【美術批評】 絵画の傷口から走る痛み 〜水瀬煇 東京藝大修了作品
東京藝術大学 卒業・修了作品展の展示空間を見回していると、一部が破れた絵画、砕けた絵画が目に留まり、胸が疼く。


油画修士の佐々木壮太さんによる《Action Pain》という作品群だ。
特に目に留まったのはこの《さようなら知らない人》という作品。

この作品を端的に美しいと言うこともできるかもしれないけれど、美しさと痛ましさが同時に向かってくるという方が実感に近い。そんな体験だった。
壁に設置された絵画のすぐ下には、かつて絵画の一部だった破片が積もっていて、痛ましい気持ちを喚起させる。
アメリカの批評家、グリーンバーグはキャンバスという絵画の「地」と、その上に成立する「図」の関係に注目しながら絵画というメディウムの固有性を論じたが、この作品は平面上の図像が成立するための土台である「地」が破壊されている。

描かれている「図」の方を見ようとしてもキャンバスはおろか、その向こうの壁さえも露わになっているところに、どうしても視線を持っていかれる。
逆に、割れていないところだけを切りとって見るとどう見えるだろうか。
試しに拡大して確認しておきたい。

さて、どうだろう。
重ねられた絵の具の物質的な連なり、削られて姿を現す「地」である木の層、そしてところどころでささくれ立つ絵の具と、複数の前後関係が入り組んでいるのが分かる。
このように、平面上で起こる物質的な前後関係の入り組みことを、グリーンバーグは視覚的イリュージョンと呼称し、絵画の固有性を考えた。
それを踏まえて、もう一度破砕されているところも含めて全体をみると、平面のイリュージョンが成立している箇所に目を向けても、どこかで図も地もない、空白にぶつかってしまう。

この、喪失された部分に視覚がたどりつく時、絵画としての純粋視覚的イリュージョンの成立条件は棄却される。この破れ目は、まず見たままに絵画の傷口であり、更には絵画が絵画でなくなる終局点なのだ。
さらに、少し別の角度からこの作品の破れ目で起こっていることを考えてみたい。
フランスの映画批評家アンドレ・バザンは、平面フレームを基礎とするところは同じでも、映画は遠心的なメディアで、絵画は求心的だと言った。
映画は世界の一部を一時的に切り取っていて、その枠外で起こっていることを想像で補完する。他方で、絵画はフレーム内で世界が完結しているという意味で、求心的だと言う。確かに絵画を見て『この少し外側では何が起こっているだろうか...』と、常に考えるわけではなく、基本的には額縁の中の平面のみを観るのが普通だろう。
さて、今回の《さようなら知らない人》はどうだろうか。
この作品は、絵画の一部の領域が不在であるために求心的に完結せず、かといって平面の外側の想像もかなわず、ただただ剥き出しの無を私たちに突き示している。
一部では抽象絵画としての視覚的イリュージョンが機能しているとしても、後ろに引いて全体を見ると、壁の絵画は絵画としての自立性を失って、絵画が無の危機に晒されているかのような不安を私たちの内に引き起こす。
この平面の破砕によって、向こう側にある無が絵画のすぐ背後に現れ、「絵画が絵画でなくなりつつある危機」を示している。

破片が片付けられず、絵画の直下に見える形になっていることからもメタメッセージを読み取ることができるだろう。
一般に言われるような絵画が絵画でなくなろうとしている進行形の状況にも見え、あるいは既に絵画でなくなってしまった何かを、破砕する作者の行為を想起させる痕跡とともに提示するという、絵画という概念の揺さぶりとして深読みすることも可能かもしれない。
この作品(群)の破れ目にフォーカスすると、異なる次元の「痛み」が見えてくる。一つは物が壊れているというストレートな痛ましさで、もう一つは目の前の絵画が有する「これは絵画である」という概念としての前提が、失われる局面に巻き込まれることの痛みだ。
多分、前者はほとんど誰しもが直感的に抱く痛みのはずで、私もはじめは端的にその次元で疼くような感覚を覚えていた。
その後しばらく考えて、この作品は絵画なのか立体作品なのか分からず、何のメディアとして捉えたらいいのか分からなくなり、地面を抜き取られたような不安感が起こったのは、作品が喚起する痛みないし不安が多次元に及ぶものだったからであることが、後からだと感じられる。
だから、この《Action Pain》には、作品を見て視覚的に痛ましさを覚えたり、絵画の奥の露出によってある種の三次元性を見出したりすることよりも更に中心に、作品自体が破滅を内包していることの「痛み」があると感じさせてくる。
あの無惨に張り裂けた絵画の痛みが、その後の長きにわたって記憶の内に突き刺さり反響し続けていたのは、そのためであろうと思う。
