ゆめみたは推せる――アニメ4話までを観た感想

All eyes on ゆめみた

『バンドリ! ゆめ∞みた』を4話まで観た。結論から言えば、かなり推せる。

MyGO!!!!!、Ave Mujicaと続いたあとに、ここまで明るく、カラフルで、軽快な作品を出してくるとは思っていなかった。だが、単に路線を軽くしたわけではない。むしろ、これまでバンドリIPが蓄積してきたアニメ制作上の技術を、別の方向へ思い切り振った作品に見える。

まず、夢限大みゅーたいぷは、そもそも通常の意味でのバンドではない。ベースとドラムがいない時点で自明である。ギター、キーボード、DJ/マニピュレーター的役割、ヴァーチャル空間での活動を組み合わせたユニットであり、構造としてはD4DJに近い。

「バンドリなのにD4DJっぽい」という印象論ではない。編成原理からしてD4DJ型なのだ。

ストーリーにも『D4DJ First Mix』との近さを感じる。あちらでは、愛本りんくと大鳴門むにという幼馴染が、過去の断絶を経て再会し、音楽活動を通して関係を作り直していった。『ゆめ∞みた』もまた、単に仲間を集めて成功する話ではなく、一度壊れた幼馴染関係を、創作を介して再接続する物語へ向かっているように見える。

ただし、『ゆめ∞みた』はD4DJをそのまま明るく再演しているわけではない。

画面は明るく、高彩度で、カラフルである。雰囲気としては『お兄ちゃんはおしまい!』を思わせるところもある。とはいえ、単にパステルカラーを置き、かわいらしく見せているのではない。現実空間、配信画面、ヴァーチャル空間の質感を分けながら、それぞれの場面の感情と情報量を整理している。

特にヴァーチャル空間の描写がうまい。ネオンや派手な色を足してサイバーに見せるだけではなく、キャラクターが現実とは異なる自己像を演じる場所として構成されている。画面そのものが、現実の人格とネット上のスタイルの差を語っている。

このあたりは、MyGO!!!!!やAve Mujicaで磨かれてきたバンドリ側の視覚的な語りの延長だろう。

MyGO!!!!!では、雨、曇天、傘、夕景、薄暗い部屋が、人間関係の閉塞や距離を可視化していた。OPにおける傘の色分けも、単なる装飾ではなく、人物配置と感情を整理する記号として機能していた。Ave Mujicaでは、それが仮面、舞台照明、赤、白、紫、黒といった、さらに強い象徴操作へ進んだ。

『ゆめ∞みた』では、その技術が暗さではなく明るさのために使われている。

明るい作品だから雑なのではない。暗い画面を緻密に作ってきたIPだからこそ、明るくカラフルな画面も平板にならない。監督や中心スタッフがMyGO!!!!!/Ave Mujicaと同じではなくても、IP内部に制作知が蓄積され、それが別チームへ受け渡されているのだと思う。

演技についても問題はない。

夢限大みゅーたいぷのメンバーは、この形で数年間活動してきた。アニメ声優としては新人に近いとしても、「新人だから仕方ない」と擁護する必要がある水準ではない。普通に聞けるし、普通にうまい。

そもそもバンドリはMyGO!!!!!/Ave Mujica以降、実演者へ本格的なアニメ芝居を要求し、それを成立させる制作方法を獲得している。渡瀬結月に一話の中で複数の役割を担わせても破綻しなかったことは、その一例である。『ゆめ∞みた』でも、その蓄積は生きている。

そのうえで、ビオラに本渡楓を置いた配役が非常にうまい。

これは「新人の芝居をベテランが支える」という話ではない。すでに成立している五人の演技の外側へ、意図的に質の違う悪役演技を投入している。

本渡楓は、明るさや親しみやすさを持つ声で、ビオラの可憐な表面を崩さない。そのまま間の取り方や語尾、声圧の変化によって、支配性と底意地の悪さを立ち上げる。最初から悪役然とした声ではないからこそ、外面の柔らかさがそのまま不気味さへ反転する。

そして、視聴者はビオラを嫌えば嫌うほど、本渡楓の演技を評価せざるを得なくなる。

これはかなり理想的な配役である。夢限大みゅーたいぷの五人は、キャラクターと実在の演者、さらにライブ活動が密着している。そこへ回復不能な悪意を背負わせれば、キャラクターへのヘイトが現実のユニットへ逆流しかねない。

