Fラン廃止で終わらせるな――ホワイトカラー幻想後の職業教育とトラック分化

All eyes on…

大学を減らすなら、その先を作れ。

これが本稿の結論である。

前々回、ぼくは「自己分析するな。ハロワでGATBを受けろ」と書いた。そこで扱ったのは、自己分析スピではなく、職業適性を見ろ、という話である。

前回、ぼくは「ホワイトカラー幻想をやめろ」と書いた。そこで扱ったのは、大学からオフィスへ、という古い接続が、低レベルホワイトカラーの縮小によって壊れている、という話である。

この二つを踏まえれば、次に問うべきことは決まっている。

大学進学万能論をやめる。
低レベルホワイトカラーへの逃げ道もなくなる。
では、大学に流し込まない人間を、どの職業世界へ、どの制度を通じて接続するのか。

本稿の主題は、そこにある。

だから、Fラン廃止で終わらせるな、である。


主敵はFラン大学ではない

まず、確認しておく。

主敵は、Fラン大学そのものではない。

財務省的な大学整理だけでもない。

財務省・財政制度等審議会の2026年4月23日資料では、18歳人口と大学進学者数の減少を前提に、高等教育機関全体の規模適正化、国立大学の定員見直し、私立大学の再編・統合が示されている。報道ではこれが「2040年までに私立大学250校削減案」として伝えられた。財務省が大学整理を言うのは、財政論としては分かる。だが、それだけでは、大学に流し込まない人間をどこへ接続するのかという制度設計にはならない。

問題は、大学進学万能論が壊れた後に、文科省が職業教育と複線型トラックのグランドデザインを出せていないことだ。

もちろん、文科省が何もしていないと言いたいわけではない

専門高校はある。
高専はある。
専修学校はある。
高校教育改革もある。
キャリア教育もある。
個別の産業教育施策もある。

厚労省には職業訓練がある。
ハローワークもある。
求職者支援もある。
障害者雇用や福祉接続もある。

経産省には産業政策がある。
人材育成の議論もある。
DXやリスキリングの話もある。

部品はある。

だが、部品があることと、全体設計があることは違う

大学を整理する。
定員割れ大学を減らす。
私学助成を見直す。
高等教育の規模を適正化する。

財務省がそう言うのは分かる。

財務省の仕事は、基本的には金を見ることだからである。

だが、金を切る話だけでは制度にならない。

大学を減らした後に、人をどこへ接続するのか。
普通科高校から大学へ流す一本線をどう変えるのか。
実業高校をどう位置づけ直すのか。
高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業をどうつなぐのか。
ハローワークや福祉接続を、進路接続の中にどう組み込むのか。

これは財務省だけの仕事ではない。

本来は、文科省が出すべき話である。
文科省だけで無理なら、内閣府が束ねるべき話である。

出口で産業界と労働市場に接続するなら、経産省と厚労省も関わるべき話である。

にもかかわらず、見えてくるのは、大学整理というコストカットの話ばかりである。

個別施策はある。

だが、大学進学万能論後の骨太な設計が見えない。

ぼくは現政権の方向性を、全体としてはかなり支持している。

だが、ここは間違っていると思う。

大学整理を財務省的な歳出削減として突出させるなら、そのカウンターとして、文科省は職業教育と複線型トラックのグランドデザインを出さなければならない。

出せないなら、内閣府が束ねなければならない。

大学を減らすなら、その先を作れ。

これが本稿の出発点である。

大学進学万能論の後に来る問い

大学進学万能論は、長いあいだ、日本社会の雑な安全装置だった。

とりあえず大学へ行け。
とりあえず大卒になれ。
とりあえず会社へ入れ。
とりあえずオフィスへ行け。

そうすれば、何とかなる。

この「何とかなる」がなぜ崩れているのかは、前回の記事で書いた。ここでは繰り返さない。

ここで必要なのは、その後の問いである。

大学からオフィスへ、という接続が壊れている。
低レベルホワイトカラーは、もはや安全地帯ではない。
それでも大学だけを残せば、大学は職業接続の弱い待機場所になる。

では、どうするのか。

大学に行かない人間を、どこへ接続するのか。
大学に行ってもホワイトカラーに向かない人間を、どこへ接続するのか。
学力は高くないが、空間、形態、共応、器用さ、身体、観察、反復、現場判断に強い人間を、どこへ接続するのか。
働ける人間と、すぐには働けない人間を、どう見分け、どう支援するのか。

