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『殴り殴られ詩人酒場』ep.42「へゃーと鳴く文筆家」

よもぎさんに捧ぐ



上原朔也は、あまり気乗りのしない足取りでそいつに向き合った。

いきなり「上原朔也」と名前を呼ばれたのだが、心当たりはない。

文筆家らしい。

間違ってもラッシーではないらしい。

それ以上の情報は、なかった。

 

あたりは妙に乾いていた。

湿度ではない。

言葉だけが抜け落ちているような乾き方だ。

机の上に紙。

その横に、やけに細い万年筆。

 

「……失礼します」

 

男は顔を上げない。

 

カリ、カリ、カリ。

 

軽い。

やけに軽い音だった。

神経質というより、芯の抜けた音。

 

「……あの」

 

「アチョー」

 

「は?」

 

男は書く手を止めない。

 

「アチョー」

 

それだけ。

 

上原は一瞬、試されているのかと思った。

だが、その緊張はすぐに萎んだ。

 

「ええと、紹介で来た上原です」

 

「へゃー」

 

「……」

 

「ほうほう」

 

 

終わりだった。

 

カリ、カリ、カリ。

 

男はまた紙をなぞり始める。

 

(……なんだこいつ)

 

怒りではない。

ぬるい腐臭が内側に滲んでくるような、不快感。

 

評価するならしろ。

否定するならしろ。

 

どちらもやらない。

 

「……何を書いてるんですか?」

 

「アチョー」

 

「いや、だから」

 

「へゃー」

 

「……」

 

「ほうほう」

 

会話が成立していない。

いや、成立させる意思がない。

 

そのくせ、手だけは動く。

 

カリ、カリ、カリ。

 

上原は一歩、近づいた。

紙を覗き込む。

 

──何もない。

 

正確には、痕跡だけがある。

インクは出ていない。

乾いた筆先が、紙の表面を撫でているだけ。

 

「……これ、書いてないじゃないですか」

 

「ほうほう」

 

男は満足げに頷いた。

 

「完成」

 

「は?」

 

「アチョー」

 

 

その瞬間、何かが静かに崩れた。

 

理解しようとする気持ちが、内側から腐る。

 

 

「……帰ります」

 

「ほうほう」

 

それだけだった。

 

引き止めない。

説明しない。

何も渡さない。

 

ただ、空白をなぞり続ける。

 

 

外に出ると、空気が湿っていた。

人の匂い。

生活の匂い。

 

(……なんだったんだ)

 

意味はない。

あれには意味がない。

 

そう決めて、切り捨てる。

 

 

「おかえりー」

 

イヨさんの声。

湯気の匂い。

 

「遅かったね」

 

「ちょっとね」

 

それ以上は言わない。

 

 

「朔ちゃん弱ぇー!」

 

背後から大ちゃんが飛びつく。

 

「やめろって」

 

笑う。

軽くいなす。

 

 

食べる。

風呂に入る。

布団に入る。

 

 

(……これでいい)

 

毎日食べられて、

眠れて、

誰かがいる。

 

それ以上、何が要る。

 

 

(書く必要なんて)

 

 

天井を見ていると、

不意に手元が浮かぶ。

 

あの万年筆。

 

インクの出ない筆先。

それでも続く運動。

 

 

(……いや)

 

 

違う。

 

 

出ていなかったのか?

 

 

 

──アチョー

──へゃー

──ほうほう

 

 

耳の奥で、乾いた声が反響する。

 

 

(意味なんてない)

 

 

そう思う。

だが、思考が止まらない。

 

 

もし、あれが。

 

 

「書かない」という書き方だとしたら。

 

 

 

喉の奥に、苦味が滲む。

 

 

怒りではない。

軽蔑でもない。

 

 

ゆっくり腐っていく、遅い疑問。

 

 

(俺は、何を書いてる)

 

 

書いているつもりで、

ただなぞっているだけではないのか。

 

 

整った言葉。

傷つかない温度。

安全な配置。

 

 

それは、

 

 

乾いた花か。

 

 

それとも、

 

 

まだ柔らかいまま放置された、

 

 

腐りかけのそれか。

 

 

 

「……はは」

 

 

笑いが漏れる。

 

 

何も言われていない。

 

 

評価も、否定も、助言も。

 

 

 

なのに、

 

 

空白だけが、手元に残っている。

 

 

 

「……少しはオトナになれ、ってか」

 

 

誰に向けた言葉か、わからない。

 

 

手を開く。

 

 

何もない。

 

 

 

だからこそ、

 

 

何を置くかは、全部こちらに委ねられている。

 

 

 

──ほうほう

 

 

また、鳴る。

 

 

 

上原は寝返りを打った。

 

 

明日も同じ日だ。

 

 

食べて、

笑って、

眠る。

 

 

それで足りる。

 

 

(……足りる、はずだ)

 

 

 

だが、

 

 

どこかに、

 

 

まだ置かれていない一行がある。

 

 

 

それだけが、

 

 

静かに、

 

 

腐りはじめている。

 

 

(続)

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