世界史|ラッダイト運動など 4つの運動まとめ(イギリス/朝鮮/中国)
ラッダイト運動(1811~1817年頃)
産業革命が進んだイギリスで起こった、機械化に反発する労働者の運動である。
1700年代後半からイギリスでは産業革命が進み、工場で機械による大量生産が広がった。
こうして熟練職人の仕事が失われたり、賃金が低下したりしたため、不満を持った職人たちは、1811年頃から織物機械(織機)などを破壊(打ちこわし)する行動に出た。
ラッダイト(Luddite)という名は、1779年に怒りに任せて靴下編み機を壊したとされる、ネッド・ラッド(Ned Ludd)なる人物に由来するとされる。
機械が破壊されるたびに「ラッドの仕業だ」と言われるようになり、やがて抗議の象徴としてラッドの名前を使ったことから、ラッダイト運動と呼ばれるようになった。
ラッダイト(Luddite)の「-ite」は「~派、~の支持者(の)」を表す接尾辞であり、「Luddite」は「ラッド派」を意味する。
政府は軍隊を投入して運動を鎮圧し、1817年頃までに終息させたが、ラッダイト運動は労働者の権利を求める運動の先駆けとなり、のちのチャーティスト運動や労働組合運動につながった。
チャーティスト運動(1838~1848年)
産業革命後のイギリスで起こった、労働者の政治参加を求める民主化運動である。
産業革命によって都市労働者が増加し、労働者階級の社会的影響力が高まったが、当時の選挙制度では多くの労働者に参政権が認められていなかった。
そこで、1838年に労働者たちは人民憲章を発表して(翌年に請願書として国会へ提出)、男子普通選挙や秘密投票(投票先を他人に知られない制度)などを要求した。
この請願運動がチャーティスト運動であり、チャーティスト(Chartist)とは憲章(Charter)を支持する人々という意味である。
しかし政府は要求を受け入れず、1848年の第三次大請願(全国の支持を集めた大規模な請願)も否決されたことで、運動は事実上終息した。
のちに、1800年代後半の選挙制度改革によって要求の一部は実現し、イギリスにおける民主政治の発展に大きな影響を与えた。
三・一独立運動(1919年)
第一次世界大戦後の朝鮮で起こった、日本の植民地支配に反対する独立運動である。
日清・日露戦争を経て日本の朝鮮支配は強まり、1910年の韓国併合で朝鮮は日本の植民地となった。
しかし第一次世界大戦後に、アメリカのウィルソン大統領が民族自決の原則を提唱したことで、朝鮮でも独立を求める機運が高まった。
1919年3月1日、朝鮮の宗教関係者や知識人らは独立宣言書を発表し、これに呼応した学生らは三・一独立運動と呼ばれる武力に頼らない抗議運動を起こした。
この運動は朝鮮全土へ広がり、多くの民衆が参加する大規模な民族運動へ発展した。
日本は軍隊や警察を動員して武力で運動を鎮圧し、多くの死傷者や逮捕者を出した。
一方で朝鮮統治の見直しを迫られ、憲兵警察による強圧的な武断政治から、言論や集会などの統制をやや緩和した文化政治へと統治方針を転換した。
三・一独立運動は朝鮮の民族意識を高め、同年に中国・上海で亡命政府の大韓民国臨時政府が樹立される契機となり、その後の朝鮮独立運動にも大きな影響を与えた。
五・四運動(1919年)
第一次世界大戦後の中国で起こった、反帝国主義の民族運動である。
1898年にドイツは中国の山東省の権益を手に入れていたが、第一次世界大戦中に日本は山東省の青島を占領し、中国への二十一カ条の要求で山東省の権益継承を認めさせた。
当時の中国は、1912年の辛亥革命による清朝崩壊後で国際的な発言力が弱く、第一次世界大戦後の1919年のパリ講和会議でも日本への権益譲渡が決定された。
これに反発した北京の学生たちは、1919年5月4日に五・四運動と呼ばれる抗議運動を起こし、日本への権益譲渡の撤回などを求めた。
この運動は全国へ広がり、知識人や商人、工場労働者まで幅広い層が参加する大規模な民族運動へ発展した。
なお、同年に朝鮮で起こった三・一独立運動も、中国の学生や知識人に大きな刺激を与えたとされる。
中国政府は当初、日本との関係悪化を避ける姿勢を見せたが、国内世論の高まりを受け、中国代表団は権益譲渡を認めるヴェルサイユ条約への調印を拒否した。
五・四運動は中国の民族意識を高め、中国の近代化を目指した新文化運動の発展や、1921年の中国共産党成立にも影響を与えた。
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