ここから先は、個人の自己分析ではない。

制度設計の問題である。

GATBを制度の補助線にしろ

ここでGATBをもう一度、自己理解の道具として説明するつもりはない。

それは前々回の記事で書いた。

本稿で問題にしたいのは、GATB的な多面的適性把握を、個人の自己分析で終わらせず、進路接続の制度部品として扱えるかどうかである。

知的能力、言語能力、数理能力だけではない。

書記的知覚。
空間判断力。
形態知覚。
運動共応。
器用さ。

こうした適性能も含めて、人がどの職業世界で機能しやすいのかを見る。

そのうえで、普通科高校、実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、福祉接続へつなぐ。

GATBは答えではない。

検査ひとつで進路を決めるべきではない。
検査結果を神託にしてはいけない。
能力が低いから価値が低い、という話でもない。

だが、教師の勘、親の期待、本人の自己分析、偏差値だけで進路を決めるよりは、はるかにましな補助線である。

測定を神託にしてはいけない。

しかし、測定から逃げてもいけない。

この冷たさが、進路接続には必要である。

普通科高校から大学へ、という一本線をやめろ

問題は、普通科高校から大学へ、という一本線である。

中学を卒業する。
とりあえず普通科高校へ行く。
高校では大学進学を前提にする。
学力が高ければ難関大学へ行く。
学力が中程度なら中堅大学へ行く。
学力が低くても、どこかの大学へ行く。
大学を出て、何となく会社へ入る。

この流れが、あまりにも太くなりすぎた。

もちろん、普通科高校が不要だと言っているわけではない。
大学進学が不要だと言っているわけでもない。

知的能力、言語能力、数理能力、抽象処理能力が高い人間は、大学へ行けばよい。
研究職、専門職、技術職、高度なホワイトカラーへ行けばよい。
法務、財務、設計、情報、医療、行政、教育、研究へ行く人間には、大学教育が必要な場合も多い。

問題は、全員をそこへ流すことである。

普通科高校から大学へ、という一本線しか太くしないと、他の能力が見えなくなる。

空間判断力が高い人間がいる。
形態知覚が高い人間がいる。
運動共応が高い人間がいる。
器用さが高い人間がいる。
機械や構造に強い人間がいる。
現場での観察が得意な人間がいる。
身体を使いながら覚える方が速い人間がいる。
自然、魚、土、水、電気、機械、建物、人の身体に向いている人間がいる。

それらは、大学進学偏差値ではうまく見えない。

見えない能力は、評価されない。
評価されない能力は、育てられない。
育てられない能力は、職業世界へ接続されない。

その結果、本人も社会も損をする。

だから必要なのは、複線型トラックである。

普通科高校から大学へ、という一本線だけではなく、職業適性と職業世界を前提にした複数の進路を設計する必要がある。

高専礼賛で終わらせるな

ここで、すぐに「では高専だ」と言いたくなる。

それは半分正しい。

高専は、かなり強いトラックである。

中学卒業後に、早い段階で技術教育へ入る。
実験、実習、設計、製作、専門科目を積み上げる。
大学受験一般教養ゲームとは違う回路で、技術者を育てる。
企業からの評価も高い。
進学も就職も強い。

高専は、複線型トラックの成功例に近い。

だから、高専を強化すること自体には賛成である。

むしろ、高専卒の処遇はもっと上げるべきだと思っている。

場合によっては、高専卒の初任給を大卒初任給と同等にすることを、一定の企業規模以上では義務化してもよい。

それくらいのことをしてもいい。

だが、高専礼賛で終わってはいけない。

高専はすでに強い。

問題は、その周辺である。

実業高校。
専門学校。
職業訓練。
企業内教育。
地域産業。
ハローワーク。
福祉接続。

ここが弱い。

ここを設計しなければ、結局は「高専に行ける人間は高専へ、それ以外は普通科から大学へ」というだけになる。

それでは、大学進学万能論の変形にすぎない。

本当に難しいのは、高専ではない。

高専ほど強く制度化されていない領域を、どう再定義するかである。

実業高校の位置づけを見直せ

実業高校の位置づけも見直す必要がある。

工業高校。
農業高校。
水産高校。
商業高校。
看護・福祉系の高校。
情報系の学び。

これらを、単に「普通科へ行けなかった人の進路」と見なしてはいけない。

それは最悪である。

実業高校は、本来、職業世界への接続を持つべき場所である。

工業なら、製造、保守、整備、設備、電気、機械、建設、エネルギーへつながる。
農業なら、土地、水、栽培、機械、物流、販売、加工、ブランド化へつながる。
水産なら、漁業、養殖、海運、冷凍、加工、物流、食品、海洋産業へつながる。
看護・福祉なら、医療、介護、生活支援、地域包括ケアへつながる。

