『殴り殴られ詩人酒場』ep.70「透かし指が撫でしもの」知りたがり向け深掘り解説
この回は、一見すると
「だらしない朔也が制服のボタンをなくして探す話」
に見えます。
しかし実際には、
「喪失(なくしたもの)」と「記憶」をテーマにした物語
です。
そして、この作品は「何を失ったのか」をまだ読者に明かしていません。
だから読者は朔也と一緒に、霧の中を歩くように物語を進むことになります。
タイトルの意味
まずタイトルです。
「透かし指が撫でしもの」
かなり詩的な表現です。
「透かし」は、
向こうが見えるほど薄いこと。
あるいは実体がはっきりしないこと。
「撫でし」は
「撫でた」の古い言い方です。
つまり、
はっきりつかめないものを指先で探る
という意味になります。
これは物語全体を表しています。
朔也はボタンを探しています。
しかし本当に探しているのは、
記憶なのか、 思い出なのか、 誰かなのか、
まだ自分でもわかっていません。
だから手探りなのです。
なぜ朔也は朝からイライラしているのか
冒頭の朔也は異常なくらい機嫌が悪い。
目に映るもの全てに腹が立った。
とあります。
普通なら理由が説明されそうですが、
作者は説明しません。
なぜか。
それは、
朔也自身も理由をはっきり理解していないからです。
人間は時々、
理由がわからないまま不機嫌になることがあります。
しかし実際には、
心の奥に原因が隠れています。
この回では、
その原因が
「ボタンに関する記憶」
であることが少しずつ見えてきます。
少年の声が聞こえる意味
途中で朔也は
十二、三の時分の少年の声で聴こえた
と言います。
これは本当に少年がいたわけではありません。
自分の声が昔の自分の声に聞こえたのです。
つまり、
朔也の意識が過去へ引っ張られている。
ボタンの話が出る前から、
無意識に過去を思い出し始めているわけです。
作者はここで、
読者にさりげなく伏線を置いています。
「腐る」という言葉の意味
この回には何度も
「腐る」
という言葉が出てきます。
もちろん肉や野菜の話ではありません。
ここでの腐るは、
心が停滞すること
です。
夢も希望も失い、
何もしたくなくなる状態。
雨や湿気の描写が多いのも同じ理由です。
作者は自然現象を使って、
朔也の精神状態を描いています。
ボタンが出た瞬間に空気が変わる
この回最大の転換点です。
イヨさんが
「ボタンどこやった?」
と言った瞬間、
朔也の心臓の描写が変わります。
心臓は熱を失った
これは恐怖や衝撃を表しています。
つまり、
ボタンには重大な意味がある。
読者はここで気づきます。
なぜ制服なのか
さらに重要なのは、
なくしたのが
学生服のボタン
だということです。
イヨさんは言います。
あんたもう学校は……
言葉を途中で止めています。
これは意図的です。
おそらく朔也は、
もう学生ではありません。
だから制服を着続けること自体が不自然なのです。
それでも着ている。
つまり制服は、
過去とのつながりを断てない象徴です。
「春の花」が意味するもの
作中に突然出てくる
その衣嚢に隠した春の花
という表現。
ここだけ妙に美しい。
そして説明もありません。
小説ではこういう部分が重要です。
春は普通、
出会い
卒業
別れ
恋
新しい始まり
を象徴します。
つまり、
ボタンと春の花は繋がっている可能性があります。
もしかすると、
誰かとの思い出。
誰かとの別れ。
誰かにもらったもの。
そうした過去が隠れているのかもしれません。
久米くんがいない意味
読者は見落としがちですが、
この場面も重要です。
朔也は久米くんの大根を多めに盛っています。
つまり無意識に気遣っています。
ところが本人がいない。
すると、
俺の内側を暗くした
とあります。
ここから分かるのは、
朔也が思っている以上に
久米くんを大切に感じていることです。
孤独な人ほど、
誰かの不在に敏感になります。
雨の正体
文学作品で雨はよく使われます。
この回の雨は、
単なる天気ではありません。
雨は
記憶を呼び起こす
気持ちを沈ませる
世界をぼやかす
役割を持っています。
特に、
記憶を湿り腐らせていく
という表現が象徴的です。
忘れたいのに忘れられない。
そんな状態です。
最後の黒い石の意味
朔也はボタンを見つけたと思います。
しかし違いました。
黒い小石です。
ここには象徴的な意味があります。
人は失ったものを探すとき、
似たものを見つけることがあります。
でも、
本当に失ったものは戻りません。
だから朔也は、
ボタンに見えた石に飛びつく。
それほど必死なのです。
この回の本当のテーマ
この回は、
ボタン探しの話ではありません。
テーマは
「失ったものは何だったのか」
です。
しかも朔也自身、
まだ答えを知りません。
だから読者も一緒に探すことになります。
ボタンはただのボタンではない。
制服もただの制服ではない。
雨もただの雨ではない。
全部が、
過去と現在をつなぐ象徴として置かれています。
知りたがり向けに一言でまとめると
この物語は、
なくした制服のボタンを探す話に見せかけて、「自分が本当に失ったものは何だったのか」を主人公が少しずつ思い出していく物語の始まりである。
そして最後の黒い石は、
「まだ答えにはたどり着いていない」
という作者からの静かなメッセージなのです。
