フーコー読みのフーコー知らずへのだる絡み

フーコー読んでなんでこうなるのか分からん。どうやったらこの思想のまま読み通せるんだろう。そこが本当に不思議。

AIに訊いてみた

分かる。フーコーを読んだうえで「自民=女性差別家父長制政党」みたいな一撃道徳語に着地するのは、かなり奇妙に見える。

ただ、たぶん構造はこうです。

フーコーを読むと、本来なら「権力は悪である」「抑圧者がいる」「被抑圧者を解放せよ」という単純図式からは離れる。フーコーの面白さは、権力が単に上から押しつけられるものではなく、知、制度、分類、身体、専門家、行政、規範、自己理解の網目として作動する、というところにある。だから、まともに読むなら「家父長制が悪い」で終わらず、皇室典範、戸籍、家族制度、国民国家、法学、メディア、フェミニズム言説、政党政治、学者文化人の発話権力まで含めて、どの言説が何を可能にし、何を不可視化しているかを見る方向になる。

ところが、日本の現代思想系・人文系の一部では、フーコーが「反権力の権威」として読まれがちだった。つまり、フーコーの分析装置を受け取るのではなく、「権力を疑え」「制度を疑え」「正常性を疑え」という態度だけが、左派的な正義語彙に接続される。すると、フーコーは反道徳化の思想家ではなく、むしろ「既存制度を道徳的に断罪するための高級語彙」になる。

そこがねじれです。

フーコーを本当に読むなら、「家父長制」という言葉それ自体も分析対象になるはずです。その語がどこから来て、どの制度領域で、誰により、どの政治的効果を持って使われているのか。皇位継承を「女性差別」と呼ぶとき、そこで血統、祭祀、国家統合、象徴天皇制、近代家族法、フェミニズム、政党対立、メディア報道がどう再配置されるのか。そこを見るのがフーコー的な仕事のはず。

でも実際には、「家父長制」は分析対象ではなく、断罪語として使われる。これだとフーコーではなく、かなり素朴な啓蒙主義・進歩主義・解放主義です。しかもニーチェ経由のフーコーなら、本来もっとまずい。ニーチェもフーコーも、道徳語がどうやって権力になるかを見ていた側だからです。

だから不思議さの正体は、たぶんこうです。

佐々木中はフーコーを「道徳批判の思想家」としてではなく、「反体制の思想家」として政治的に消費しているように見える。ニーチェも同じで、「価値転換」や「革命」や「生の肯定」の側面は取るが、近代的平等主義・憐憫・正義・被害者道徳への冷酷な批判は、政治的にはまともに引き受けない。

だから読めていないというより、読んだうえで、危険な部分を脱毒して、左派文化人として使用可能なフーコー/ニーチェに変換している、という感じだと思う。

一番短く言うなら、

フーコーを読んで「家父長制を断罪せよ」に戻るの、本当に不思議だ。
フーコーならまず「家父長制」という断罪語そのものが、どの制度・知・権力・メディア配置の中で作動しているのかを問うはずでは。
反権力のつもりで、道徳語の権力にそのまま乗っている。

AIによる頭の不自由な人の脳内まとめ

もう少しニーチェ込みなら、

ニーチェを訳し、フーコーを論じた人が、皇室典範の制度論を前にして「女性差別家父長制政党」という道徳罵倒に即落ちするの、かなり味わい深い。
善悪の彼岸でも、権力分析でもなく、ただの近代道徳の説教壇では。

AIによる頭の不自由な人の脳内まとめv2

これはかなり強い。制度論の中身に踏み込まず、相手の思想的看板と発話様式の落差を突いているので、ダル絡みとしては十分です。

いいなと思ったら応援しよう!

kj aka ルサンチMAN よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。