では、商業高校はどうするのか。

ここは難しい。

かつての商業高校には意味があった。
簿記、会計、商業実務、事務処理、販売、流通を担う人材には需要があった。

だが、定型事務や低レベルホワイトカラーが削られる時代に、昔ながらの商業高校をそのまま残せばよいのか。

そこは、かなり疑わしい。

商業高校は、廃止や再編も含めて考えるべきだと思っている

ただし、本稿ではそこへ深入りしない。

ここで言いたいのは、商業高校をどうするかという各論ではない。

実業高校の位置づけも、社会状況の変化に応じて見直すべきだ、ということである。

実業高校は、偏差値序列の下に置くものではない。
普通科高校の失敗先でもない。
大学に行けない人間の受け皿でもない。

職業世界へ接続する制度部品である。

そう捉え直さなければならない。

情報系を舐めるな

実業高校の話をするとき、情報系は特に注意が必要である。

高校で情報を学ぶことと、情報専門職を育てることは別である。

全員が情報リテラシーを学ぶことには意味がある。プログラミング、ネットワーク、データ、情報セキュリティ、情報社会の基礎を学ぶことには意味がある。普通教育としての情報教育は必要である。

だが、それと、情報専門職を育てることは違う。

システム設計。
ソフトウェア開発。
ネットワーク。
セキュリティ。
データベース。
AI。
業務システム。
アーキテクチャ。

こうした領域は、低レベルホワイトカラーの逃げ道ではない。

むしろ、高い知的能力、数学的抽象化、論理分解、設計能力を要求する高選抜トラックである。

日本のIT産業がいまひとつ強くならなかった理由の一つは、ここを舐めてきたことだとぼくは思っている。

ITを、工学として扱わない。
情報科学として扱わない。
数学と論理と設計の領域として扱わない。
業務システムを、事務処理の延長として扱う。
ソフトウェア開発を、若い人間が現場で覚える作業として扱う。
プログラミングを、専門学校で習えば何とかなる技能として扱う。
そして、分からなくなったら外注する。

その結果、何が起きたか。

社内にシステムが分かる人間が残らない。
業務とデータをつなげて設計できる人間が育たない。
アーキテクチャを判断できる人間がいない。
外注先を管理しているつもりで、自分たちの頭を外注する。
現場にはプログラムを書く人間がいても、全体を設計する人間がいない。

これは、情報系を舐めた結果である。

もちろん、専門学校がすべて無意味だと言いたいわけではない。実装訓練、資格取得、特定技術の習得、転職支援には役割がある。現場で叩き上げて伸びる人間もいる。学位がなくても優秀な技術者はいる。

だが、それを本流にしてはいけない。

情報専門職の本流は、本来、コンピュータサイエンス、数学、アルゴリズム、データ構造、OS、ネットワーク、データベース、セキュリティ、ソフトウェア工学、アーキテクチャを体系的に学ぶルートである。

欧米でソフトウェアエンジニアやプログラマーの標準的な入口が、CSまたは関連分野の学士号を前提に語られるのは、そのためである。

日本でも、情報系は、高専、大学、大学院、企業内教育を含む高選抜トラックとして設計すべきである。

定型的な運用や単純な情報処理は、クラウド、SaaS、自動化、AIによって削られる。

だから、「パソコンが好きです」「情報系なら将来性がありそうです」「ホワイトカラーがだめならITに行けばいいです」程度で行く場所ではない。

情報系を、実業高校の一項目として雑に並べてはいけない。

全員向けの情報リテラシーと、高選抜の情報専門職トラックを分けろ。

もっとも、これは文学の修士しか持っていないぼくが言うことではないかもしれない。

それはそうである。

だが、IT現場で、情報系を舐めた組織がどう劣化するかは見てきた。

だから言う。

情報系を舐めるな。

専門学校と職業訓練を軽く見るな

専門学校もまた、雑に扱われすぎている。

専門学校には、玉石混交がある。
職業接続が強いものもある。
そうでないものもある。
名前だけ専門的で、実際には弱いものもある。
一方で、医療、看護、福祉、情報、調理、美容、整備、デザイン、建築など、職業世界に直結しているものもある。

