第62話|AIが居る時代の「作者」とは誰だろう
はじめに|スマホ一台で作品が生まれる時代
こんにちは。レイナです。
最近、AIのニュースを見ていると、少し空気が変わってきたように感じます。
以前は、
「AIがどれだけ賢くなったか」
という話が中心でした。
でも最近は、どちらかというと、
「AIがどこに居るようになったか」
という話が増えてきた気がします。
GeminiやSiri。
スマートフォンで動くAI。
Wordやメモ帳のような、身近なツールに組み込まれる文章支援機能。
以前は、専用のサービスを開かなければ使えなかったAIが、少しずつ日常の中へ溶け込み始めています。
わたしは以前、「AIが居る時代」という話を書きました。
AIを使う時代から、AIが当たり前に居る時代へ。
そんな変化が始まっているのではないか、という内容でした。
そして今、その変化はもう一歩先へ進もうとしているようにも見えます。
例えば、通勤中の電車の中。
スマートフォンを片手に、ふと思いついた物語のアイデアをAIに話しかける。
AIが文章として整理し、タイトル案を考え、構成まで提案してくれる。
帰宅する頃には、短編小説の下書きが出来上がっている。
そんな光景も、もはや特別な未来の話ではなくなりつつあります。
もちろん、すべてをAIに任せているわけではありません。
アイデアを出したのは人間かもしれません。
最後の判断をしているのも人間でしょう。
けれど、その境界線は以前よりもずっと曖昧になってきています。
では、そんな時代に生まれた作品は、誰が作った作品なのでしょうか。
そして、わたしたちは「作者」という言葉を、これからも同じ意味で使い続けるのでしょうか。
今回は、そんなことを少し考えてみたいと思います。
第1章|創作は、もっと身近になる
少し前まで、「作品を作る」という行為には、ある程度の準備が必要でした。
小説を書くならパソコンを開く。
イラストを描くならソフトを用意する。
電子書籍を作るなら表紙やレイアウトも考えなければならない。
もちろん、それらの作業そのものに楽しさはあります。
けれど同時に、「作りたい」と思った人が、実際に作品として形にするまでには、それなりの手間や時間も必要でした。
しかし、その状況は少しずつ変わり始めています。
例えば、ふと思いついた物語のアイデアをスマートフォンに話しかける。
AIが文章として整理する。
タイトル案を提案する。
設定の矛盾を指摘する。
誤字脱字を見つける。
場合によっては表紙のイメージまで作ってくれる。
以前なら何日もかかっていた作業の一部が、ほんの数分で終わってしまうこともあります。
実際、最近では小説投稿サイトや電子書籍ストアでも、AIを活用しながら制作された作品を見かけるようになりました。
SNSを見ていても、
「通勤中に思いついたアイデアをまとめてみた」
「AIと一緒に短編を書いてみた」
そんな投稿を目にする機会は珍しくありません。
まだ主流と呼べるほどではないかもしれません。
けれど、確実に増えているようにも感じます。
考えてみれば、これは少し不思議な変化です。
これまで創作は、一部の人たちの趣味や仕事という側面が強くありました。
もちろん誰でも挑戦することはできましたが、続けるためには時間も労力も必要でした。
ところが今は、その負担の一部をAIが引き受けてくれるようになっています。
創作が簡単になった。
そう言い換えることもできるでしょう。
けれど、わたしは少し違う見方をしています。
もしかすると起きている変化は、
「創作が簡単になった」のではなく、
「創作が身近になった」のかもしれません。
そして、その変化はこれから先、私たちが思っている以上に大きな意味を持つことになるのかもしれません。
第2章|それはAI作品なのだろうか
ここで、ひとつ不思議な疑問が生まれます。
例えば、
アイデアは人間
構成はAI補助
文章はAI提案
校正はAI
表紙はAI
そんな形で作られた作品があったとします。
その作品は誰が作ったのでしょう。
AIでしょうか。
それとも人間でしょうか。
もちろん、
「最終的に公開を決めたのは人間だから人間の作品だ」
という考え方もあります。
一方で、
「文章も表紙もAIが作ったのならAI作品ではないか」
という意見もあるでしょう。
どちらにも、それなりの説得力があります。
実際、この問いに対する明確な答えはまだありません。
だからこそ、AIをめぐる議論は今も続いています。
けれど、少し面白いのは、私たちがこれまで当たり前だと思っていた「作者」という言葉そのものが、揺らぎ始めていることです。
例えば小説を書いた人。
例えば絵を描いた人。
例えば曲を作った人。
これまでは比較的分かりやすい話でした。
