犬の糞問題に見る日本の自己修正能力――パリとの比較を通して

などと書くと、いかにも社会科学風である。

だが、扱うものは犬の糞である。

しかし、犬の糞は馬鹿にできない。都市の文明度は、美術館や料理やブランドだけでは決まらない。歩道に何が落ちているか。住民がそれをどう扱うか。行政がどこまで介入し、生活者がどこまで作法として内面化するか。そこに、社会の自己修正能力が出る。

日本にも犬の糞問題はあった。

ぼくの実感では、日本ではこの問題は2000年代前半にはほぼ終わっていた。もちろん、犬の糞を放置する人間が一人もいなくなった、という意味ではない。そうではなく、犬の散歩に袋を持ち、糞を拾って持ち帰ることが、まともな飼い主なら当然の作法になった、という意味である。一度は社会問題的になったが、かなり速く規範化された。放置された糞は「よくある風景」ではなく、「マナー違反」として見えるようになった。

実際、日本では1990年代後半から2000年代前半にかけて、自治体レベルで飼い犬のふん害防止条例が整備されていった。たとえば新座市の「飼い犬ふん害等防止条例」は1996年に制定され、飼い犬のふん尿によって道路、公園、学校などの公共の場所や他人の土地が汚されることを「ふん害等」と定義し、飼い主責任として処理する枠組みを置いている。加古川市でも、2001年に「空き缶等の散乱及び飼い犬のふんの放置の防止に関する条例」が制定され、環境美化と良好な環境の確保が目的に掲げられた。

つまり、日本でも犬の糞は問題だった。だから条例が作られた。啓発もされた。だが、ぼくの実感では、その後の規範化が速かった。2000年代前半には、少なくとも都市部では、犬の糞を放置することは「まあ昔はそういうものだった」では済まなくなっていた。犬を散歩させるなら袋を持つ。糞は拾う。持ち帰る。それがまともな飼い主の最低限になった。

これは、小さな変化ではない。

犬の糞を拾うことは、単なるペットマナーではない。自分の身体、自分の所有物、自分の家族の延長にあるものを、公共空間へそのまま投げ出さないという作法である。道路は自分の庭ではない。歩道は自分の犬のトイレではない。他人の靴底や鼻や生活空間を、自分の犬の排泄物で汚さない。そういう感覚が、短い時間でかなり広く共有された。

ここに、日本の自己修正能力がある。

日本人が最初から清潔だったわけではない。日本社会が最初から洗練されていたわけでもない。痰壺もあった。犬の糞もあった。公共空間の野暮さもあった。それでも、ある時点から、それはみっともない、それは他人に迷惑だ、それはまともな大人のすることではない、という感覚が広がり、作法になり、日常になった。

だから、2010年前後にパリを歩いたとき、ぼくはかなり驚いた。

ビジネストリップの前後に、二、三回は土日をパリで過ごした。レンタサイクルにも乗ったし、かなり歩いた。空港とホテルと会議場だけを往復した印象ではない。そのパリで、日本ではすでに終わったと思っていた犬の糞問題が、まだ普通に都市の表面に残っていた。汚かったし、臭かった。

パリである。

ルーブルがある。オルセーがある。凱旋門がある。エッフェル塔がある。料理がある。ブランドがある。歴史がある。文化資本としてのパリは、たしかに強い。だが、歩道は別である。

しかも、パリに制度がなかったわけではない。パリでは2002年4月2日の市命令で、公共道路上、側溝を含む場所に放置された犬の糞を回収する義務が定められた。同年10月のパリ市議会資料では、2002年4月2日から10月15日までのあいだに、犬糞未回収で2,689件の調書が作成されたとされている。つまり、パリでも犬の糞は行政課題だった。罰則もあった。取り締まりもあった。

だが、問題はそこで終わらなかった。

2016年のパリ19区の清潔計画でも、犬の糞は「汚い、悪臭がある、滑りやすい」迷惑として扱われ、2002年の市命令以来、回収義務があると改めて説明されている。2025年時点のパリ市公式ページでも、犬糞の回収は義務であり、未回収には135ユーロの罰金が科され、公共空間で犬糞を見つけた場合はアプリや市のサイトで通報できると案内されている。

つまり、パリでも制度はある。罰金もある。啓発もある。通報制度もある。だが、それでも長く残る。ここが問題である。

文化資本がどれだけ巨大でも、歩道に犬の糞が残っていれば、その都市の公共空間はそこで評価されるべきである。美術館の中だけが都市ではない。レストランの皿の上だけが都市ではない。観光パンフレットに載る建築だけが都市ではない。都市は歩く場所である。ならば、歩道は都市の本体である。

もちろん、これはヨーロッパ全体を雑に貶す話ではない。

ぼくはセビリアには良い記憶がある。当時いた外資企業の全社大会のようなもので行っただけなので、都市を知っているなどとは言えない。それでも、街はきれいで、ごはんは安くておいしく、レストランの人も感じがよかった。お互いつたない英語でも、十分に気持ちよく食事ができた。ヨーロッパにも都市ごとの違いはある。だから、ここで言っているのは「ヨーロッパは汚い」という話ではない。

問題は、花の都パリである。

日本では、犬の糞放置は標準風景から逸脱行為へ移行した。パリでは、少なくともぼくが歩いた2010年前後には、なお都市風景として残っていた。この差は大きい。

犬の糞から何が見えるのか。

日本はすごい、という慰撫ではない。日本人は本質的に清潔だ、という神話でもない。むしろ逆である。日本にも犬の糞はあった。だから条例もできた。啓発もされた。だが、日本はそれをかなり速く作法へ変えた。恥とし、生活規範として広げた。ここに自己修正能力がある。

問題は、その自己修正能力をどこへ向けるかである。

公共空間の犬の糞はかなり片づいた。ならば、学校はどうか。会社はどうか。官僚制はどうか。職業接続はどうか。社会の再生産はどうか。日本は公共空間をかなり洗練させた。ならば、まだ残っている制度の糞も、片づけることができるはずである。

犬の糞を拾える社会なら、まだ直せるものがある。

だからこその日本共和制論である。

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