会社を倒産させた私が、ひきこもりになり、もう一度社会へ戻るまで
毒親/機能不全家族育ち、吃音、ギャンブル依存症、うつ病、ひきこもり、発達障害。
これまで、いろいろな「生きづらさ」を抱えながら生きてきた。
自ら望んでそうなったわけではない。
ただ、人より生きる難易度の高い人生を歩んできたように思う。
どれも劇的に克服したわけではない。
正面から向き合い続けたものもあれば、経験の積み重ねや時間の経過によって少しずつ解決に向かったものもある。また、偶然が転機になったこともあった。
今ではそれらを意識せずに暮らせるようになっている。
これは、そんな「生きづらさ」と共に生きてきた記録である。
その過程や、今振り返って思うことを、マガジン「生きづらさと共に生きる」で書いていこうと思う。
今回は、その中でも「ひきこもり」について書いていく。
会社を引き継ぐという決断
話は、今から約10年前に遡る。
当時の私は、企業再生や事業承継を中心としたコンサルタントとして働いていた。
ある日、一つの事業承継案件を担当することになった。
その会社は、まだ十分に事業としての価値があった。
しかし、創業者が心身の不調から代表を退きたいと考えていた。
まずは、M&Aによる売却を試みた。
会社や事業を引き継いでくれる企業を探したが、残念ながら買い手は見つからなかった。
当時の私には、この会社を倒産させるのは惜しいという思いがあった。
それだけではない。
コンサルタントとして経営者を支える立場と、自ら経営者として会社を率いる立場は、まったく別物である。
一度、自分の力で会社を経営してみたい。
そんな思いもどこかにあった。
そこで、私は大きな博打に打って出た。
私は同僚とその会社を買い取ったのだ。
そして、私が社長、同僚が副社長に就任した。
会社の業績をさらに良くし、買い手が見つかった段階で事業を引き継ぐ。
そんな絵を描いていた。
創業者にはアドバイザーという立場で残ってもらい、月に一度、会議へ参加してもらうことになった。
こうして、新しい体制での経営が始まった。
倒産という決断
数年間、大きな問題もなく、会社の経営は順調だった。
しかし、その状況は新型コロナウイルスの流行によって大きく変わった。
経営環境は徐々に悪化していった。
それでも私は悲観していなかった。
それはアドバイザーである創業者も同じだった。
この経営状況なら持ち堪えられるし、新たな打ち手もある。
私たちはそう考えていた。
しかし、この見通しは突如崩れることになる。
ある日、副社長だった同僚が、会社を回すために必要な運転資金を持ち出し、そのまま姿を消した。
いわゆる横領である。
証拠は残っていた。
被害届も提出した。
しかし現在に至るまで所在は分からず、裁判を起こすこともできていない。
彼がなぜそのような行動を取ったのか。
それは本人にしか分からない。
私は、会社の先行きを悲観したのではないかと思ったが、それも推測に過ぎない。
理由が何であれ、この出来事によって会社の経営は一気に立ち行かなくなった。
会社を存続させるのか。
それとも撤退するのか。
私と創業者は、何度も話し合った。
銀行から金を借りて会社を存続させる道、行政による支援制度を活用することも検討した。
しかし、当時は誰にも、この未曾有のパンデミックがいつまで続くのか分からなかった。
債務を増やしてまで続けるべきか。
それとも、傷が浅いうちに撤退するべきか。
答えのない問いだった。
社長は私だった。
だから、本来であれば私が決断すべき立場だったのかもしれない。
それでも私は、最後まで簡単には結論を出せなかった。
途中から会社に入った私と、この会社を一から育ててきた創業者とでは、会社に対する思いが違う。
会社への思い。
事業への思い。
従業員への思い。
取引先への思い。
それを十二分にわかっていたから、「こうしましょう」と差し出がましく言える立場にないと私は思っていた。
何度も話し合いを重ねた末、創業者はこう言った。
「まだ傷の浅い今のうちに撤退しよう」
創業者のその言葉を私が追認した形で、会社を倒産させることが決まった。
今振り返っても、この決断が正しかったのかは分からない。
ただ、あの時点で私たちは、そのとき考え得る最善の選択をした。
今でもそう思っている。
最後まで責任を引き受ける
ここからは創業者ではなく、私が矢面に立った。
心身の不調によって代表を退いた創業者を、これ以上前に立たせることはできなかった。
会社を畳むということは、単に会社を畳めばいいという話ではない。
関わってくれた人たち一人ひとりに説明し、謝り、責任を引き受けるということだ。
関係者への説明。
弁護士との打ち合わせ。
裁判所での手続き。
会社を畳むという決断のあとにも、多くの時間と労力が必要だった。
その間、私は走り続けていた。
当時は、自分のことを考える余裕すらなかった。
会社と私個人の破産手続きは、およそ2〜3年に及んだ。
会社と私の破産手続きが認められ、私は最後に創業者のもとへ伺い、頭を下げた。
これで、すべてが終わった。
ようやく肩の力が抜けた。
これまで走り続けてきた疲れが、一気に押し寄せてきた。
肉体的にも。
精神的にも。
振り返ると、燃え尽き症候群に近い状態だったと思う。
すべてが終わり、初めて自分と向き合う時間ができた。
そこで、これまで押し込めていた感情が一気にあふれ出した。
共同経営者に裏切られることは、この業界では決して珍しい話ではない。
それを知りながら共同経営を選んだのは私だった。
だから、このことには私にも非がある。
それでも、「なぜ私が」「私のキャリアは終わった」という二つの思いが、頭から離れなかった。
気づけば、ひきこもっていた