だから、専門学校を一括で持ち上げてもいけないし、一括で軽視してもいけない。

必要なのは、職業接続の質を見ることである。

どの産業へつながるのか。
どの資格へつながるのか。
どの技能へつながるのか。
どの地域産業とつながるのか。
就職後にどれだけ続くのか。
賃金はどうか。
キャリアの上がり目はあるのか。
AIや自動化で削られにくいのか。
身体、技能、知識、対人、現場判断のどれを使うのか。

これを見なければならない。

職業訓練も同じである。

職業訓練は、失業者のためだけのものではない。

もちろん、離職者支援は重要である。
生活に困った人が、再就職のために訓練を受ける仕組みは必要である。

だが、職業訓練を「落ちた後の救済」としてだけ見るのは狭い。

本来は、職業トラックの一部として位置づけるべきである。

普通科高校から大学へ流す一本線が壊れるなら、途中で進路を変える人間も出る。
大学に行ったが合わなかった人間も出る。
ホワイトカラーに行ったが機能しなかった人間も出る。
身体や技能を使う職業へ移るべき人間も出る。
病気や障害や家庭事情で、一度トラックから外れた人間も出る。

その人間をどう戻すのか。

ここで、職業訓練、ハローワーク、福祉接続が必要になる。

職業教育は学校だけでは完結しない

ここが重要である。

職業教育を考えるとき、学校制度だけを見てはいけない。

実業高校をどうするか。
高専をどうするか。
専門学校をどうするか。
職業訓練をどうするか。

そこまでは教育政策の話である。

だが、それだけでは足りない。

職業教育は、出口側にその技能を受け取り、育て、評価し、処遇する企業や地域産業がなければ機能しない。

学校で技能を教えました。
資格も取りました。
訓練もしました。

それで終わりではない。

その人を受け取る企業が必要である。
その技能を使う現場が必要である。
その技能を育て続ける職場が必要である。
その技能に賃金を払う仕組みが必要である。
その技能を地位に接続する文化が必要である。

出口がなければ、職業教育は空回りする。

だから、トヨタやエプソンの例は単なる企業美談ではない。

職業教育の出口側の制度部品として見るべきである。

トヨタが重要なのは、単に「大企業だから教育ができる」という話ではない。

現場技能、改善、生産技術、品質、保全を、企業の中核的な職能として扱い、それを企業内教育で育てる回路を持ってきた点にある。

トヨタ工業学園のような仕組みは、その象徴である。

中学卒業後の若者を受け入れ、技能教育を行い、高校卒業資格とも接続しながら、現場で必要な技能、知識、規律、改善の感覚を育てる。そこで学ぶのは、単なる作業ではない。自動車づくりを支える現場技能であり、生産システムの一部であり、品質と改善を担う職能である。

そこでは、現場は大卒ホワイトカラーになれなかった人間の落ち場所ではない。

生産システムを支える中核である。

もちろん、トヨタモデルをそのまま全国にコピーすればよい、という話ではない。

トヨタほどの規模、産業基盤、企業文化、現場力を持つ企業は多くない。
企業内教育は、閉じた社内労働市場を作る危険もある。
その会社でしか通用しない技能に偏るリスクもある。

だが、それでも重要なのは、学校から企業へ、企業から現場へ、現場から職能蓄積へ、という回路が存在することである。

職業教育は、学校の中で完結しない。

職業世界に受け取られて初めて機能する。

エプソンも別の意味で重要である。

エプソンが示しているのは、地域に根ざした高技能ものづくりの可能性である。

公立諏訪東京理科大学とセイコーエプソンが人材協力連携協定を締結(2024年6月14日) | ニュース | エプソン

人材育成 | サステナビリティ | エプソン

「お客様の期待を超える価値を創出する」人材を育成する「ものづくり塾」
ものづくり塾は、エプソンが創出する「お客様価値」をこれまで以上に高めるために、基本的な技術・技能の継承に加え、ものづくりの具体的な仕事のステップを実践により体感することで、幅広く多面的に業務を遂行できるような人材の育成にも取り組んでいます。具体的には、製品を構成するさまざまなパーツを自らの技術で作り上げるための部品加工技術(成形・プレス)の基礎や、製造ラインの高効率化を目指すために必要な技術(省人化・自動化など)を体得させる教育を行っています。

人材育成 | サステナビリティ | エプソン

長野・諏訪圏には、精密加工、微細加工、光学、プリンティング、電子デバイス、装置、部品、品質管理、製造技術が蓄積されてきた。そこには、東京のオフィスへ人を吸い上げるモデルとは違う職業世界がある。

