日本史|池田屋事件など 3つの〇〇屋事件まとめ(幕末京都)
寺田屋事件(1862年)
当時の薩摩藩では、尊王攘夷を急ぐ急進派と、藩主・島津忠義の父である島津久光が主導する慎重路線(公武合体)が対立していた。
1862年、急進派の中心人物である有馬新七らは、京都・伏見の寺田屋に集結して、尊王攘夷の実現に向けた行動を企てていた。
これを危険視した久光は、藩士を寺田屋に派遣して説得を試みるが、交渉は決裂。
戦闘となった結果、有馬新七ら急進派の藩士が討たれ、急進派は鎮圧された。
一言でいえば、薩摩藩内部の路線対立が武力衝突に発展した事件である。
参考:寺田屋遭難(1866年)
なお、のちに同じ寺田屋で坂本龍馬が襲撃される事件が起きている。
薩長同盟の仲介を成功させた1866年、幕府から警戒されていた龍馬は、政治活動拠点の一つである寺田屋に滞在中、幕府方の役人から襲撃を受けた。
しかし、のちに妻となるお龍が入浴中に異変に気付き、危険を知らせたため、龍馬は負傷しながらも脱出に成功した。
池田屋事件(1864年)
当時の京都では、長州藩を中心とする尊王攘夷派(尊攘派)が勢力を拡大していた。
当時、外国との条約締結などを進める幕府に尊攘派は反発し、朝廷を中心とした政治を目指していた。
一方、尊攘派の取り締まりに当たっていた組織として、幕府から京都の治安維持を任された新選組があった。
1864年、尊攘派の志士たちは京都の池田屋で今後の方針を協議していたが、その情報をつかんだ新選組が池田屋を急襲した。
戦闘の結果、多くの尊攘派の志士が討たれたり捕らえられたりして、尊攘派は大きな打撃を受けた。
一言でいえば、幕府に反発する尊攘派に対し、幕府側の新選組が大打撃を与えた事件である。
近江屋事件(1867年)
1867年、土佐藩出身の坂本龍馬と中岡慎太郎が、京都の近江屋で何者かに襲撃され命を落とした事件。
当時の龍馬は、薩長同盟の成立や大政奉還の実現に関わるなど、幕府に代わる新しい政治体制の実現を目指していたため、多くの勢力から警戒されていた。
犯人については、かつては幕府側の新選組による犯行説が広く知られていたが、現在では同じく幕府側の京都見廻組による犯行説が有力とされる。
しかし決定的な証拠はなく、真相は現在も確定していない。
坂本龍馬の暗殺は、幕末最大級のミステリーの一つである。
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