『Tomboy』を観て。「自分らしくいられたのが、たった一つの夏だったとしたら。」

『Tomboy』を観終わって、一番印象に残ったのは「この子はトランスジェンダーなのか?」という問いではなかった。

むしろ、この映画は最後までその答えを提示しない。

だからこそ、観る人それぞれが自分の経験を重ね合わせてしまう作品なんだと思う。

男の子として生きられたのは、あの夏だけだったのかもしれない。

この映画は主人公の未来を描かない。

大人になっても男性として生きたのか、それとも違ったのか。

何も語られない。

作品の時代背景を考えると、「トランスジェンダー」という概念自体、今ほど一般的ではなかった可能性もある。

だから、ふと思った。

もしかしたら主人公にとって、男の子として生きられた時間は、あの夏だけだったのかもしれない。

そう考えると、とても切なかった。



一番心に残ったのは、お母さんの言葉だった。

物語の終盤、お母さんは主人公に女の子の服を着せ、近所の子どもたちに本当の性別を伝えさせる。

この場面だけを見ると、「理解のない親」に見えるかもしれない。

でも、私が一番引っかかったのは、お母さんのこの言葉だった。

「男の子みたいな格好をすることに反対しているわけじゃない。」

「あなたを傷つけたいわけでもない。」

「でも、他に方法がないの。」

この一言がとても苦しかった。

彼女は子どもを否定したかったわけではない。

ただ、学校という「社会」に入る以上、名前も性別も戸籍も、全部ひとつの現実として存在してしまう。

夏休みの間はごっこ遊びで済んでも、学校では通用しない。

結局、お母さんは子どもに負けたのでも勝ったのでもなく、「社会」に負けたんだと思った。



女の子は、本当に主人公を嫌いになったのだろうか。

途中までは、彼女のことが少し嫌だった。

自分から主人公を好きになって、キスまでしたのに。

主人公が女の子だと分かった途端、周囲の子どもたちと同じ側に立ってしまう。

しかも周りの男の子は、

「女同士でキスして気持ち悪くないの?」

と責め立てる。

典型的な異性愛規範だと思った。

でも映画の最後、彼女は主人公の家を訪ねる。

だから私は、「嫌いになった」のではなく、「どう受け止めればいいのか分からなかった」のだと思う。

まだ子どもだから。

自分の気持ちよりも、周囲の空気に流されてしまっただけなのかもしれない。



一番残酷だったのは、「本当の自分」で紹介できなかったこと。

ラストシーン。

主人公は彼女ともう一度向き合う。

でも今度は、自分が望んでいた姿ではなく、「女の子」として。

「本当の自分」を知ってもらうためではなく、「社会が認める自分」として紹介し直さなければならなかった。

そこが、この映画で一番苦しかった。



私には答えは出せない。

幼い頃から性別違和を尊重するべきなのか。

それとも成長を待つべきなのか。

現実には、早く治療を始められなかったことを後悔する人もいれば、治療を始めてから後悔する人もいる。

だから、この映画を「どちらの立場が正しいか」を証明する作品として語りたいわけではない。

ただ一つ思ったのは、

もし主人公が、あの夏だけでも「自分」として生きられたのだとしたら。

それは、とても尊い時間だったんじゃないかということ。

そして、その「たった一つの夏」すら持てない人も、きっと現実にはいるのだろう。

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