公立諏訪東京理科大学との人材協力連携協定は、地域の大学と企業が人材育成で接続する例である。さらにエプソン自身も「ものづくり塾」を通じて、機械製図、計測、機械加工技能、メカトロニクス、FAロボット、画像処理など、生産ラインを支える技術者育成を継続している。

地域に企業がある。
地域に技能がある。
地域に学校がある。
地域に部品企業や協力企業がある。
地域に現場知が蓄積される。

そういう職業世界である。

読むべきなのは、「地方にもいい会社があります」という美談ではない。

エプソンのような例から読むべきなのは、地域に高技能の出口があれば、職業教育は都市のホワイトカラー幻想とは別の強いルートを持てる、ということである。

精密なものづくりは、ただ手先が器用ならできる仕事ではない。
物理現象を見る。
誤差を見る。
品質を見る。
工程を見る。
機械を見る。
材料を見る。
不具合を見る。
改善する。
積み上げる。

そこには、現場の身体性と、かなり高度な知的処理が同時にある。

こうした企業と地域産業が出口にあるなら、実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育は意味を持つ。

逆に言えば、出口側に企業と地域産業がなければ、職業教育は弱くなる。

だから、職業教育は学校だけでは完結しない。

実業高校、高専、専門学校、職業訓練、ハローワーク、企業内教育、地域産業が接続して初めて機能する。

これを設計しなければならない。

ハローワークと福祉接続を軽視するな

ハローワークも軽視してはいけない。

ハローワークというと、失業した人が求人を探しに行く場所というイメージが強い。

もちろん、それは正しい。

だが、それだけでは足りない。

ハローワークには、職業相談がある。
職業情報がある。
職業訓練への接続がある。
地域の求人情報がある。
働くことが難しい人への支援もある。

GATBやキャリア・インサイトも、ハローワークの文脈で使われる。

つまり、ハローワークは本来、職業世界への接続装置である

これを、学校教育の外側に置きっぱなしにしてよいのか。

中学生や高校生の進路指導を、教師の人格的助言に任せる。
親の期待に任せる。
本人の自己分析に任せる。
塾と偏差値に任せる。
大学名に任せる。

それでよいのか。

よいわけがない。

進路指導には、職業情報が必要である。
心理測定が必要である。
適性検査が必要である。
労働市場の情報が必要である。
職業訓練の情報が必要である。
福祉接続の情報が必要である。

働ける人間には、職業接続が必要である。

すぐには働けない人間には、医療や福祉との接続が必要である。

働けるのに向いていない場所へ押し込まれている人間には、配置転換が必要である。

働けないのに自己責任で追い詰められている人間には、支援が必要である。

これを、教師の善意に任せてはいけない。

進路指導を、担任教師の人生訓にしてはいけない。

教師は教科を教える専門家でよい。

職業適性、職業情報、心理測定、福祉接続は、別の専門職が担うべきである。

この話は、教育学部解体論へつながる。

ただし、本稿ではそこへ深入りしない。

ここでは、予告に留める。

進路指導を教師の人格的助言に任せるな。

心理測定、職業情報、福祉接続を扱える専門職を置け。

移民を入れる前に国内人材を接続しろ

もう一つ、避けて通れない問題がある。

移民である。

人手不足だから移民を入れる。
介護が足りないから外国人を入れる。
建設が足りないから外国人を入れる。
農業が足りないから外国人を入れる。
工場が足りないから外国人を入れる。

この議論は、現実には進んでいる。

もちろん、人手不足が深刻なのは分かる。
少子高齢化で労働力が足りないことも分かる。
現場が回らないことも分かる。

だが、国内の職業教育と職業接続を作り直さないまま、移民で穴埋めするのは筋が悪い。

大学に流し込んだ。
ホワイトカラー幻想で現場を軽視した。
実業高校を下に見た。
職業訓練を軽く見た。
企業内教育を弱らせた。
地域産業を放置した。
その結果、現場に人がいない。

だから外国人を入れる。

これは、かなりである。

移民政策の本格論は、本稿では扱わない。

だが、順番だけは確認しておくべきである。

まず、国内人材の適性を見ろ。
国内の職業教育を作れ。
国内の職業トラックを設計しろ。
現場職の処遇を上げろ。
実業高校と高専と専門学校と職業訓練をつなげろ。
ハローワークと福祉接続を機能させろ。

