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『殴り殴られ名倉潤』epi.21「還りし名、甘き曼珠」


よもぎさんに捧ぐ



まだ緑の残る銀杏の下で、大ちゃんは本気だった。

七年越しの恋だと言う。

十四の頃から、でっけえ財閥の娘に心を持っていかれたまま、未だ返却されていないのだと。

「七年だぞ、朔ちゃん。干支ひと回りまではいかねえが、心はもう二周半はしてる。」

弁当の蓋を盾のように構えながら、涙ぐんだ目で訴える。

「好きなんだ。好きで好きでどうしようもねえ。だからよ――」

そこで声を潜め、ぐいとこちらへ寄る。

「キスの練習、してくんねえか。」

焼鮭が喉に逆流しかけた。

「……は?」

「恋愛ごっこだ。安心しろ、変な意味じゃねえ。俺はあの娘一筋だ。だがよ、いざ本番で失敗したら終わりだべ? 七年が水の泡だ。」

真剣な目だった。

笑えないほどに。

「朔ちゃんは文学だろ? 情緒だろ? 俺に足りねえのはそれだ。まずは空気づくりからだ。」

空気づくりのために、なぜ俺なのか。

喉まで出かかった。

――それはむしろ飯沼太一の方が適任では。

だが言わなかった。

飯沼は器用だ。社交的で、笑顔も上手い。

だが大ちゃんが求めているのは、そういう滑らかな技術ではないのだと、どこかでわかっていた。

「なあ、やってみよう。『好きだ』って言うから、そしたら目を閉じろ。」

「断る。」

即答したが、大ちゃんは折れない。

その時、画架を担いだ画学生が前を通った。コバルトとカドミウムの匂いをまとい、こちらをちらと見る。

「おい、兄ちゃん!」

大ちゃんが呼び止める。

「恋のキスってのは、どう入るのが自然だ?」

画学生は一瞬固まり、それから真面目な顔で言った。

「距離です。急激に詰めないこと。相手の呼吸を読む。」

「呼吸……!」

大ちゃんは神妙にうなずいた。

本気なのだ。

再び俺へ向き直る。

「ほら、呼吸だ。吸って、吐いて……」

なぜ俺が呼吸を合わせねばならない。

だが、七年という数字の重さが、妙に胸に響く。

十四の頃から、ずっと。

その間に何度、諦めようとしたのだろう。

「朔ちゃん、俺はよ、好き合ってんのに叶わねえってのが一番怖いんだ。」

不器用な告白だった。

俺は目を逸らし、銀杏の根元に咲く曼珠沙華を見た。

赤が、やけに鮮やかだった。

「……キスの練習は却下だ。」

「じゃあラブレターの代筆!」

間髪入れない。

「おめえの言葉が欲しい。俺じゃ届かねえ。朔ちゃんの文でなら、あの娘の心に刺さる。」

また喉が詰まる。

――飯沼太一の方が。

言えない。

なぜなら大ちゃんは、俺を見ている。

評価でも、比較でもなく、

「お前に書いてほしい」と言っている。

「曼珠沙華も用意した。」

どこからか花束を出した。赤が揺れる。

「毒あるぞ、それ。」

「だからいいんだ。命がけだって伝わるべ?」

さらに紙袋を差し出す。

「まんじゅうもある。甘さで中和だ。」

理屈が雑だ。

けれど必死だ。

「朔ちゃん、頼む。」

七年の重みが、銀杏の影のように落ちる。

俺はしばらく黙った。

飯沼の名が、また喉元まで浮かぶ。

だが、それを出せば、この瞬間は壊れる。

「……内容は自分で考えろ。」

「え?」

「代筆はしない。だが推敲なら手伝う。」

大ちゃんの目が輝いた。

「それでいい! いや、むしろそれがいい!」

彼は弁当箱をどけ、ノートを開く。

「七年、ずっと好きでした、から始めるか?」

「ありきたりだ。」

「じゃあ何だ。」

少し考え、言う。

「最初に出会った日のことを書け。」

「十四の、あの春か。」

「ああ。覚えているだろ?」

大ちゃんは、ゆっくりとうなずいた。

「覚えてる。桜の下で転んで、笑ってた。」

その顔は、恋する少年のままだった。

ペンが走る。

拙いが、真っ直ぐな文。

俺は横から赤を入れる。言葉を削り、整え、しかし芯は残す。

画学生がまた戻ってきた。

ちらりとノートを覗く。

「いいですね。熱があります。」

大ちゃんは誇らしげだ。

「だろ?」

やがて書き上がる。

最後の一行をどうするか、迷う。

「好きだ、でいい。」

「七年分だぞ?」

「いい。重ねるな。」

大ちゃんは深呼吸し、書いた。

――あなたが好きです。

たったそれだけ。

曼珠沙華の花束と、まんじゅうを添える。

「毒と甘さ、両方だ。」

「やりすぎだ。」

だが止めなかった。

夕方、風が冷え始める。

「朔ちゃん。」

「何だ。」

「ありがとな。」

その声は、七年の重みよりも、ずっと軽かった。

俺は曼珠沙華の赤を見た。

今日は折らない。

毒も、甘さも、

使い方次第だ。

「成功したらどうする。」

「まず報告する。それから――」

「キスの練習は無しだ。」

大ちゃんは笑った。

「もういらねえよ。本番でやる。」

立ち上がる背中は、少しだけ大きく見えた。

俺は銀杏の下に残り、静かに息を吐く。

飯沼太一の名は、とうとう出さなかった。

代わりに残ったのは、

「お前に書いてほしい」

その言葉だった。

呼ばれた気がした。

名を。

風が曼珠沙華を揺らす。

赤は、今日はただの赤だ。

遠くで下駄と革靴の音が重なる。

七年越しの恋が、どう転ぶかはわからない。

だが確かなのは、

誰かが誰かを選び、

その名を呼ぶとき、

世界は少しだけ、まっすぐになるということだ。

そして俺は、

そのまっすぐの端に、確かに立っていた。


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