だから物語上の強い悪意を、ユニットの外側にいるビオラへ集中させる。しかも、その役を単なる安全弁として置くのではなく、本渡楓の演技力によって強烈な見せ場に変える。ヘイトの向きを制御しながら、そのヘイトを演技への称賛へ変換する。ベテラン声優を悪役に置いたこと自体も、それが完全にハマっていることも、かなり戦略的である。

もっとも、4話まで観ると、作品は単純な明るい成功譚ではなさそうだ。

仲町あられが作詞している姿が描かれたことで、彼女が一種の高松燈型であることも見えてきた。

あられは、単にセンターだから中心なのではない。言葉を作り、仲間の経験を物語へ変換する人物だから中心にいる。燈がノートへ言葉を蓄積し、歌詞によってMyGO!!!!!という共同体を成立させたように、あられもまた、「ぼくたち」に言葉を与える役割を担っている。

そのため、表面上は明るく、元気で、押しが強く見えても、内側には世界との不調和がある。

目覚ましに使われている「夢はパワー」という言葉も、ただの元気な標語には見えない。自然に明るい人物が口にする言葉というより、毎朝、自分自身を起動するために反復している言葉に見える。明るさが無条件にあふれているのではなく、明るさを自分で作り続けている。

※「夢はパワー」という言葉は「マジカルフィジカル☆くるる」主題歌「マジるる!ナイスバルク」から取られているというのを見逃していた。ただ、アラーム音声はあられ自身の声のようで、捻じれた自己愛、セルフプロデュースが窺える。で、本物は釘宮理恵に歌わせるとか頭おかしい(褒めてる)。


閑話休題。主題歌「これはぼくたちの生存のあらすじ」は、そのセルフプロデュースの構造を露骨なほど明示している。

https://genius.com/Mugendai-mewtype-our-survival-lyrics


タイトルからして「夢」や「友情」ではなく「生存」である。

「ストーリーはいつでも/ぼくたちを中心に回ってる」と言い直す必要があるのは、それがすでに自明ではないからだ。どれだけガイドラインを書いても邪魔が入る。純粋さが滑稽に見える。気負いが空回りする。それでも、自分たちの物語を書き換える。

これは単純なポジティブソングではない。世界から物語の主体性を奪われないための抵抗である。

そして、

「アニメじゃない
実存でもない
カテゴリは後から決まる」

ここは当然、『機動戦士ガンダムZZ』の主題歌「アニメじゃない」へのオマージュだろう。

ユニット名はMewType。歌詞には「ニュータイプなやり方」。そのうえで「アニメじゃない」と来る。完全にやっている。

しかも、単にガンダムの有名な言葉を借りただけではない。「アニメじゃない」に「実存でもない」「カテゴリは後から決まる」を接続することで、夢限大みゅーたいぷ自身の宣言へ作り替えている。

既存のアニメ作品としても、既存の哲学カテゴリーとしても、既存のバンド形式としても先に定義されたくない。まず自分たちの生存と表現があり、カテゴリは後から決まる。

この姿勢はかなりDJ文化的でもある。

DJ文化における「スタイル」は、単なる服装や見た目ではない。何を選び、どう接続し、どのような場を作り、自分をどのように提示するかという、生存形式そのものに近い。既成ジャンルの正統性より、実際に何を鳴らし、どう見せるかが先に来る。

夢限大みゅーたいぷも同じである。通常のバンド編成を完成させてから活動するのではない。楽器、配信、DJ的操作、ヴァーチャル表現、アニメを接続し、まず自分たちのスタイルを実演する。そのあとで、バンドなのか、ユニットなのか、ヴァーチャルアーティストなのかという分類が付いてくる。

だから、田淵智也節全開の主題歌も、ベタではあるが、それでいい。

言葉遊び、過剰な自己宣言、勢いのある転調、世界への苛立ちと自己肯定が一度に押し寄せる。いかにも田淵智也である。しかし、その直截さが、この企画のマニフェストとして正しく機能している。

『ゆめ∞みた』は、D4DJ型のユニット構成と再接続の物語を持ち、MyGO!!!!!/Ave Mujicaで蓄積された色彩設計と感情演出を、明るい方向へ展開している。演者の芝居は成立しており、本渡楓演じるビオラという強烈な外部悪役も機能している。

そして、仲町あられの明るさの内側には、作詞者としての切迫がある。主題歌には、実存、生存、ニュータイプ、スタイル、カテゴリからの逸脱が詰め込まれている。

明るくなったから浅くなったのではない。

MyGO!!!!!とAve Mujicaで暗さを精密に描いた技術を、今度は「明るく生存する」ために使っている。

4話まで観た限り、『バンドリ! ゆめ∞みた』はかなり考えて作られている。

推せる。
Word up.

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