天然芝の人文学――専門性は誰のために養生されるのか
All eys on…
人文学界、何かがおかしい。
そう思ったきっかけは、人文学の内部ではなく、サッカースタジアムの天然芝問題だった。
清田スポーツちゃんねるに、「公共施設なのに使えない…サッカースタジアムの『天然芝』が採算性と公共性を壊す理由」という動画がある。
そこで論じられていたのは、サッカースタジアムの天然芝が持つ、かなり根本的な矛盾である。
天然芝は、競技水準を保つためには必要だとされる。
Jリーグの基準も、サッカー専用スタジアムも、プロクラブの理念も、しばしば天然芝を当然の前提にする。
しかし、天然芝は使いにくい。
養生しなければならない。保護しなければならない。芝を傷めるイベントは入れにくい。市民が自由に使うわけにもいかない。学校行事、地域イベント、一般利用、他競技利用にも制限がかかる。
その結果、公共施設であるはずのサッカースタジアムが、公共に開かれにくくなる。
もちろん、クラブが自前で建て、自前で維持し、自前でリスクを取るなら、それはクラブの経営判断である。
だが、建設費や維持費を公共が負担する場合、話は変わる。
公共施設なのに、使える人が限られる。公共施設なのに、仕様は特定競技団体の基準に縛られる。公共施設なのに、稼働率を上げにくい。公共施設なのに、養生ばかり必要になる。
ここで問われるべきなのは、サッカーが好きか嫌いかではない。
専門性と公共性の問題である。
そしてこの問題は、人文学にもよく似ている。
人文学にも、天然芝のような専門性がある。
原書を読む。古典語を読む。古文書を読む。他国の思想、宗教、歴史、文学、制度を長期的に研究する。
これは必要である。
切ればいいという話ではない。
国家にも社会にも、一定数の人文学者は必要である。
他国語を読める人間がいなければ、世界を自分の言葉だけで見ることになる。古典を読める人間がいなければ、文明の基礎体力が落ちる。思想史を読める人間がいなければ、いま使っている概念がどこから来たのかも分からなくなる。宗教や歴史を読める人間がいなければ、国際情勢も文化摩擦も浅くしか理解できない。
だから、人文学は不要ではない。
むしろ、必要である。
だが、問題はその次である。
人文学が公共に扶養されるなら、その人文学は公共に対して稼働しなければならない。
ここでいう稼働とは、カルチャースクールで分かりやすく話すことではない。
もちろん、それも一つの形ではある。一般読者に向けて語ることも、講座を開くことも、本を書くことも、悪いわけではない。
しかし、それだけなら教養消費である。
人文学の公共性は、朝日カルチャースクール的な「わかりやすい教養」に尽きるものではない。むしろ、それだけを公共性だと考えると、人文学はすぐに薄まる。概念は商品になる。思想は雰囲気になる。読者は分かった気になる。だが、知識基盤としては残らない。
公共に対して稼働する人文学とは、原典、史料、言語、概念、制度、歴史的文脈を、他者が検証し、継承し、再利用できる形で維持することである。
翻訳。注釈。索引。教材。研究史整理。概念整理。制度比較。地域理解。外交・安全保障上の知識基盤。技術批評。AI時代の知識検証。
そうした形で、専門性が社会の中で再利用可能になること。
それが、人文学の公共性である。
ここで重要なのは、人文学を一般向けに薄めることではない。
専門性を捨てることでもない。
専門性を、他者が使える形に加工することである。
この意味で、ぼくは「人工芝の人文学」が必要だと思う。
人工芝という言い方は、少し乱暴に聞こえるかもしれない。
だが、ここで言いたいのは、専門性を安物にしろということではない。
天然芝は、最高の競技環境をつくるかもしれない。しかし、養生が必要で、使える人が限られ、稼働率が低い。公共施設としては扱いづらい。
人工芝は、最高級の芝ではないかもしれない。だが、踏まれても使える。何度も使える。子どもも、市民も、競技者も、イベントも使える。稼働する。
人文学も同じである。
原書は読む。古典も読む。歴史も読む。思想も読む。
だが、それを研究室のサロンに閉じ込めない。専門共同体の中でだけ通じる符牒にしない。原典が読めることを身分証明にしない。
外に出す。
だが、薄めて出すのではない。
検証できる形で出す。継承できる形で出す。再利用できる形で出す。別の問題に接続できる形で出す。
これが人工芝の人文学である。
ここで、いくつかの失敗形を区別しておく必要がある。
第一に、天然芝型の人文学。
これは専門性が高い。しかし、踏める人が少ない。養生コストが高い。共同体の外からは使いにくい。場合によっては、専門共同体の中でさえ十分に継承・再利用されない。
これは価値がないということではない。
むしろ、価値があるからこそ問題なのである。
あまりに高度な専門性は、そのままでは公共に届かない。だから必要なのは、それを切ることではない。それを検証可能で、継承可能で、再利用可能な形に加工することである。
第二に、ポップ化した人文学。
これは公共に届く。読まれる。売れる。講演になる。メディアに出る。だが、専門性の履歴が消える。先行研究が消える。研究史が消える。概念が魅力的な商品として流通する。
國分功一郎氏の仕事には、この危うさがある。
國分氏が一般向けに書くこと自体が悪いわけではない。新書を書くことも、哲学を公共圏に出すことも、悪いわけではない。
問題は、そこではない。
問題は、専門知を公共に出す過程で、先行する読解や研究史や文脈が消え、あたかも自分がいま初めて発見したかのような演出が前に出ることである。
たとえば、晶文社の『原子力時代における哲学』の紹介では、ハイデガーの『放下』が「知られざるテキスト」であるかのように打ち出される。
だが、少なくともぼくの感覚では、『放下』は2000年前後にはすでにその筋では手垢にまみれたテキストだった。今でいうSTS的な文脈、技術論的な文脈では、かなり使われていたはずである。
