『殴り殴られ詩人バラバラ』ep.61「文士様、迷子になる」
イヨさんに、 あっ間違えた…。
よもぎさんに捧ぐ
「おや文士様、今日は随分と気合い入ってんじゃないか。」
「うるせェ。話しかけんな。」
俺は鼻の頭を赤くしながら草履の鼻緒を締め直した。
土間では大鍋の湯気がもくもく上がっている。 イヨさんは白菜を刻みながら、ちらちらこちらを見ていた。
「逃げるんじゃないよ。」
「逃げねェよ。」
「ほんとかい?」
「……たぶん。」
「たぶんじゃ困るんだよ。」
そう言いながらイヨさんは風呂敷包みを俺の胸へどすりと押しつけた。
「下北沢。」
「下高井戸だよ!」
「どっちでもいいだろ似たようなもんは。」
「全然違うよ!」
「うるせェなァ……」
俺は鼻をすすった。
本当は寒さのせいだけじゃない。
外へ出たくない理由がもうひとつある。
昨日、研究室へ外套を忘れたのだ。
それも最悪な忘れ方をした。
寝台で妙な体勢のまま眠りこけ、目覚めたら学生たちの視線が刺さっていたのである。
しかも脇には発禁本。
俺は何も言わず飛び出した。
以来、研究室へ戻れていない。
「外套なら誰か届けてくれんだろ。」
「届けるわけないだろ。あいつら絶対きっちり畳んで机に置いてやがる。」
「律儀でいいじゃないか。」
「そこが怖ェんだよ。」
イヨさんは「はァ〜」と盛大なため息を吐いた。
「あんたはほんと面倒臭い男だね。」
そう言いながら俺の背へ半纏をかけようとしたので、俺は慌てて身をよじった。
瞬間。
ゴッ。
「いッッッ!」
石が飛んできた。
「貸してやるっつってんのに避けるんじゃないよ!」
「頭割れるだろうが!」
「次やったら割るよ。」
「今のは違ェのかよ……」
隣で茶碗を運んでいた痩せた男が肩を震わせて笑っている。
俺はそいつの肩へ半纏を押し戻した。
「寒くねェのか。」
「いや、僕はその……」
「着とけ。」
男は目をぱちぱちさせると、礼もそこそこに二階へ逃げていった。
イヨさんがじろりとこちらを見る。
俺は何も悪いことしていないのに胃が縮んだ。
「とにかくだよ朔ちゃん。」
「んだよ。」
「松尾の婆さんとこ行っといで。」
「あの黒豆ばっか食ってる婆さん?」
「そう。」
「俺じゃなくていいだろ。」
「婆さん、あんた気に入ってんだよ。」
「なんでだ。」
「顔。」
「最悪の理由だな。」
イヨさんはにやりと笑った。
「帰りにトーキーでも観てきな。」
「金。」
「ない。」
「じゃあ言うな。」
乾いた風が土間を吹き抜けた。
俺は肩をすぼめた。
やっぱり外套がないと死ぬ。
今頃研究室では、
『朔也君の外套がありますね』 『発禁本もあります』 『昨晩はどういう状況だったのでしょう』
などと会議が開かれているに違いない。
死にたい。
いや寒いから死にたくはない。
俺は風呂敷をぶら下げ、ふらふら外へ出た。
駅前へ出た瞬間、俺は止まった。
「……どっちだ?」
右か左かわからない。
いや、なんとなくはわかる。
だがなんとなくで歩くと人生は大抵ろくなことにならない。
俺は五分悩み、堂々と逆方向へ進んだ。
気づいた時には八百屋の前に立っていた。
「兄ちゃん白菜安いよ。」
「いらねェ。」
「持ってけ持ってけ。」
なぜか俺は白菜を抱えていた。
風呂敷包みと白菜。
完全におつかいである。
しかも迷子のおつかい。
「……何してんだ俺。」
空は鈍色だった。
道行く学生たちは目的地を知っている顔で歩いていく。
なぜ人類は迷わず歩けるのだろう。
不思議でならない。
俺は適当に曲がり、適当に進み、気づけば知らない神社へ着いた。
犬に吠えられた。
逃げた。
転んだ。
白菜が転がった。
子どもに笑われた。
「お兄ちゃん泣いてる!」
「泣いてねェよ!」
ほぼ泣いていた。
夕方になっていた。
これはまずい。
俺は研究室へ寄ることすらできていない。
婆さんの家にも着いていない。
白菜だけがある。
意味がわからない。
すると後ろから、
「あの……」
声がした。
振り向くと学生服の青年が立っていた。
見覚えのある帽子。
研究棟で見た顔だ。
「大丈夫ですか。」
「大丈夫に見えるか?」
「少し。」
「嘘つけ。」
学生は困ったように笑った。
その顔を見た瞬間、俺はなんだか急に恥ずかしくなった。
白菜抱えて知らない路地に立ってる袴姿の男。
終わっている。
「どちらへ?」
「下高井戸。」
「逆です。」
「……。」
「かなり。」
「……。」
「交番、行きます?」
「子どもじゃねェ。」
十分後。
俺は交番でお茶を飲んでいた。
「道に迷ったんですかァ。」
「違います。」
「じゃあ?」
「人生。」
巡査は黙った。
学生も黙った。
気まずい沈黙のあと、学生が小箱を差し出した。
「これ……。」
中にはキャラメルが二粒。
「君の分は。」
「ありません。」
「全部くれんのか。」
学生は照れたように帽子を下げた。
俺はひとつ口へ放り込んだ。
甘い。
「キャラメルコーンの方が良かったな。」
「は?」
「いや。」
しっかり二粒目も懐へしまった。
しばらくして交番の戸が勢いよく開いた。
「朔ちゃん!!」
イヨさんだった。
髪を振り乱し、息を切らし、片手にお玉を持っている。
「この夕方のクソ忙しい時に全くあんたって子はアンタッチャブルなんだから!」
「何言ってんだ。」
「知らないよ!」
巡査が吹き出した。
イヨさんは俺の頭をばんばん叩いた。
「白菜なんか買って! 婆さんとこは!?」
「行ってねェ。」
「なんで白菜だけ増えてんだよ!」
「俺が知りてェよ!」
交番中に笑い声が広がった。
外では列車の音が鳴っている。
俺はポケットのキャラメルを指先で転がした。
結局今日はどこへも辿り着けなかった。
けれど、
まあ。
こういう日もある。
