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冬の余白狂騒

よもぎさんに捧ぐ



 二月二十二日。午前二時二十二分。

 作家は机に向かっていた。

 正確には、机に向かっている形を保っている人間が、そこに置かれていた。

 キーボードの上の指は静止している。画面は白い。どこまでも白い。点滅するカーソルだけが、規則正しく明滅している。心電図のようだ、と彼は思う。だが鼓動は聞こえない。

「……誰だ」

 声は、自分の喉を通ったはずなのに、少し遅れて耳に届いた。

 窓辺にアヒルが立っていた。白い羽。冷静な目。足元にはおサルさんが座っている。しっぽを握り、こちらを見上げている。

「呼びましたよね」

 アヒルが言う。

「原稿が進まない夜に」

 作家は額を押さえる。首の後ろに薄い違和感がある。皮膚の内側で、別の瞬きが行われている気がする。自分が、自分より半歩ずれている。

「書けない」

 言葉は乾いていた。

 文字が浮かばない。浮かんでも、形になる前に溶ける。意味が足場を失い、静かに崩れていく。

 おサルさんがキーボードに飛び乗り、小さな指で「A」と打つ。

 画面に一文字が現れる。

 次の瞬間、滲んで消えた。

「見つめすぎです」

 アヒルは淡々としている。

 見つめすぎる。考えすぎる。整えすぎる。まだ存在しない読者の顔を想像し、編集者の声を思い出し、期待の重さを勝手に積み上げる。

 気づけば、自分の物語はどこにもない。

 机の端に、誕生日のケーキがある。昨日、二十八本の蝋燭を立てた。火は揺れたが、消えなかった。肺が空気を押し出すことを拒んだ。

 フォークを入れる。白いクリームをすくう。

 口に運ぶ。

 甘くない。

 舌の上で、かすかな苦味が広がる。砂のように乾いた感触。

「甘いはずなのに」

「“はず”を食べています」

 アヒルは首をわずかに傾ける。

 おサルさんはケーキの影で、何も言わずこちらを見ている。その目は妙に静かだ。

 最近、やりすぎていると、作家は思う。頼まれた仕事を断れず、期待に応えようとし、常に全力で走ってきた。走るたびに、自分の輪郭が薄くなる。

 中心が、少し空洞だ。

「全部、やらなくても」

 おサルさんが呟く。

「七割で」

 部屋の壁が、わずかに揺らいだ。電球の光が滲む。

 作家は目を閉じる。息を吸う。吐く。胸が上下する。それだけが確かな運動だ。

 自分は、まだ呼吸している。

「書けなくなったわけではありません」

 アヒルの声は低い。

「削りすぎただけです」

 削りすぎた。自分を。

 作家はキーボードに触れる。今度は急がない。誰の顔も浮かべない。期待も締め切りも、いったん机の外へ置く。

 一文字。

 消えない。

 二文字。

 残っている。

 おサルさんが小さく頷く。アヒルは何も言わない。

「世界は続きます」

 静かな声。

「あなたが書けなくても。甘く感じなくても。朝は来ます」

 窓の外が、わずかに白む。冬の空気が青い。冷たいが、澄んでいる。

 作家は立ち上がり、カーテンを開ける。光が差し込む。ひんやりとした光だ。

 振り向くと、アヒルもおサルさんもいない。

 一瞬、部屋の隅に何かの影を見た気がしたが、すぐに消えた。

 机の上のケーキは、半分残っている。

 もう一度、口に運ぶ。

 まだ甘くはない。

 だが、さっきより苦くない。

 画面には五行の文章が並んでいる。整ってはいない。完璧でもない。ただ、そこにある。

 作家は椅子に座る。

 全部でなくていい。

 全力でなくていい。

 カーソルが点滅する。

 今度は心電図ではない。

 ただの、続きの合図だ。

 二月二十二日。午後二時二十二分。

 冬の光は冷たいまま。

 それでも部屋には、わずかな余白がある。

 作家はその余白に、次の一文字を置く。

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