にもかかわらず、それを「知られざるテキスト」として再発見し、3.11後の原子力論に接続し、「哲学からの根源的な返答」のように打ち出す。
これは、専門知の公共化ではない。
専門知のポップ化である。
本来なら、先行する受容史、技術論、ハイデガーと政治、ナチズム、後期ハイデガーの危うさ、そして原子力という具体的な技術制度の問題が問われなければならない。
しかし、そこで「放下」という語の魅力が前に出る。
「知られざるテキスト」という演出が前に出る。
根源的な哲学的応答という身振りが前に出る。
これは、使える人文学ではない。
ポップに堕した人文学である。
第三に、門番化した人文学。
これは専門性がある。原書も読める。翻訳もできる。注釈もできる。だが、その専門性が外部への開放ではなく、外部を追い払うために使われる。
ダンテ研究者の原基晶氏が、X上でAIと人文学をめぐる議論をしていた際、ChatGPTが引用した研究例について、それが「ただの学部生」によるものだという趣旨の指摘をし、自分の授業なら落とす、という趣旨の発言をしていた。
このChatGPTが引用している研究例のCarlo Danelon 氏はただの学部生で専攻はイタリア現代文学です。まさにこれゆえに、私は学生にAIを使わないようにと指導しているわけです。ちなみに先生が私の学部の授業でこれを提出された場合、落とします。いいかげんしてください。 https://t.co/fkQbuCQwLZ
— 斉天大聖 原基晶(ダンテ『神曲』全三巻(講談社)と『ダンテ論: 『神曲』と「個人」の出現』) (@motoakihara) April 25, 2026
学者が生成AIを活用して専門外のダンテ研究者と論争し批判を集める
もちろん、AIが不適切な文献を権威ある研究であるかのように提示することは問題である。
そこは批判されて当然である。
だが、その批判が、文献の内容、掲載媒体、議論上の有効性、引用可能性ではなく、書き手の身分や授業内評価の語彙に傾くなら、それは専門性の公共的運用ではない。
専門性の門番化である。
原氏は、X上で「斉天大聖 原基晶」と名乗っている。
ハンドルネームに過ぎない、と言うことはできる。
だが、異分野からの問いに対して、自分の専門性を高所から振り下ろすような態度が見えるとき、その名乗りは単なる冗談としては処理しづらくなる。
「斉天大聖」とは、ただの自虐ではない。
少なくとも、ルサンチマンをもじった「ルサンチMAN」とは違う。
ルサンチマンは、妬みや屈折を自分に引き受ける名乗りである。斉天大聖は、天にも等しい大聖である。
もちろん、ぼくのハンドルも大概ではある。
それはそうである。
だが、自分の屈折を名乗ることと、自分を高みに置く名乗りとは、やはり違う。
問題は、ダンテ研究が不要だということではない。
むしろ逆である。
ダンテ研究は必要である。古典研究も必要である。原書講読も必要である。翻訳も注釈も必要である。
だからこそ、それを自分の権威化に使うな、という話である。
専門性は、他者を追い払うためにあるのではない。
他者が検証し、継承し、再利用できるようにするためにある。
ここで、よい例も挙げておきたい。
藤原保信『自由主義の再検討』である。
これは岩波新書である。つまり一般向けの本である。
しかし、単なる教養商品ではない。
藤原保信は、政治思想史の専門性を背後に持ちながら、自由主義という公共的に使わざるをえない概念を、読者が再利用できる形にしている。
自由とは何か。国家とは何か。共同体とは何か。近代とは何か。権利とは何か。
そうした問いを、政治思想史の専門性を踏まえつつ、公共圏で使える概念装置として提示している。
これは、ポップ化ではない。
専門性の公共化である。
ぼくにとって、この系譜は単なる読書経験ではない。
藤原保信は、ぼくの学部時代の先生である飯島昇藏先生の先生筋に当たる。
飯島先生は、授業でレオ・シュトラウスの英語文献を読ませた。
あれで、ぼくは英語の硬い思想文献を読む訓練を受けた。いま思えば、あの授業はかなり大きかった。単に英語ができるようになったということではない。概念を英語で追い、論理の骨を読む感覚を鍛えられた。
大学院では、岩波哲男先生のもとで、ヘーゲル『大論理学』を原書で読んだ。
正直に言えば、岩波先生については、切れ味が悪いと感じることもあった。だが、原書講読の場では敵わないと思わされた。
鹿島徹先生のハイデガー講読も、同じである。
つまり、ぼくは人文学を切れと言っているのではない。
原書講読を軽視しているのでもない。
むしろ、原書講読は必要である。
人文学には、天然芝的な専門性が必要な局面がある。
しかし、その専門性は、養生されるだけでは足りない。
公共に扶養されるなら、稼働しなければならない。
ただし、それはポップに堕ちることではない。
専門性を商品化することでもない。
また、専門性を門番化し、外部からの問いを身分や作法で切ることでもない。
人文学が公共に対して稼働するとは、専門性を、検証可能で、継承可能で、再利用可能な知識基盤に変換することである。
天然芝の人文学は、養生される。
ポップ化した人文学は、消費される。
門番化した人文学は、外部を追い払う。
人工芝の人文学は、使われる。
ぼくたちに必要なのは、人文学を切ることではない。
天然芝のまま養生され続ける人文学を減らすことである。
ポップに堕ちる人文学を疑うことである。
門番化する人文学を拒むことである。
そして、人工芝の人文学を育てることである。
専門性は必要である。
だが、専門性は誰のために養生されるのか。
公共がそれを扶養するなら、答えは一つしかない。
その専門性は、公共に対して稼働しなければならない。
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