『殴り殴られ詩人バラバラ』ep.62「硝子金魚」
よもぎさんに捧ぐ
朝から喉の奥に鉄みてえな味がこびりついていた。
井戸水を飲んでも消えやしない。 煙草をふかせば余計に酷くなる。
俺は長屋の前にしゃがみ込み、湿った新聞紙で草履の泥を拭っていた。
「朔ちゃーん!」
裏口の戸が勢いよく開いて、イヨさんが顔を出した。 片手には干し大根、もう片方には紙包みを抱えている。
「お使い頼まれてくれないかね。」 「またかい。」 「まただよ。」
イヨさんは笑うたびに、目尻へ細かな皺が集まる。 今日はその皺の間に、妙な心配の色が挟まっていた。
「松沢の婆さんとこ。」 「ああ。」
名前を聞いた途端、俺は鼻の奥がむず痒くなった。
松沢の婆さんは昔から身体が弱い。 季節の変わり目になると、すぐ寝込む。
「この間までは熱もあったらしいんだけどねえ。」 「今は?」 「知らないから頼むんじゃないか。」
イヨさんは紙包みを俺へ押しつけた。
「漬物と、あと煮豆。あんた道わかるだろ。」 「まあ……」 「頼んだよ。」
俺は包みを脇へ抱え、空を見た。
雲は薄かった。 陽だけがやたら白い。
なんだか今日は、景色の輪郭ばかりが妙にはっきりして見える。
駅まで歩く途中、古本屋の前で巡査が欠伸をしていた。
外套の襟が妙に立派で、俺は少し羨ましくなる。
人間、弱ってる時ほど他人の厚着が羨ましく見える。
駅員に切符を切ってもらい、古びた電車へ乗り込んだ。
車内は空いていた。
土曜の昼下がりだからだろう。 学生も勤め人も少ない。
俺は窓際へ腰を下ろした。
電車が軋みながら動き出す。
陽に焼けたトタン屋根が後ろへ流れていく。 乾いた畑が続く。 遠くで煙が上がっている。
窓から吹く風は冷たいくせに、眠気ばかり運んできた。
向かいの席には母親と男の子が座っていた。
子どもは眠っている。
頬が赤い。 汗ばんだ前髪が眉へ貼りついている。
膝には金魚のぬいぐるみが乗っていた。
赤い布で出来た金魚だった。
だが随分古いらしく、尾びれの縫い目がほつれて中綿が見えている。
電車が揺れるたび、その金魚は少しずつ膝から滑っていく。
俺は妙に気になった。
落ちる。 いや落ちない。 いや落ちる。
そんなことばかり考えているうちに、いつの間にかうとうとしていた。
──ぶぇっくし!
突然、派手なくしゃみが車内へ響いた。
俺は肩を跳ねさせる。
見ると、通路向こうの爺さんが顔を真っ赤にして鼻を押さえていた。
「ああっ、すまねえ!」
その拍子に、子どもの金魚が床へ転げ落ちた。
「うわああああッ!」
子どもが泣き出す。
母親が慌てて抱き寄せるが、余計に泣く。
爺さんは平謝りだった。
「悪かったなァ坊ちゃん! じいちゃんのくしゃみがデカすぎた!」
しかし子どもは聞いちゃいない。
床の金魚を指差して、顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
俺はしゃがみ込み、その金魚を拾った。
柔らかかった。
何度も洗われた布の感触。
腹の綻びから覗く薄黄色の綿。
どういうわけか、その手触りが他人事に思えなかった。
俺は埃を払って子どもへ返した。
だが泣き止まない。
母親は困り果てている。
爺さんはおどけた顔をしてみせるが逆効果だ。
ふと俺は鞄を探った。
指先に小箱が触れる。
そういや昨日、駄菓子屋の婆さんが「売れ残りだ」と寄越した飴玉があった。
