焼きたてのパン #風まかせ文芸部
i様の下記記事に参加させていただきました。ありがとうございます。
お読みいただけたらたらうれしいです。
街がまだ静かに眠るころ、そっとオーブンの扉を開けると、空気がふわり揺れた。
程よく溶け込んだバターの甘く柔らかな香りと、焦げ目を帯びた小麦のほのかな苦みが胸いっぱいに流れ込む。幸せのひととき。
一口も食べなくとも、舌の奥にまで温かな香味色が広がっていく。
そして香りは、壁や棚を這い、格子模様のガラス戸を越えて外の薄味な空気に彩りを与え、通り過ぎる人も幸せ色に染めていく。
これがわたしの朝であり、一日のはじまりを告げる香りだ。
高校生の時、欲しかった流行りの香水は少し高くて、それを両親には頼めず、自分でお金を貯めようと近所のお店が求人を出してたから応募した。それがパン屋だった。どちらかと言えば白米派だったわたしは、パンにはちっとも興味がなかったので、面接では正直に流行りの香水が欲しいと言った。すると店長は笑いながら、ココにはもっと素敵な香りがあるんだよって言っていた。
初めは何のことかさっぱりわからなかったけど、今ではその意味は、誰よりもわかる。
初めての給料で買ったその香水は、結局少ししか使わなかった。その菓子のように甘く、花のように華やかな香りも、焼きたてのパンの前では、ただの飾りでしかないと知ったから。
焼きたてのパンの香りは、人々を惹きつけてやまないだけでなく、それは、わたしたちを幸せな気持ちにもさせてくれる。
パン屋のアルバイトを始めてから十年。今は自分の店を持ち、今日も幸せを焼き上げる。
この香りで皆を包みこみ、そして、わたしの人生にも幸せの香りを満たしていく。
おわり
