『殴り殴られ詩人バラバラ』ep.60「生き急ぐ洗濯物」
よもぎさんに捧ぐ
夕暮れの洗濯場──
俺は縁側へ腹這いになっていた。
西陽に熱せられた板張りがじんわりと胸を温めている。 庭先では盥が幾つも並び、泡立った水の上を木漏れ日がちらちら滑っていた。
「朔ちゃん!」
雷みたいな声が飛んでくる。
「は、い……」
「返事が蚊ァみたいなんだよ!」
イヨさんは腰に手を当て、濡れた手拭いをぶんぶん振り回していた。 その度、水飛沫が夕陽を浴びて砕ける。
「若い男が昼間っから干物みたいになってんじゃないよ!」
俺はゆっくり起き上がる。 頭の芯がまだ眠っている。
「文学青年ってのァ、みんなそういうもんだろ……」
「馬鹿だね!」
びしゃり、と濡れ雑巾が額へ飛んできた。
「文学ってのは死にたがるために読むもんじゃない!」 「……へいへい」 「楽しむためだよ! 歌うためだよ! 踊るためだ!」
イヨさんは洗濯板を鳴らしながら怒鳴る。 ばん、ばん、ばん、と一定の調子。 まるで太鼓だ。
「生きてるってだけで大仕事なんだ! それを辛気臭ェ顔で台無しにしてどうすんだい!」
俺は欠伸を噛み殺した。
空には薄い雲が泳いでいる。 物干し竿では浴衣が風に膨らみ、人が入っているみたいに揺れていた。
その白さを眺めているうち、なんだか急に遠い海辺を思い出した。
潮の匂い。 砂の熱。 子供の頃、誰かが歌っていた変な流行歌。
「……聞いてんのかい!」
「いってェ!」
下駄が飛んできた。
「ぼうっとするな!」 「無理言うなよ……」 「無理じゃない! ぼうっとする暇があるなら働け!」
イヨさんは腕捲りをさらに上げた。 細腕なのに妙に迫力がある。
俺は渋々、盥の前へ座らされた。
「これ濯ゆすげ。」 「多くない?」 「世の中は全部多いんだよ!」
意味が分からない。
俺は水へ手を突っ込む。 井戸水はまだ冷たい。
しゃぶ、しゃぶ、と布が泳ぐ。 白い泡が指先へ絡みついた。
「もっと腰入れな!」 「剣道じゃねェんだから……」 「似たようなもんだよ!」
ばんっ、とまた洗濯板が鳴る。
イヨさんの動きは凄まじかった。
洗う。 絞る。 叩く。 干す。
その全部が速い。
しかも喋り続ける。
「あんたねェ、考えすぎなんだよ。」 「考えるのが仕事なんだ。」 「違うね。考えて止まるのは贅沢だ。」 「……」 「働いて食って寝て笑ってりゃ、人間なんとかなるんだよ!」
俺は黙って手を動かした。
だが実際、彼女の言葉には妙な説得力があった。
陽は少しずつ傾いていく。 濡れたシャツの袖から、水滴がぽたりぽたりと落ちた。
遠くで風鈴が鳴っている。
ちりん。 ちりりん。
その音を聞いていると、急に世界が広く感じられた。
誰かが生きていて、 誰かが洗濯をしていて、 誰かが怒鳴っていて、 誰かが眠っている。
それだけのことなのに、不思議と悪くなかった。
「ほら朔ちゃん!」 「ん?」 「歌え!」
「はァ?」
「歌いながらやるんだよ!」
イヨさんは洗濯物を振り回しながら妙な節をつけ始めた。
♪晴れたら干してェ~ 曇れば取り込むゥ~ 濡れたらまた洗うゥ~
「なんだその歌……」 「人生だよ!」
彼女は豪快に笑った。
俺もつられて吹き出した。
その拍子に石鹸水を吸い込んで咽せる。
「馬鹿だねえ!」 「お前が笑わせるからだろ!」
夕焼けはどんどん赤くなっていく。
干された浴衣の隙間から見える空は、燃えかけた炭みたいな色だった。
一瞬、俺は見惚れた。
風に揺れる布。 光る水滴。 電線へ並ぶ椋鳥。 赤い雲。
世界は勝手に美しい。
誰かが意味をつけなくても、 理由を探さなくても、 ただそこにあるだけで完成している。
「……なあ、イヨさん。」 「なんだい。」 「文学って、なんなんだろうな。」 「知らないよ。」
即答だった。
「けどまあ。」 「ん?」 「生きててよかったって思わせるためのもんじゃないのかい。」
俺は手を止めた。
イヨさんは洗濯物を絞っている。 雑巾みたいに力任せに。
ぎり、ぎり、と水が滴る。
「悲しい話でも?」 「ああ。」 「苦しい話でも?」 「そりゃそうさ。」
彼女は鼻を鳴らした。
「最後に“それでも食って寝て生きろ”って言えりゃ上等だよ。」
風が吹く。
洗濯物が一斉に膨らんだ。
白い帆みたいだった。
俺はしばらく、それを見ていた。
「おい。」 「ん?」 「手ェ止まってんじゃないか。」 「今ちょっと感動してんだよ。」 「感動する暇があったら濯げ!」
びしゃり。
また水が飛んできた。
「冷てェ!」
「若い男が詩人ぶって立ち止まるんじゃないよ!」
イヨさんは笑っている。
怒鳴っているくせに、 なぜか楽しそうだった。
俺はまた手を動かし始めた。
しゃぶ、しゃぶ、 ばしゃ、ばしゃ。
単純な作業。
だが続けているうち、 頭の中の澱おりみたいなものが少しずつ薄まっていく。
考えすぎ。 悩みすぎ。 意味を求めすぎ。
そういうものが、 水に溶けて流れていく気がした。
空はもう藍色へ沈み始めていた。
最初の星が一つ光る。
「朔ちゃん。」 「なんだよ。」 「踊れ。」 「嫌だ。」 「踊れ!」 「なんでだよ!」
イヨさんは洗濯籠を太鼓みたいに叩き始めた。
どん、どん、どん。
「人生短いんだ!」 「急すぎるだろ!」 「いいから踊れ!」
俺は呆れながら立ち上がる。
適当に腕を振る。
するとイヨさんが腹を抱えて笑い始めた。
「下手くそ!」 「うるせェ!」
気づけば俺も笑っていた。
笑いながら、 暮れていく空を見上げた。
風が吹く。
洗剤の匂い。 夕餉の匂い。 土の匂い。
遠くで誰かが口笛を吹いていた。
世界は忙しい。
生きることは面倒だ。
洗濯物は次々増えるし、 腹は減るし、 眠くもなる。
本を読む暇なんてありゃしない。
イヨさんの生活指導は容赦がない。
ぼうっとしていれば怒鳴られる。
感傷に浸れば水をかけられる。
考え込めば働かされる。
だがその全部が、 妙に温かかった。
気づけば俺は、 今日一度も「死にたい」と考えていなかった。
代わりに、
腹が減ったな、
と思っていた。
