私という人格をAIで再現したかったけど、失敗した話
最近、わりと本気で考えていました。
自分の記事、もっと楽に書けないかな、と。
NotebookLMに、
これまでのChatGPTのログや全てのnote記事を入れて、
価値観や文体、温度感も指定して、
思想として整理したさまざまな要素も渡しました。
ここまでやれば、
さすがにいけるだろう、と。
自分の代わりに、自動で
自分っぽい記事を書いてもらえるだろう、と。
でも、実際に出てきた文章は、
なぜかしっくりきませんでした。
事実は合っている。
言っていることもズレていない。
構成も、たぶん正しい。
なのに、読んでいる私だけが納得できない。
そのとき浮かんだのが、
「自分の言葉ではないものを、
自分が引き受けさせられている」
という感覚でした。
私がいつも記事を書くときに実際に
やっていることは、これとは少し違います。
ニュースを見て、
「これ、なんかおかしくない?」と引っかかる。
ChatGPTと対話しながら、
「なんでこうなったんだろう」
と言葉にしていく。
その途中で、
「あ、これポランニーの話に似てるな」
と思い出したり、
「シュンペーターとも重なるな」と、
別の点がつながったりする。
そうやって、
考えがその場で少しずつ動いていく。
ここで、
はっきり気づいたことがありました。
私は価値観をインストールしたつもりだった。
でも後から気づいた。
入っていたのは
過去の「考え終わった私」だけで、
現在の「考え始める私」は入っていなかった。
たぶん、
ズレの正体はここだったんだと思います。
もう少し自分でも納得いくような言葉が
ないかな、と考えてみてしっくりきたのは
「解説」と「解釈」という言葉でした。
解説は、あとから情報を並べ直して、
「つまりこういうことです」と説明する作業。
解釈は、その場で何かに引っかかって、
「これ、変だな」と立ち止まる反応です。
NotebookLMが得意なのは、明らかに解説のほうでした。
集めた材料を整理して、論点を並べて、
破綻のない形で「もっともらしい文章」を作る。
解説記事として見れば、とても優秀です。
でも、私が書きたかったのは、
解説そのものではありませんでした。
今、私はどこで引っかかったのか。
なぜそこが気になったのか。
その「最初の一点」が抜けると、
文章は正しいのに、
私だけが引き受けきれない感じになる。
ここでようやく、腑に落ちました。
私は、自動化に失敗したわけじゃなかった。
前提を取り違えていただけだったんです。
ノウハウ記事やテンプレ記事は、
結論が先にあり、型があり、
そこに当てはめれば再現性が出る。
だから、自動化とも相性がいい。
でも、私が書いてきた記事は、
どうやらそのタイプではありませんでした。
書き始めた時点では、
結論はまだ直感的で、曖昧で、
途中で「やっぱ違うな」と
方向が変わることもある。
その迷いや引っかかりごと、
文章になっている。
だから私は、
結論を量産する記事ではなく、
考え始めた瞬間を一緒にたどる記事を
書いていた。
そこを丸ごとAIに任せようとしたら、
薄くなるのは当たり前でした。
これは、
文章を書く人だけの話じゃない気がします。
仕事でも、学びでも、
「正解を出す作業」と
「考え始める作業」は、たぶん別物です。
後者は、遅くて、非効率で、時間もかかる。
でも、その人らしさが出るのは、
だいたいそっちです。
最近は、何でもテンプレ化できるような
空気もあります。
でも、テンプレにできないやり方があること自体、
悪いことではない。
むしろ、
「時間かかるな」と感じている場所に、
その人の価値が残っている
こともある。
私は今回、それをはっきり自覚しました。
だからきっと、これからも私は、
完全な自動化には失敗し続けると思います。
でも、その失敗は、悪くない失敗です。
考え始める瞬間を、
まだ大事にできている
という意味で。
もし読んでいて、
「これ、私の話かも」と
少しでも思った人がいたら。
それだけで、この文章は
書いた甲斐があった気がします。
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