Depeche Mode「Halo」の“worlds”を『シュタインズ・ゲート』と『まどか☆マギカ』から読む
1.『Violator』の平易な英語にやられた
ぼくがDepeche Modeの『Violator』をいつ初めて聴いたのか、正確には覚えていない。
ただ、1993年に『Songs of Faith and Devotion』が出たときには予約して、発売日に買った。その時点ですでに、ぼくがDepeche Modeに完全にやられていたことだけは確かである。
『Violator』の英語は平易だった。難しい単語を並べるわけでも、複雑な構文を使うわけでもない。高校生だったぼくにも、英文としては普通に読めた。
だが、深かった。
Martin Goreの歌詞は、難しい言葉で難しいことを言うのではない。徹底的に単純な言葉を使い、その単純さを保ったまま、宗教、罪、欲望、服従、救済といった問題へ踏み込んでいく。
しかも、多くの場合、意味は明瞭である。
たとえば「Blasphemous Rumours」のサビは、英文としてはまったく難しくない。何を言っているのかも分かる。だが、その単純な言葉によって示される神の像が、通常の摂理の理解をひっくり返す。難しいのは英語ではなく、それが突きつける内容である。
ぼくはそこにはまった。
平易な英語で、こんなことまで言えるのかと思った。
『Violator』にもその種の曲が並んでいる。「Personal Jesus」「Enjoy the Silence」「Policy of Truth」などは、それぞれ解釈の幅を持ちながらも、中心となる構図は見える。ゴアは意味を隠しているのではない。むしろ単純な言葉で意味を露出させ、その意味がこちらの予想以上に深いところまで落ちていく。
ただし、一曲だけ、長いあいだ分からないままの曲があった。
「Halo」である。
2.「Halo」のサビだけが分からなかった
「Halo」も、サビに入るまではいつものゴアである。
そこにあるのは罪悪感、拘束、飢え、誘惑、そして禁じられたものへ身を委ねる欲望だ。宗教的なイメージと性的な欲望が重なり、罪だと知りながら相手を誘う。
単語も構文も難しくない。語られている状況も、おおよそ理解できる。
ところがサビに入った瞬間、記述の水準が変わる。
突然、“our worlds”という複数の世界が現れる。そして世界が崩れ、境界が崩れ込み、二人はそれに値するかもしれないが、それでも代価を払う価値がある、と歌われる。
表面的な意味は分かる。
二人が関係を選べば、それぞれの生活が壊れる。家庭や人間関係や社会的地位を失うかもしれない。二人はその結果を自業自得として受けなければならない。それでも、この関係にはすべてを失うだけの価値がある。
普通には、そう読める。
しかし、ぼくには何かが残った。
なぜ、そこで突然「世界」なのか。
しかも、なぜ単数ではなく複数なのか。
「あなたの世界」と「ぼくの世界」と考えれば、とりあえず複数形は説明できる。だが、それでは単に二人分の生活圏を“worlds”と大きく呼んでいるだけになる。
それまでの具体的な罪と欲望の記述から、サビで突然、複数の世界が崩壊するところまでスケールが跳ね上がる。その飛躍が、ぼくには長いあいだ理解できなかった。
これは、ぼくが英語を読み損ねていたというだけでもないらしい。
英語圏のDepeche Modeファンにも、このサビだけを取り出して意味を質問している人がいる。そこで提示される解釈も、双方の家庭の崩壊、破滅的な恋愛、トラウマによる共依存、罪深い関係の代償などに分かれている。英語ネイティブにとっても、英文を読めば自動的に一つの意味へ着地する箇所ではないようだ。
つまり、ぼくが分からなかったのは英語ではない。
単語も構文も分かる。表面的な意味も分かる。
それでも、そこで何が起きているのかが分からなかったのである。
そして最近になって、ようやく一つの読み方を思いついた。
“worlds”を、本当に複数の世界として読めばよいのではないか。
3.“Worlds”を文字どおり複数として読む
なぜ、今までこの読みを考えなかったのだろう。
日本のサブカルチャーには、並行世界、時間反復、世界線の分岐を扱う作品がいくらでもある。二人の関係が一つの時間の内部だけで完結せず、複数の時間や世界にわたって異なる形で反復されるという設定も、特に珍しくない。
代表的なのが『シュタインズ・ゲート』である。
『シュタインズ・ゲート』では、世界は一つではない。選択や出来事の差によって複数の世界線が成立し、その世界線ごとに、人間関係も出来事の帰結も異なる。
この世界線というモデルを通すと、「Halo」の複数形が別の仕方で見えてくる。
“our worlds”とは、「あなたが所有する世界」と「ぼくが所有する世界」という二つの生活圏なのではない。
「ぼくとあなた」という関係が、異なる仕方で成立する複数の可能世界なのではないか。
ある世界では二人は関係を選ぶ。
別の世界では選ばない。
ある世界では秘密が守られる。
別の世界では露見する。
ある世界では二人は結ばれ、別の世界では互いを失う。
ここでは、二人がそれぞれ一つずつ世界を持っているのではない。「ぼくとあなた」という関係そのものが、複数の世界にわたって異なる可能性を持っている。
もちろん、Martin Goreが1990年の時点で、日本のアニメやゲームにおける「世界線」のような設定を想定していた、と言いたいわけではない。
これは作者の意図についての主張ではない。
『シュタインズ・ゲート』を知った現在のぼくには、長年意味の取れなかった複数形を、そのまま複数の可能世界として読むことができる、というだけである。