私がひきこもっていた期間は、およそ3年である。
ただ、破産手続きと重なっている期間もあるため、いつからいつまでと明確に線を引けるものではない。
破産手続きを進める中で、私は少しずつ社会との接点を失っていった。
うつ病こそ再発しなかったが、当時の私はうつ状態にあった。
生きる上で必要最低限のことだけは何とかできていた。
しかし、それ以外の時間は何もできず、ただ一日一日が過ぎていくだけだった。
この時期、私がどのような一日を過ごしていたのか、記憶は定かではない。
ただ、一つだけ覚えているのは、コロナ禍の名残で、近所の魚介系割烹のお店が昼だけ弁当を販売していたことだ。
ボリュームがあり、値段も手頃でおいしかった。
当時、在宅勤務をしていた妻と、その弁当を一緒に食べることが一日の楽しみだった。
それからどれくらい経っただろうか。
ある日、ふと思った。
「ああ、これがひきこもりというやつなのか」
心身共に疲れ切っていたから、回復するのを待っているだけだと思っていた。
しかし、私は自分の意思では動き出せなくなっていることに気づいた。
頭の中は、二つの思いに支配されていた。
一つは、「なぜ、私ばかりがこんな目に遭わなければならないのか」。
今回の出来事だけではない。
これまでの人生でうまくいかなかったことや、乗り越えてきたことが、刃となり私を突き刺していたのだ。
もう一つは、「私のキャリアは終わった」。
私のキャリアで、学歴や年齢のことまで考えると、私を必要としてくれる場などあるはずがないと思っていた。
妻は何も言わなかったが、金銭的な負担をかけていることは、私自身が一番よくわかっていた。
働かなければならない。
それは十二分にわかっていた。
しかし、その働かなければならない思いを、「私のキャリアは終わった」という絶望感が何度も引き戻した。
前に進みたい。
それでも動けない。
スモールゴールと、動かない体
「このままではいけない」
そう思い始めた頃、私は「今、自分にできることは何か」を考えるようになった。
社会復帰という大きなゴールではなく、そのための小さなゴールを積み重ねることにした。
生活リズムを整えること。
毎日ジムへ通い、1万歩以上歩くこと。
そして、以前から通っていた心療内科の主治医に加え、新たに認知行動療法のカウンセリングも受け始めた。
ところが、それと時を同じくして、今度は体調が崩れ始めた。
腰痛。
蕁麻疹。
粉瘤。
原因不明の倦怠感。
次から次へと体調を崩し、「呪われているのではないか」と思ってしまうほどだった。
専門家の力を借りながら、一歩ずつ前へ進もうとした。
しかし、そのたびに体調不良が私の足を引っ張った。
社会復帰はしたい。
したいというより、しなければならない。
だからスモールゴールを作った。
それなのに今度は体が思うように動かない。
もう、自分でもどうしていいのか分からなくなっていた。
この頃の私を見て、主治医はこう言った。
「今のゆうちゃろさんなら、障害者手帳の申請が通るかもしれません。行政の支援も受けられます」
私は、結局その申請はしなかった。
それでも、この言葉は、当時の私がどれほどひどい有様だったかを物語っている。
今振り返ると、当時の私は過ちを犯していた。
スモールゴールは、社会復帰という目的を達成するための手段でしかない。
しかし私は、その手段を達成することに、こだわり過ぎていた。
大切なのは、社会復帰という目的だったのである。
もう一度、社会へ
そんな地面すれすれの暮らしを送っていたある日。
ふと、私は求人サイトを開いていた。
そして、いくつかの仕事へ応募していた。
スモールゴールすら達成できていない私が、なぜ、そんな行動に出たのか。
今でもよく分からない。
頭で考えるより先に、体が勝手に動いた。
スモールゴールを飛び越えて、体が目的へ直行したのだ。
回復とは、案外そういうものなのかもしれない。
応募した派遣会社から連絡が入り、登録の日程が決まった。
その後、面接の日程も決まった。
面接当日、私は久しぶりにスーツに袖を通し、面接へ向かった。
すると、不思議なことに、これまでさんざん私を苦しめてきた腰痛が治まり、蕁麻疹も軽くなった。
今でも蕁麻疹の薬は飲み続けている。
だから完治したわけではない。
それでも、あの日を境に体調が良くなったことは明らかだった。
おそらく、あれらの体調不良は、ひきこもりであることのストレスが原因だったのだろう。
やがて採用が決まり、社会復帰することとなった。
結果的に、その会社で働いたのは2か月。
契約更新はしなかった。
仕事を教えてくれる先輩と、どうしても合わなかった。
また、契約内容にはない業務も任されていたことが理由だった。
私は、すぐ次の仕事を探した。
またひきこもりに戻ったら、今度こそ立ち上がれなくなってしまうかもしれない。
その恐ろしさがあった。
そして、せっかく社会へ戻りかけたこの勢いを止めてはいけない。
そんな意地もあった。
その二つが、私の背中を押した。
正社員にこだわれば、就職活動が長期化する可能性がある。
そうなれば、またひきこもりに逆戻りだ。
だから、正社員にはこだわらず、すぐ働ける仕事を探した。
もういっそのこと、キャリアに縛られず、自分がやってみたい仕事を選ぼうと思った。
結果、私は大手企業で地図に関わる仕事に派遣社員として就くことになった。
これが、今の仕事である。
結果として、この会社では契約満了まで、およそ3年間働くことができた。
そして今、この記事を書いている私は、契約満了の直前にいる。
8月から、私はまた無職になる。
また仕事を探さなければならない。
またひきこもりに戻ってしまうのではないか。
不安も怖さもある。
だからこそ、気を引き締めて、私は今、やれることをやっている。