俺は紙包みをひとつ取り出し、子どもの前へ差し出した。
「ほら。」
子どもは泣きながら俺を見る。
「甘いやつ。」
母親が申し訳なさそうに頭を下げた。
子どもは包みを受け取ると、器用に開いた。
琥珀色の飴玉が陽に透ける。
「……みかん。」
小さな声でそう言った。
口へ入れる。
ころころ転がす。
すると嘘みたいに泣き止んだ。
「よかったなァ坊ちゃん……」
爺さんが本気で涙ぐんでいる。
俺は少し笑った。
しばらくして子どもが窓を指差した。
「あれ!」
線路の向こうに、大きな白い建物が見える。
「なんだかわかるか?」 「さあ。」 「病院!」
母親の肩がぴくりと揺れた。
「お父ちゃん、あそこいるんだ!」 「ああ……そうかい。」
子どもは嬉しそうだった。
「屋上に池あるんだぞ!」 「池?」 「うん! 金魚もいる!」
だからこのぬいぐるみなのか、と俺は思った。
「この子、“キンちゃん”っていうんだ。」 「へえ。」
子どもは金魚を高く掲げる。
「お父ちゃんが取ってくれた!」
その顔があまりに眩しくて、俺は窓の外を見た。
遠くの煙突が滲んで見える。
「兄ちゃん。」
いつの間にか子どもが俺へ凭れていた。
飴の匂いがする。
母親が慌てて引き離そうとする。
「すみません!」 「いや。」
別に構わなかった。
むしろ、その重みが妙に安心した。
子どもの頭はそのまま俺の腿へ落ち着いた。
軽かった。
けれど確かに生き物の重さだった。
──次、松ヶ丘ー。松ヶ丘ー。
車掌の声が遠い。
肩を叩かれて目を覚ました。
母親だった。
「着きました。」 「ああ……」
電車が止まる。
子どもが金魚を振っている。
「兄ちゃんまたな!」 「おう。」 「キンちゃんも!」
俺は手を振った。
だが、なぜだか振り返れなかった。
駅前はもう夕方の色だった。
八百屋の提灯が赤い。
魚屋の水が路面を流れている。
俺は商店街を抜け、松沢の婆さんの家へ向かった。
引き戸を叩く。
しばらくして、中から声がした。
「はァい。」
戸が開く。
俺は思わず瞬きをした。
婆さん、普通に立っていた。
しかも思ったよりずっと元気そうだ。
「あらまあ、朔ちゃんじゃないか。」 「……元気そうだね。」 「死にかけみたいに言うねえ。」
婆さんはけらけら笑った。
俺はイヨさんの包みを渡した。
「いつも悪いねえ。」
婆さんはその場で漬物を開け始める。
「熱は?」 「下がったよ。」 「そうか。」
妙に安心した。
部屋へ通される。
白菜の漬物が出てきた。
酸っぱい匂いが鼻を刺す。
俺たちはしばらく黙って食べた。
不思議と、その沈黙が嫌じゃなかった。
帰り際、婆さんが小箱を寄越した。
「持ってきな。」 「なんだい?」 「飴玉。」
開ける。
みかん飴だった。
俺は笑ってしまう。
「好きかい?」 「まあね。」
外へ出ると、空はもう群青だった。
街灯の光がぼやけている。
俺はさっきの子どもの体温を思い出していた。
飴玉の甘い匂いも。
長屋へ戻ると、イヨさんが鍋をかき回していた。
「どうだったい?」 「元気だった。」 「ほんとかい?」 「漬物ばりばり食ってた。」 「あっはっは!」
イヨさんは腹を抱えて笑った。
「そりゃ安心だ。」
俺はみかん飴をひとつ放った。
イヨさんが受け取る。
「なんだいこれ。」 「土産。」
外では風が鳴っていた。
俺はようやく、 今日一日ずっと肺へ貼りついていた鉄の味が薄れていることに気づいた。