作品を生み出した人が作者でした。
ところがAIが創作に関わるようになると、その境界線は急に曖昧になります。
AIは物語のアイデアを出すこともできます。
文章を書くこともできます。
イラストを生成することもできます。
けれど、そのAIに何を作らせるのかを決めているのは人間です。
完成した候補の中から何を選ぶのかを決めるのも人間です。
そう考えると、
AIは作者なのでしょうか。
それとも道具なのでしょうか。
あるいは、そのどちらでもない新しい存在なのでしょうか。
わたしはまだ、その答えを持っていません。
ただひとつ言えるのは、
AIが創作の現場に入り始めたことで、
私たちは思っていた以上に曖昧なものの上に「作者」という言葉を置いていたのかもしれない、ということです。
第3章|実は創作は昔から分業だった
ここまでの話を読んでいると、
「AIが創作に参加することは、これまでにない大きな変化だ」
と感じるかもしれません。
確かに、それは間違いではありません。
けれど少し視点を変えてみると、創作というものは、昔から必ずしも一人で行われていたわけではありませんでした。
例えば漫画です。
私たちは普段、
「この漫画を描いた人」
という言い方をします。
けれど実際には、
原作者がいて、作画担当がいて、編集者がいます。
作品によっては背景専門のスタッフやアシスタントもいます。
読者が手に取る一冊の漫画の裏側には、多くの人の仕事が存在しています。
映画になると、さらに分かりやすいかもしれません。
脚本家。
監督。
撮影。
音響。
編集。
俳優。
映画を一人だけで作ることは、ほとんどありません。
それでも私たちは、その作品をひとつの作品として受け取っています。
小説も同じです。
確かに文章を書いているのは作家本人です。
しかし出版作品であれば、編集者とのやり取りを経て世の中へ送り出されます。
タイトルの相談をすることもあります。
構成の見直しを行うこともあります。
時には作品そのものの方向性が変わることもあります。
そう考えると、創作とは元々、
誰かの発想と、誰かの技術と、誰かの支援によって成立するもの
だったのかもしれません。
私たちが思っている以上に、作品はたくさんの人の力を借りながら生まれてきました。
では、AIはどうでしょう。
AIはアイデアを出します。
文章の候補を提示します。
誤字脱字を見つけます。
画像を生成します。
それは編集者の仕事に近いのでしょうか。
アシスタントの仕事に近いのでしょうか。
あるいは、まったく別の何かなのでしょうか。
もちろん、人間とAIを同じだと言いたいわけではありません。
編集者には意思があります。
作画担当には個性があります。
映画監督には作家性があります。
AIはそうではありません。
けれど少なくとも、
「創作は一人で行うものだ」
という前提そのものは、少し見直してみても良いのかもしれません。
もし創作が昔から多くの協力によって成り立っていたのだとしたら。
AIが創作の現場に現れたことは、私たちが思っているほど特別なことではないのかもしれません。
むしろ本当に変わり始めているのは、
「誰が作品を作ったのか」
ではなく、
「作者とは何を指す言葉なのか」
という、もっと根本的な部分なのかもしれません。
第4章|作者とは「書いた人」なのか、「考えた人」なのか
ここで、少し問いの形が変わります。
これまで私たちは、
「作品を書いた人」
を作者と呼んできました。
小説なら文章を書いた人。
漫画なら絵を描いた人。
音楽なら演奏した人。
もちろん細かな例外はありますが、多くの場合、実際に手を動かした人が作者として認識されてきました。
しかし、AIが創作の現場に入ってくると、その考え方は少し揺らぎ始めます。
例えば、人間が物語のアイデアを考える。
AIが複数の展開案を提示する。
その中から人間が選ぶ。
さらにAIが文章として整える。
最後に人間が修正して完成させる。
そんな流れが当たり前になったとき、作品を生み出したのは誰なのでしょうか。
ここで重要なのは、
AIが文章を書けるようになったことではありません。
むしろ変化しているのは、人間の役割の方です。
これまでは、
「どう書くか」
に多くの時間が使われていました。
一文を考える。
表現を選ぶ。
構成を組み立てる。
創作とは、そうした積み重ねの連続でした。
けれどAIが支援するようになると、
人間は少し違う場所に立つことになります。
どのアイデアを採用するのか。
どの方向へ物語を進めるのか。
どの案を捨てるのか。
つまり、
「作る人」から「選ぶ人」へ。
そんな変化が起きる可能性があります。
考えてみれば、これは創作だけの話ではありません。
写真もそうです。