それでも足りない部分を、どうするか。

移民政策は、その後に論じるべきである。

移民で穴埋めすればよい、という発想は、ホワイトカラー幻想の裏返しである。

自分たちは大学へ行き、オフィスへ行く。
現場は誰かにやらせる。
足りなければ外国人にやらせる。

それは、かなり醜い

文科省はグランドデザインを出せ

もう一度、文科省に戻る。

文科省には個別施策がある。

専門高校もある。
高専もある。
高校改革もある。
専修学校もある。
キャリア教育もある。
産業教育もある。

だが、問題はそこではない。

大学進学万能論の後に、何を作るのか。

これを示せているのか。

普通科高校から大学へ、という一本線をどう細らせるのか。
実業高校をどう再定義するのか。
高専をどう強化するのか。
専門学校をどう評価し直すのか。
職業訓練をどう制度に組み込むのか。
企業内教育をどう接続するのか。
ハローワークと学校をどうつなぐのか。
福祉接続をどう組み込むのか。
地域産業と進路指導をどうつなげるのか。
GATBのような適性検査を、どう進路接続に使うのか。

この全体像が必要である。

個別施策の束では足りない。

グランドデザインが必要である。

そして、本来それは文科省が出すべきである。

文科省だけで無理なら、内閣府が束ねるべきである。

出口で産業と労働市場に接続するなら、経産省と厚労省も巻き込むべきである。

財務省が大学整理を言うのは分かる。

だが、財務省に教育制度の未来を任せるな

切る側ではなく、作る側が前に出ろ。

ここで必要なのは、予算カットの理屈ではない。

人間を職業世界へ接続する制度である。

結論――撤去ではなく再設計である

大学を減らせ。

そう言うのは簡単である。

Fランを潰せ。

そう言うのも簡単である。

だが、それだけでは足りない。

大学に流し込まないなら、職業教育と複線型トラックを設計しなければならない。

自己分析ではなく、適性を見る。
ホワイトカラー幻想ではなく、職業世界を見る。
普通科高校から大学へ、という一本線ではなく、複線型トラックを作る。

GATBは、そのための補助線である。

知的能力を見る。
言語能力を見る。
数理能力を見る。
書記的知覚を見る。
空間判断力を見る。
形態知覚を見る。
運動共応を見る。
器用さを見る。

そのうえで、教育トラックと職業世界を接続する。

大学へ行く人間は、大学へ行けばよい。
高専へ行く人間は、高専へ行けばよい。
工業、農業、水産、情報、看護、福祉へ行く人間は、そこへ行けばよい。
専門学校へ行く人間は、専門学校へ行けばよい。
職業訓練を使う人間は、使えばよい。
企業内教育で育つ人間は、そこで育てばよい。
福祉接続が必要な人間は、福祉へつなげばよい。

問題は、どれが偉いかではない。

どこで機能するかである。

このGATB系列で、ぼくが言いたかったことは単純である。

自己分析するな。
適性を見ろ。

ホワイトカラー幻想をやめろ。
職業世界を見ろ。

Fラン廃止で終わらせるな。
職業教育とトラック分化を作れ。

ここまでで、この小シリーズはいったん閉じる。

もちろん、この先には、さらに大きな論点がある。

義務教育をどうするのか。
教育学部をどうするのか。
高校義務教育化をどう考えるのか。
少子高齢化の中で、労働力と福祉をどう設計するのか。
移民をどう扱うのか。
国家が人を育てるとはどういうことか。

それらは、別の論考で扱う。

本稿で言うべきことは、ここまでである。

大学を減らすなら、その先を作れ。

これは、個人への精神論ではない

制度設計の話である。

文科省は、大学進学万能論後のグランドデザインを出せ。
普通科高校から大学へ流す一本線を、どう複線化するのかを示せ。
実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続を、個別施策ではなく一つの進路接続システムとして設計しろ。

文科省だけでできないなら、内閣府が束ねろ。
産業の出口は経産省が示せ。
労働市場と職業訓練は厚労省が接続しろ。
財務省の大学整理を、ただの予算カットで終わらせるな。

官僚もシンクタンクも、仕事をしろ。

大学を削るだけなら簡単である。

難しいのは、大学に流し込まない人間を、どの教育トラックで育て、どの職業世界へ接続し、どの処遇で支えるかを設計することである。

それをやらないなら、Fラン廃止論は教育改革ではない。

単なる撤去作業である。

必要なのは撤去ではない。

再設計である。

Word up.


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