【洗心考】其の三 流されるな、流れよ ― 水が教えてくれる主体的な生き方 ―
自然に学び、古典に学び、人に学ぶ。
そして、自分自身に問い続ける。
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第一部 流されることと、流れることは違う
水は流れます。
高いところから低いところへ。
時には穏やかに、時には激しく。
岩にぶつかれば、その形を変えながら、なお前へと進んでいきます。
しかし、水は決して、ただ漂っているわけではありません。
その流れには、いつも行き着く先があります。
私は前回、「変えてはならないもの、守るべきもの」について考えました。
人は、時代に合わせて変化することが必要です。
しかし、その変化の中で、自分の軸まで失ってしまえば、私たちは時代の流れに身を任せるだけの存在になってしまうのかもしれません。
最近、そんなことを考える場面が増えました。
情報が溢れ、価値観が目まぐるしく移り変わる時代です。
何が正しいのか。
何を選べばよいのか。
迷ったとき、人はつい「みんながそうしているから」という理由で判断してしまうことがあります。
しかし、それは本当に自分で選んだ道なのでしょうか。
私は、「流されること」と「流れること」は、似ているようでまったく違うものだと思うのです。
流されるとは、自分の行き先を他人や時代に委ねてしまうこと。
一方で、流れるとは、変化を受け入れながらも、自らの意思で進むべき方向を選ぶことではないでしょうか。
水は、岩にぶつかれば形を変えます。
しかし、自ら海へ向かうことをやめません。
私たちもまた、そのように生きることができるのかもしれません。
時代という風を受けながらも、自分の軸を失わず、自らの意思で歩み続ける。
そのために、今一度、自分自身へ問いかけてみたいのです。
私たちは、本当に自分の意思で生きているだろうか。
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第二部 舵を握るということ
人生は、ときに航海に似ているように思います。
穏やかな凪の日もあれば、思いもよらない嵐に見舞われることもあります。
追い風に背中を押されることもあれば、向かい風に進路を阻まれることもあるでしょう。
しかし、どれほど風向きが変わろうとも、一つだけ変わらないものがあります。
それは、「どこへ向かうのか」を決めるのは、自分自身だということです。
舟は、風を選ぶことはできません。
波を止めることもできません。
けれども、帆の張り方を変え、舵を切り、進む方向を選ぶことはできます。
人生もまた、同じではないでしょうか。
私たちは、自分の生まれた時代を選ぶことはできません。
どのような出来事に出会うかも、すべてを思い通りにすることはできません。
それでも、その出来事をどう受け止め、どちらへ進むのかを選ぶことはできるのだと思います。
ところが、現代は、自分で考えなくても答えが手に入りやすい時代です。
検索すれば、誰かの意見がすぐに見つかります。
SNSを開けば、多くの人の価値観が流れてきます。
便利な時代になりました。
しかし、その便利さの中で、私たちはいつの間にか、自分の人生の舵を他人に預けてしまってはいないでしょうか。
世間がこう言うから。
みんながそうしているから。
失敗したくないから。
もちろん、その気持ちはよく分かります。
私自身もまた、迷い、立ち止まり、答えを探し続けている一人です。
けれど、どれほど多くの人の意見を聞いたとしても、最後に舵を握るのは自分自身でなければならないのだと思います。
なぜなら、その人生を生きるのは、自分だからです。
誰かが代わりに歩いてくれるわけではありません。
だからこそ、時には立ち止まって、自分自身に問いかけてみたいのです。
今、自分の人生という舟の舵を握っているのは、誰だろうか。
私は、自らの意思で、この航路を選んでいるだろうか。
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第三部 水のように生きるということ
水は、自らその姿を誇ることはありません。
低きへと流れ、器に従い、ときには岩に行く手を阻まれながらも、なお流れ続けます。
真っ直ぐに進めないときは、迂回します。
立ち止まっているように見えても、やがて新たな道を見つけて流れ始めます。
しかし、水は決して自らの行き先を見失いません。
最後には、大海へと至ります。
私は、水の姿には「主体的に生きる」ということの本質があるように思うのです。
主体的に生きるとは、自分の思いどおりに生きることではありません。
何ものにも従わず、自分の考えだけを押し通すことでもありません。
変えることのできない現実を受け入れながら、その中で自分はどう生きるのかを考え、自らの意思で一歩を選び続けることなのではないでしょうか。
人生には、思いどおりにならないことが数多くあります。
時代の流れも、環境の変化も、自分の力だけではどうにもならないことがあります。
だからこそ、せめて自分の生き方だけは、自分で選びたい。
誰かの価値観に流されるのではなく、時代の風に翻弄されるのでもなく、自らの意思で舵を握りたい。
そして、必要であれば姿を変える。
進む道を変える。
遠回りをする。
けれども、自分が大切にしたいものだけは失わない。
水がその性を失わないように、私たちもまた、自らの本質だけは見失わずに歩んでいきたいものです。
人生という航海に、正解の航路はありません。
だからこそ、問い続けたいのです。
今、自分の人生という舟の舵を握っているのは、誰でしょうか。
私は、自らの意思で、この航路を選んでいるでしょうか。
あなたは、流されていますか。
それとも、自らの意思で流れていますか。
答えを求める時代だからこそ、私は問いを大切にしたい。
「洗心考」は、古典や歴史、日々の出来事を通して、人としての在り方を共に考えるための随想です。
共に学び、共に考え、共に心を磨く。
この記事が、皆さん自身の航路を見つめ直す小さなきっかけになれば幸いです。
― 如水玄心
