

ニーチェは、非スピの思想家として読める。

だが、後期ハイデガーはかなりスピっている。

この差を見分けるための語彙として、ぼくは「スピる」を使う。

以後、この言葉をそういう意味で使う。

スピらず行く。

Word up.

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