見出し画像

『夜勤とすももと未完成の台本』



よもぎさんに捧ぐ



休憩室は、正確には部屋と呼べる代物ではなかった。

細長い通路の突き当たりに無理やり設けられた空間で、扉を閉めると空気が止まる。椅子は一脚、壁には剥がれかけたテープ跡がいくつも残っている。誰かが何かを貼っては剥がし、貼っては剥がした、その履歴だけが沈殿している。

僕はその椅子に座ったまま眠っていた。
夢の中で、僕は舞台に立っている。
スポットライトが一つ。観客は見えない。相方の姿もない。ただ、手にはなぜか紙袋いっぱいのポテトがあって、それをマイク代わりにして喋ろうとしている。

「えー、どうも……」
口を開いた瞬間、ポテトが雪崩れ込んできた。
喉が詰まる。言葉が出ない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
なぜか謝っている。誰に対してなのかもわからないまま、ひたすらに。
──肩を叩かれた。
「起きてる? それとも謝罪会見中?」

目を開けると店長がいた。相変わらず、軽い調子で現実に割り込んでくる。
「ポテト食べる?」
差し出された紙袋を見て、僕は一瞬だけ夢の続きを疑った。
「……いえ、大丈夫です」
「遠慮しなくていいのに。夢の中では食べてたよ?」
「え」
「“ごめんなさい”って言いながら」
完全に見られていたらしい。
「やめてください……」
「いや、面白かったからつい」
そのやりとりを、入り口にもたれかかって見ている影がある。
「またやってる」
牧野くんだ。
「この人、ほんとに謝るの好きっすよね。趣味っすか?」
「違う」
反射的に否定する。
「じゃあ癖?」
「……たぶん」
「たぶんって何すか」
彼は笑いながら中に入ってくる。狭い空間がさらに狭くなる。
「外、雨ですよ。客、少なめ。ラッキーっすね」
「いや、さっき団体来たからプラマイゼロだよ」
店長が肩をすくめる。
僕は立ち上がりながら、まだ少し夢の中にいるような気がしていた。喉の奥に、言えなかった言葉が残っている感覚。
店に出ると、確かに客はまばらだった。
その中に、ひときわ浮いている二人がいる。
初老の男女。
背筋は少し丸いが、妙に姿勢が揃っている。テーブルの上には何もない。注文もしていないらしい。
それでも、ふたりは静かに会話を続けている。
「……あの人たち」
僕が小声で言うと、牧野くんが横から覗き込んだ。
「ああ、さっきからああっすよ。居座りタイプ」
「注意する?」
「店長がしないなら、しなくていいんじゃないすか」
店長はカウンターの奥で何かを書いている。あえて見ないふりをしているようにも見える。
僕は少しだけ考えて、結局何もしなかった。
正しさよりも、面倒くさくなさを選んだ。
それだけのことだ。
夜は静かに過ぎていった。
帰宅して、冷蔵庫を開ける。
内側に貼られた紙が目に入る。
丸い字。癖のある言い回し。やたらと改行が多い。
「これ、絶対ウケると思うんだよね」
書かれているのは、漫才のネタだった。
僕が書いたものではない。けれど、僕に向けて書かれたものだ。
「いや、ウケないだろ……」
思わず笑う。
構成が甘い。前振りが長いわりに、オチが弱い。何より、誰に向けているのかが曖昧だ。
「ここ削って、ここ詰めて……」
指でなぞりながら、頭の中で修正を入れる。
まるで自分が書いたみたいに。
冷蔵庫からすももを取り出す。
かじる。
強烈な酸味が広がる。
「……すもももももももものうち」
口に出してみる。
「すもももももももものうち」
二回目で噛む。
「すももも……も……」
三回目は諦めた。
「……ごめんなさい」
また出た。
誰もいないのに。
種だけになった果実を、しばらく舌の上で転がす。
言葉にならなかったものが、そこに残っている気がした。
時計を見る。
午前三時。
そろそろ寝るか、と思う。
けれど、貼られた紙から目が離れない。
未完成のネタ。
未完成のままでもいいのか、それとも完成させるべきなのか。
考えても答えは出ない。
ただ一つだけわかるのは、あの夢の舞台にもう一度立つなら、今度はちゃんと喋らなきゃいけない、ということだった。
ポテトじゃなくて、言葉で。
僕は電気を消す。
暗闇の中で、もう一度だけ小さくつぶやいた。
「……すもももももももものうち」

いいなと思ったら応援しよう!