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なぜ私は、この退廃的な作品に惹かれるのか:マルカム・ラウリー『火山の下』

はじめに

本棚の隅で、その本はずっと沈黙を守っていました。 マルカム・ラウリー(1909-1957)の『火山の下』。 手に入れてから幾星霜、ページをめくる勇気を持てないまま、新品の状態で日本に置かれたままになっています。私はその存在を避けるように生きてきたのかもしれません。

しかし先日、YouTubeという現代の入り口から、私は唐突にあのクエルナバカの土埃の中へと引き戻されました。かつてスクリーンで私を射すくめた、あの救いのない、それでいて抗いがたいほどに美しい地獄。それは、ジョン・ヒューストン監督の映画『火山のもとで(Under the volcano)』との再会です。


あらすじ:死者の日のカウントダウン

物語の舞台は1938年、第二次世界大戦の前夜です。メキシコの古都クエルナバカは、骸骨の飾りに埋め尽くされる「死者の日」の祝祭に沸いています。

主人公のジェフリー・ファーミン(アルバート・フィニー)は、元イギリス領事。かつての栄光を失い、今は朝から晩までメスカルに溺れる廃人同然の生活を送っています。そこへ、彼のもとを去っていた妻イヴォンヌ(ジャクリーン・ビセット)が突如として帰還します。彼女は、地獄の淵にいる夫を救い出し、もう一度やり直そうと手を差し伸べるのです。

しかし、再会の喜びは長くは続かない。異母弟ヒューを交えた三人の時間は、洗練された会話の裏側で、決定的な破滅へと加速していきます。

なお、本作は以下のリンクから視聴可能です。
前編はこちらから。

後編はこちらから。


身体化された文化資本:ジャクリーン・ビセットの「正しさ」

再見して確信したのは、イヴォンヌを演じるジャクリーン・ビセットの圧倒的な美しさの正体です。彼女の凛とした佇まい、スッと伸びた背筋。それは単なる容姿の良さではありません。バレエという過酷な訓練によって骨格にまで刻み込まれた「身体化された文化資本」です。

ピエール・ブルデューの言う「ヘクシス(身体的構え)」が、これほどまでに残酷に機能する映画を私は他に知りません。彼女の「正しすぎる姿勢」は、泥にまみれ地面に這いつくばる夫に対する無言の告発となります。彼女が良かれと思って差し出す救済は、その圧倒的な品位ゆえに、相手の惨めさを際立たせる「象徴的暴力」として夫を追い詰めていくのです。


泥濘のなかの「オックスフォード・タイ」と帝国の黄昏

この映画には、「インナー(特権階級の内部)」にしか描けない世界を象徴する、忘れがたいシーンがあります。 泥酔したジェフリーが道路の真ん中に倒れ込み、あわや車に轢かれそうになります。その車を運転していた男が彼に声をかけます。

九死に一生を得た救済の瞬間、ジェフリーは自分を助けた男の装いに目を留めます。男はあろうことか、オックスフォードのネクタイを「腰に」巻き付けていました。 ジェフリーが「……オックスフォード(出身)かな?」と問うと、男はこう答えます。 「いや、ケンブリッジだ。このタイは、いとこのものでね」

男はこれからグアテマラへ寺院巡りのツアーに向かうのだと、事もなげに語ります。 生死の境目、メキシコの埃舞う路上にあっても、彼らの会話を支配するのは「どの大学の出身か」という記号と、優雅な余暇の報告です。ネクタイをベルト代わりに腰に巻くという、ある種の「支配階級ゆえの無頓着さと退廃」がそこにはあります。

このジェフリーの姿には、大英帝国の没落を予感させる影が色濃く漂っています。かつて世界を統治した「教養」や「マナー」という重荷を捨て去ることもできず、かといって維持する力も失い、異郷の泥濘の中でただ象徴的な記号に縋り付く。彼は、崩壊へと向かう帝国の精神そのものを体現しているように見えます。


作者の投影:20世紀文学の金字塔

この物語が放つ熱量の正体は、原作者マルカム・ラウリーの実体験にあります。 1936年11月2日。彼はまさに「死者の日」のクエルナバカに妻と到着し、破綻した結婚生活を修復しようと最後の試みを行っていました。 原作『火山の下』(1947年)は現在、20世紀の偉大な文学作品の一つとして広く認められており、モダン・ライブラリーの「20世紀のベスト小説100選」では11位にランクインしています。

ケンブリッジ出身のエリートであり、重度のアルコール依存症であったラウリーにとって、教養は誇りであると同時に、決して脱げない「呪いの衣」でもありました。「彼女は彼を母親のように扱いたくなかった」という実在の妻との断絶。文明的な「正しさ」を捨てきれない妻と、知性という檻から逃れるために酒と深淵へと堕ちていく夫の姿がそこにあります。

ジェフリーが一人で迷い込んでいく売春宿の風景は、正視しがたいほどに不穏です。イヴォンヌは、ジェフリーの異母弟ヒューと一緒にジェフリーを探しますが、ついに生きて彼にまみえることは叶いませんでした。彼女の死は、彼が地獄の底で孤独に果てる直前、残酷なほど唐突に訪れるのです。この物理的な「不在」こそが、二人の間の埋められない溝を象徴しています。


結び:滅びゆくものの美しさ

なぜ、私はこれほどまでに退廃的な作品に惹かれるのでしょうか。 時間が経過し、社会の仕組み階級という目に見えない鎖の重さ、そして帝国の凋落という歴史的な「構造」を知った今、私はこの作品の素晴らしさをより深く理解できるようになりました。

それは、かつて世界を統治した側の人間たちが、その教養も、プライドも、完璧な背筋の伸ばし方も、すべてを身に纏ったまま、音もなく崩壊し、泥濘へと沈んでいく。その「滅びゆくものの美しさ」に、抗いがたい魅力を感じるからです。

メキシコの死者の日の祝祭が放つ野性的なエネルギーの中で、彼らの「知性」や「洗練」は何の役にも立ちません。しかし、それらを脱ぎ捨てることもできず、呪縛のように抱えたまま破滅へと進んでいく姿は、残酷なまでに気高いものです。

いま、私はフランスの空の下にいます。 あの日買い求めた『火山の下』の原作本は、遠く離れた日本で、新品のまま静かに眠っています。手元に本はありません。けれど、YouTubeという窓から再び迷い込んだあの熱狂の地獄は、いまも私のすぐ側で息づいています。

いつか日本に戻り、あの真っ白な一ページ目をめくるその時まで。 私はこの「滅びの美学」の残光を、異国の地で大切に抱えていたいと思います。

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