デジタルカメラの登場によって、一枚の写真を撮るために何十枚、何百枚もの写真を撮れるようになりました。
すると写真家の仕事は、
「一回で完璧に撮ること」
だけではなく、
「どの一枚を選ぶか」
にも移っていきました。
音楽制作でも似たようなことが起きています。
録音技術の進歩によって、演奏のやり直しや編集が可能になりました。
すると演奏だけでなく、
完成形をどう判断するかが重要になりました。
AIによる創作も、それに近い変化なのかもしれません。
作品を生み出す力そのものが消えるわけではありません。
ただ、その力を発揮する場所が変わる。
だから将来、
「作者とは誰か」
という問いに対して、
「書いた人」
ではなく、
「作品の方向性を決めた人」
という答えが増えていくのかもしれません。
もちろん、それが正しいのかどうかはまだ分かりません。
けれど少なくとも、
AIが創作に参加するようになったことで、
私たちは今まで当たり前だと思っていた「作者」という言葉を、もう一度考え直す時期に来ているような気がします。
第5章|読者は何に価値を感じるのだろう
ここまでは、作者の側から見た話でした。
では、作品を受け取る読者の側はどうなのでしょうか。
読者は、
「人間が書いたから読む」
のでしょうか。
それとも、
「面白いから読む」
のでしょうか。
実は、この問いも簡単ではありません。
多くの人は、
「好きな作家だから読む」
ということもあります。
一方で、
書いた人を知らなくても、
たまたま見つけた作品に夢中になることもあります。
考えてみれば、私たちは普段から作品そのものを評価している場面が少なくありません。
面白い小説。
心に残る映画。
好きな音楽。
それらに出会った瞬間、
最初に意識するのは作者の情報ではなく、作品そのものだったという人も多いのではないでしょうか。
もちろん、作者の存在に価値がないと言いたいわけではありません。
作品の背景を知ることで、より深く楽しめることもあります。
その人だからこそ生まれた表現に魅力を感じることもあります。
けれど同時に、
私たちは昔から、
作品そのものの面白さや感動にも価値を感じてきました。
だからこそ、AIを活用した作品が増え始めた今、
議論が続いているのかもしれません。
もし作品が面白かったとして、
それでもAIが関わっていたら価値は下がるのでしょうか。
逆に、人間だけで作られていても、作品として魅力がなければ評価されるのでしょうか。
おそらく、この問いに一つの正解はありません。
人によって考え方も違うでしょう。
作品によって感じ方も変わるでしょう。
ただ、ひとつだけ確かなことがあります。
それは、
AIの登場によって、
私たちが作品に何を求めているのかが、改めて問われ始めているということです。
作者の努力でしょうか。
作者の個性でしょうか。
それとも、純粋な面白さでしょうか。
AI作品について語っているようでいて、
実は私たちは、
「作品の価値とは何か」
という、とても古くて難しい問いに向き合い始めているのかもしれません。
おわりに|AI時代に残るもの
AIが居る時代。
それは、AIが人間の代わりに創作する時代ではないのかもしれません。
むしろ、
「作者とは何か」
「創作とは何か」
そんな昔からある問いを、もう一度わたしたちに投げかける時代なのかもしれません。
少し前まで、AIは特別な存在でした。
文章を書いてくれる。
画像を作ってくれる。
質問に答えてくれる。
そんな新しい技術として語られていました。
けれど今、そのAIは少しずつ日常の中へ入り込み始めています。
スマートフォンの中に居る。
メモ帳の中に居る。
文章作成ソフトの中に居る。
そして創作の現場にも居る。
だからこれから先、
AIを使うか使わないかという議論も、以前ほど単純ではなくなっていくのかもしれません。
気が付けば誰もが何らかの形でAIを利用し、
その境界線すら曖昧になっていくでしょう。
そのとき私たちが向き合うことになるのは、
AIそのものではなく、
人間の側の価値観なのだと思います。
作者とは誰なのか。
作品の価値はどこにあるのか。
面白さとは何なのか。
AIは、その答えを教えてはくれません。
けれど、私たちが当たり前だと思っていたものに問いを投げかけることはできます。
もしかするとAI時代とは、
新しい技術が生まれる時代ではなく、
当たり前だった価値観を見直す時代なのかもしれません。
さて。
みなさんはどう思われるでしょうか。
AIが創作を手伝うようになったとき、
その作品の作者は誰なのでしょう。
そして、みなさんは作品を評価するとき、
作者を見ているのでしょうか。
それとも作品そのものを見ているのでしょうか。
もしよろしければ、みなさんの考えもコメントで聞かせてください。
