「最初の博士」は恩師回想ではない

飯島昇藏先生についての文章を書いた

ただし、これは単なる恩師回想ではない。もちろん、恩師回想という側面はある。早稲田大学政治経済学部で、政治思想のゼミに入り、そこで飯島先生から受け取った問いについて書いているのだから、形式としてはそう読まれても仕方がない。

しかし、ぼくが書きたかったのは、「いい先生に出会えてよかった」という話ではない。

飯島先生から受け取った問いは、こういうものだった。

「最初の博士は、誰によって博士と認められたのか」

この問いが、三十年近く残っていた。

博士号は、すでに博士である人たち、すでに研究者として認められている人たちによって審査され、授与される。では、その連鎖を過去に遡るとどうなるのか。誰かが博士であるためには、その人を博士と認める権威が必要である。しかし、その権威そのものは、どこから来るのか。

これは、博士号制度に関するトリビアではない。

問われているのは、制度における正統性の本源である。

制度は、いったん成立してしまえば、自分の内部でさまざまな手続きを作ることができる。大学は学位を出す。裁判所は判決を出す。国家は法律を作る。議会は代表を名乗る。官僚制は資格を認定する。組織は役職を与える。

では、その制度そのものが正統であることは、何によって保証されているのか。

この問いは、社会契約論の問いと同型である。法を作る権威は、法によって与えられる。しかし、最初の法を作る権威はどこから来るのか。契約を有効にするルールは、契約の世界を支えている。しかし、最初の契約は何によって有効なのか。国家が国民を認定する。しかし、国家以前の人々は、何によって「国家を作る主体」たりうるのか。

同じ構造は、憲法制定権力にもある。

憲法は、国家権力を正統化し、制限する。しかし、憲法そのものを制定する力は、すでに憲法の内部にはない。憲法制定権力は、憲法の外部にある。では、その外部の力は何によって正統化されるのか。ここにも、制度の内部だけでは説明しきれない始まりがある。

「最初の博士」という問いは、この問題を大学制度の内部に置いたものだったのだと思う。

飯島先生は、大学制度の外から大学を冷笑していた人ではない。シカゴ大学でPh.D.を取り、早稲田大学政治経済学部で教え、博士号を審査する側にいた人である。その人が、学生の前で、博士号という制度の正統性の始まりを問うた。

ぼくにとって重要なのは、そこだった。

これは、制度の外に立って「権威なんて全部インチキだ」と言う話ではない。そういう話なら簡単である。大学も博士号も国家も法も、全部権威主義だ、全部虚構だ、と言ってしまえばよい。だが、それでは何も考えたことにならない。

制度は必要である。学位も、大学も、法も、国家も、資格も、認定も、評価も、現実に必要である。ぼくたちは制度なしには生きられない。制度を使い、制度に守られ、制度の中で認められ、ときには制度の側に立って誰かを認める。

だからこそ、制度の正統性を問う必要がある。

この問いを忘れた制度は、ただの権威になる。逆に、この問いだけを振り回して制度をすべて否定してしまえば、それもまた別種の幼稚さになる。

飯島先生は、少なくともぼくの記憶の中では、そういう幼稚さから最も遠い人だった。学生に対して分かりやすく迎合するタイプではなかったし、いま風の言い方で何かハラスメント的に圧をかける人でもなかった。むしろ、こちらが簡単に消化できない問いを、そこに置いていく人だった。

だから、ぼくは本論で「先生とは何か」という話を書いた。

先生とは、知識を分かりやすく整理して渡す人だけではない。もちろん、それも重要である。だが、それだけではない。その場では答えられない問い、三十年後に戻ってくる問いを残す人もまた、先生である。

そして、この話は、ぼくにとって単なる過去の回想ではない。

むしろ、ここから始めたいと思っている。

早稲田政経でぼくが何を受け取ったのか。PPE、つまり政治学・哲学・経済学を横断する知的態度とは何だったのか。國分功一郎のような現代の「分かりやすい哲学」をどう批判すべきか。さらに、ぼくが「スピる」と呼んでいる、制度や身体や責任から抽象的な意味へ逃げる思考をどう捉えるべきか。

それらは全部、別々の話ではない。

根にあるのは、「哲学とは実践である」ということだ。

哲学は、抽象的な概念を並べることではない。社会の中で、制度の中で、言葉の中で、自分が何に従い、何を疑い、何を引き受けるのかを問うことだ。博士号の正統性を問うことも、憲法制定権力を問うことも、大学を問うことも、AIを問うことも、ファッション思想家を問うことも、全部そこにつながっている。

だから、飯島先生についての本論は、恩師回想としてだけ読まれると少し困る。

これは、ぼくにとっての入口である。

三十年近く残った一つの問いから、制度、正統性、哲学、そして実践について考え直すための入口である。


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