『殴り殴られ詩人バラバラ』ep.39「朔の夜、笑いながら消える — 呼ばれたのは俺だけだった」
よもぎさんに捧ぐ
校舎を出た瞬間、風がビュウッと吹いた。
「さみっ!なんだべ今日!」
大ちゃんが外套の襟を引っ張りながら、やたら大げさに震える。俺はと言えば、さっきの青緑の背広の男をぼんやり思い出して、空を見上げていた。
月がない。
星も、ない。
なのに街灯だけは元気で、妙にこちらを見ている気がする。
「朔ちゃん、何ぼーっとしてんだい?」 「いや別に」 「絶対なんか考えてたべ!どうせまたロクでもねえことだ!」
ロクでもねえこと、ねえ。
まあ、否定はしない。
遠くから、妙に張りのある声が聞こえてきた。
♪よーさくーはーきーをきるー♪
「……なんだこれ」 「与作だべ!」
大ちゃんが嬉しそうに言う。
「誰だよこんな時間に」 「知らん!だども元気出るべ!」
元気は出るが、今このタイミングで流れると、妙にズレてる。
さらにその奥から、別の声がかぶさる。
「そんなの関係ねえ!そんなの関係ねえ!」
「うるせえな!?」 「おっぱっぴーだべ!」
大ちゃんはもう笑いが止まらない。俺は無視した。ああいうのは相手にしたら負けだ。
「なあ朔ちゃん!見に行くか!?」 「行かねえ」 「夢がねえなあ!」
夢と騒音は別物だ。
俺たちはそのまま歩いた。銀杏の葉が足にまとわりつく。風が強いせいか、やけにしつこい。
「なあ朔ちゃん」 「なんだ」 「この学校の時計、信用できると思うか?」
急に話が飛ぶ。
「できねえだろ」 「だべ!だべ!」
大ちゃんは得意げに指を立てる。
「大銀杏の横は八分遅れ!図書館は十三分遅れ!」 「門番のは進んでる」 「そうそう!で、唯一正確なのは!」
二人で顔を見合わせて、同時に言った。
「校長の腹時計!」
くだらない。だがこういうのがいい。
その瞬間、風がまた強く吹いた。
「おわっ!」
大ちゃんの外套がめくれ、同時に俺の帽子がふわりと浮いて、そのまま道を滑っていく。
「待てえええ!」
二人で全力ダッシュ。与作も、おっぱっぴーも、今はどうでもいい。帽子優先だ。
「とったあああ!」
掴んだ瞬間、俺はそのまま転がった。
「だはははは!遅え!」 「うっせえ!」
立ち上がろうとして、違和感に気づく。
「あれ」
右の下駄の鼻緒が、きれいにちぎれていた。
「……終わった」 「だはははは!ほら見ろ!」
大ちゃんは腹を抱えて笑っている。
「どうすんだべそれ」 「知らねえよ」
俺がふてくされていると、大ちゃんがふっとしゃがんだ。
「乗れ」 「は?」 「いいから」
背中をぽんぽん叩く。
「歩けるって」 「それでかい?」
ぐうの音も出ない。
結局、俺はおぶわれた。
「重えなあ朔ちゃん!」 「降りるぞ」 「うそうそ!軽い軽い!」
どっちだ。
揺れが妙に心地いい。背中があったかい。
そのときだった。
チーン……と、どこかで音がした。
「ん?」 「なんだ今の」 「鐘だべ?」
鐘っぽい。でも、ぼやけてる。遠いようで近い。
「まだ鳴ってんな」 「もう鳴ってねえよ?」
大ちゃんは普通に言う。
「いや、鳴ってる」 「鳴ってねえって!」
少しだけ、沈黙。
与作も、おっぱっぴーも、いつの間にか消えていた。
代わりに、風だけが鳴っている。
「……まあいいや!腹減った!」 「それな」
大ちゃんが話を切った。
下宿に着くと、イヨさんが七輪の前でうちわをバシバシやっていた。
「遅い!冷めるだろうが!」 「すんません!」 「大ちゃんまた来たのかい!」 「お邪魔します!」
いつもの流れ。
飯はうまい。焼き魚、味噌汁、白米。
大ちゃんは三口で半分消した。
「早えよ」 「寝る!」
食い終わるなり布団へ直行。
「いやいやいや」 「限界!」
バタッ。
五秒後。
グオオオオオ。
「早すぎだろ」
俺は呆れながら皿を片付ける。
イヨさんは椅子でうとうとしている。
静かだ。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに。
でも、
チーン……
また鳴った。
今度は、はっきり。
俺は手を止める。
誰も気づかない。
大ちゃんは爆睡。
イヨさんも寝てる。
俺だけが、聞いている。
「……行くか」
小さく呟く。
音は続いている。呼んでるみたいに。
俺はそっと立ち上がった。音を立てないように。
服を整え、靴を履く。大ちゃんのやつだ。
「借りるぞ」
もちろん返事はない。
外に出る。
空は真っ暗。本当に何もない。月も星も。
街灯だけがポツポツと光っている。
ズッ、ズッと靴の音が響く。やけに大きく聞こえる。
でも止めない。
止まる理由がない。
鐘はまだ鳴っている。
チーン……
チーン……
まるで道を示すみたいに。
俺は帽子のつばの先を見つめながら、まっすぐ進む。
怖くはない。
たぶん。
いや、少しはある。
でもそれより、
気になる。
知りたい。
ただそれだけだ。
風が吹いた。
どこかで、ほんの一瞬だけ。
「そんなの関係ねえ!」
と聞こえた気がした。
「……関係ねえか」
俺は小さく笑って、そのまま歩き続けた。
鐘の音の方へ。