だが、『シュタインズ・ゲート』だけでは、世界が複数あることしか説明できない。
「Halo」では、それらの世界が単に並列しているのではない。
世界が崩れ、その境界まで崩れ込んでくる。
この点で「Halo」にさらに近いのは、『魔法少女まどか☆マギカ』だと思う。
4.『まどか☆マギカ』からサビを読み直す
『まどか☆マギカ』では、複数の世界は互いに独立したまま、整然と横に並んでいるわけではない。
ほむらが同じ時間を反復するたびに、異なる世界で生じた因果がまどかへ集積していく。
各世界は別々に存在していたはずである。
しかし反復が重なることで、分離されていた世界の因果が一人の存在へ集中する。世界と世界の境界が維持されなくなり、複数の時間の結果が絡まり合う。
そのもつれは、二人を取り巻く舞台だけを変えるのではない。
まどかとほむらという二人の存在形式そのものを変えてしまう。
二人が世界線を移動しているだけではない。
二人の関係が複数の世界を生み、その複数世界のもつれが、二人自身を作り変えていく。
この構造を補助線にすると、「Halo」のサビを一続きの運動として読める。
まず、複数の世界が崩れる。
ここで崩れるのは、二人の外側に置かれた単なる背景ではない。「ぼくとあなた」が異なる仕方で成立していた複数の可能世界である。
それぞれの世界が持っていた出来事の順序、因果関係、記憶、二人の立場が、整合性を失っていく。
続いて、世界を分けていた壁が崩れ込む。
この壁は、単に二人の心を隔てる心理的障壁ではない。また、壁が倒れて二人が自由になるという解放のイメージだけでもない。
複数の世界を別々の現実として成立させていた境界が崩れるのである。
世界が崩れたあと、その世界同士を分けていた壁まで内部へ崩れ込む。
それまで互いに切り離されていた記憶、因果、選択、可能性が、互いの側へ流れ込む。世界間の区別が失われ、それぞれの現実が混ざり始める。
『まどか☆マギカ』で、別々の時間軸に属していた因果がまどかへ集中していくように、分けられていた世界が二人の関係を中心にもつれ始める。
そのとき、崩壊するのは世界だけではない。
二人自身も崩れる。
二人は世界の外側に立って、その崩壊を眺めているのではない。二人の人格、記憶、関係、選択は、それぞれの世界の内部で成立している。
したがって、世界群が崩壊すれば、「ぼく」と「あなた」も無傷ではいられない。
世界の崩壊が二人の崩壊になる。
そして二人は、その崩壊を受けるに値するのかもしれない。
罪だと知りながら関係を選び、境界を壊し、複数の世界をもつれさせたのは二人自身である。だから、その結果として自分たちまで崩壊することは、二人が招いた当然の報いなのかもしれない。
それでも、その関係には価値がある。
二人が無傷で結ばれるから価値があるのではない。
一つの安定した世界に着地できるからでもない。
自分たちと、自分たちを成立させていた複数の世界が崩壊するとしても、その代価を払う価値がある。
この読みでは、救済は主体の保存を意味しない。
「ぼく」と「あなた」がそのまま維持され、安全に結ばれることが救済なのではない。複数の世界に引き裂かれ、その境界が崩れ、自分たち自身が変形してしまっても、なお関係を選ぶ。
そこに「Halo」の異様な強度がある。
“worlds”と“walls”は音響的にも近い。
複数形は、単に後続する“walls”との響きを作るために選ばれたのかもしれない。作詞上、音を優先した結果である可能性も否定できない。
だが、仮にそうだとしても、その語が持ち込んだ意味は消えない。
単数の世界ではなく、複数の世界と歌われた瞬間、二人の破滅は一つの生活や一つの関係の崩壊ではなくなる。
複数の現実が崩れ、その境界まで内部へ流れ込み、その混線のなかで二人自身も崩れる。
その異様な雰囲気を、ぼくは長いあいだ理解できずにいたのだと思う。
結び――日本の一オタクによる後付けの読み
これは、Martin Goreが意図していた唯一の正解を発見した、という話ではない。
一人の日本人オタクによる、三十年以上後からの勝手な読みである。
通常の解釈どおり、二人の家庭や生活世界が崩れる歌として読むこともできる。その方が、作詞時の具体的な想定に近い可能性も十分にある。
だが、日本のアニメとゲームは、二者関係が複数の世界や時間線を生み、その世界群の因果的なもつれが二人自身を変形させる物語を、異常なほど繰り返してきた。
『シュタインズ・ゲート』は、二人の関係が複数の世界線にわたって異なる形を取ることを可視化した。
『魔法少女まどか☆マギカ』は、その複数世界が二人の関係を中心にもつれ、境界を越えて因果を流入させ、二人の存在そのものを変えてしまう構造を可視化した。
その文化的蓄積を通過した現在、ぼくには“our worlds”を単なる「あなたの生活とぼくの生活」とだけ読むことができない。
『Violator』の英語は平易だった。
だから高校生だったぼくにも読めた。
だが、「Halo」のサビだけは、英語が読めても、そこで何が起きているのかが分からなかった。
そしていま、ようやく一つの像が見えた。
複数の世界が崩れる。
世界を隔てていた境界が崩れ込み、別々だった現実が混ざり合う。
その世界によって成立していた二人もまた、世界とともに崩れる。
二人はそれに値するのかもしれない。
それでも、その関係には価値がある。
「Halo」は、そういう歌としても読める。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。