世界史|モンゴル帝国まとめ(チンギス・ハン~フビライ・ハン)
モンゴル帝国の成立
1162年頃、のちのチンギス・ハンとなるテムジンは、モンゴル高原の有力者イェスゲイとその妻ホエルンの子として生まれた。
テムジンが子供の頃、イェスゲイが敵対部族によって毒殺されると、一家は苦しい生活を送りながらも生き延びた。
その後、テムジンは婚約者であったボルテと結婚し、長男ジュチ、次男チャガタイ、3男オゴタイ、4男トゥルイをもうけた。
若き日のテムジンは、義兄弟の契りを結んだジャムカと協力しながら勢力を拡大したが、のちに考え方の違いから対立した。
1189年頃、ジャムカが十三の部族からなる連合軍を率いた十三翼の戦いでテムジンは敗れるが、その後勢力を立て直し、最終的にジャムカを破ってモンゴル高原を統一した。
1206年、諸部族の有力者が集まる会議であるクリルタイが開かれ、テムジンはチンギス・ハン(ハンは君主・王の意)の称号を受け、ここにモンゴル帝国が成立した。
こうして、チンギス・ハンはモンゴル帝国全体を統率する最高支配者となり、この地位は後に大ハンと呼ばれた。
その後、チンギス・ハンは西夏(中国北西部)、金(中国北部)を攻撃し、さらにホラズム王国(中央アジア~イラン)を征服した。
この過程で、かつて遼を建国した耶律阿保機の子孫であり、遼を滅ぼした金に仕えていた耶律楚材がチンギス・ハンに登用され、征服地の統治や税制の整備に貢献した。
1227年、チンギス・ハンは西夏遠征中に死去した(病死説のほか、落馬による負傷が原因とする説もある)。
なお、羊肉料理のジンギスカンは、モンゴルの食文化をイメージして日本で考案されたもので、名称はチンギス・ハンに由来するとされる。
モンゴル帝国の拡大
1229年、チンギス・ハンの生前から有力な後継候補とされていた、3男オゴタイがクリルタイで2代大ハンに選ばれた。
オゴタイの時代、1234年に金を滅ぼしてモンゴル帝国はさらに拡大した。
また、広大な帝国を結ぶため、一定間隔ごとに駅を設けて馬や物資を配置する駅伝制(ジャムチ)が整備された。
チンギス・ハンの長男ジュチは、父より先に死去していたため、ジュチの子のバトゥが西方遠征を指揮した。
バトゥ率いるモンゴル軍はロシア諸国を征服し、1241年にはワールシュタットの戦い(ポーランド南西部)でドイツ・ポーランド連合軍を破った。
このジュチ家の支配領域は、のちにキプチャク・ハン国へ発展した。
ロシア諸国はその支配下に長く置かれ、その時代はタタールのくびきと呼ばれた(タタールはモンゴル人を指す呼称、くびきは家畜の首にはめる道具から転じて支配・束縛を意味する)。
次男チャガタイの家系は中央アジアを支配し、後にチャガタイ・ハン国を形成した。
1241年、3男オゴタイが病死すると妻のドレゲネが実権を握り、1246年に子のグユクを3代大ハンに即位させたが、1248年に急死した(病死説や毒殺説がある)。
その後、4男トゥルイの家系が勢力を伸ばした。
トゥルイの妻ソルコクタニは、モンケ、フビライ、フラグ、アリクブケという4人の息子を育て、1251年にはモンケがクリルタイで4代大ハンに選ばれた。
モンケは弟たちを各方面へ派遣した。
フラグは西アジア遠征を行い、1258年にバグダード(現在のイラク)を占領してアッバース朝を滅ぼした。
このフラグの支配領域は後にイル・ハン国となった。
一方、フビライは中国方面を担当した。
1259年、モンケが中国遠征中に病死すると、フビライとアリクブケの間で大ハン位を争う内戦が起こり、フビライが勝利して1260年に5代大ハンとなった。
フビライは1271年に国号を元と定め、1279年には中国南部の南宋を滅ぼして中国全土を統一し、モンゴル帝国は最大の領土を実現した。
フビライの時代には駅伝制がさらに発達し、ユーラシア各地の交易や文化交流が活発になった。
その中でイタリアの商人マルコ・ポーロが元を訪れたとされ、その体験は後に「東方見聞録」としてヨーロッパに伝えられた。
また、フビライは日本への遠征も行った。
1274年の文永の役では、日本側は鎌倉幕府の御家人が防戦にあたり、特に竹崎季長は自ら戦功を記録した絵巻「蒙古襲来絵詞」を残した。
元軍は、集団戦法や「てつはう」(投げる爆発兵器)を用いて優位に戦い、一時は日本側を圧倒したが、夜間に暴風雨が発生して撤退したとされる。
1281年の弘安の役でも、暴風雨が発生して元軍の船団は壊滅的被害を受けて撤退し、これがいわゆる神風として後世に伝えられている。
この頃には、遠征の負担のほか大ハン位をめぐる内紛により、モンゴル帝国の統一は揺らぎ始めていた。
チンギス・ハンの3男オゴタイの子孫は、中央アジア東部にのちにオゴタイ・ハン国とも呼ばれる勢力を形成していた。
その中心となったオゴタイの孫ハイドゥ(カシンの子)は、フビライの支配に反発して長期にわたるハイドゥの乱を続けた。
チンギス・ハン 1
│
├─ ジュチ
│ │
│ └─ バトゥ(キプチャク・ハン国)
│
├─ チャガタイ(チャガタイ・ハン国)
│
├─ オゴタイ 2
│ │
│ ├─ グユク 3
│ │
│ └─ カシン
│ │
│ └─ ハイドゥ(オゴタイ・ハン国)
│
└─ トゥルイ
│
├─ モンケ 4
│
├─ フビライ 5(元)
│
├─ フラグ(イル・ハン国)
│
└─ アリクブケモンゴル帝国の終焉
1300年代に入ると、各ハン国は次第に現地の文化や宗教を受け入れて独自の発展を遂げるようになり、モンゴル帝国は統一帝国としての性格を失っていった。
中国の元では、度重なる遠征による財政難や宮廷内の対立による政治の混乱が進み、民衆の不満が高まった。
1351年には、白蓮教系の秘密結社を中心として、頭に赤い布を巻いた貧しい農民らによる紅巾の乱が発生した。
反乱軍の指導者の一人であった朱元璋は勢力を拡大し、1368年に明を建国した。
これによって元はモンゴル高原へ退き、中国支配を失った。
中央アジア東部のオゴタイ・ハン国は、1301年にハイドゥが死ぬと求心力を失い、やがて中央アジアのチャガタイ・ハン国に吸収された。
そのチャガタイ・ハン国もやがて衰退し、その領域からチンギス・ハンを理想に掲げたティムールが台頭して、1370年に西アジアからインド北部に及ぶティムール帝国を築いた。
西アジアのイル・ハン国は、最後の君主の死後に後継者争いが起こり、1335年に分裂して滅亡した。
ロシア方面のキプチャク・ハン国も、1400年代後半には分裂して統一国家としては解体された。
こうして、1206年に成立したモンゴル帝国の時代は終わりを迎えた。
しかし、駅伝制による交通網の整備や東西交易の活発化によって、ユーラシア世界の交流は大きく発展し、その後の歴史に大きな影響を与えた。
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