【小説】写る側の人間〜禁書編 写らないための覚書〜
第一章|空気が、ひとつ多い部屋
玄関のドアを閉めた瞬間、
空気が、わずかに遅れて追いついてきた。
ドアノブから手を離した指先が、
一瞬、冷たい何かに触れたような錯覚を覚える。
だが、振り返っても何もない。
ここは、東京都郊外。
築二十年の、どこにでもあるワンルームマンション。
それでも僕は、靴を脱ぐ前に深く息を吸った。
この部屋、いる。
見えるわけではない。
聞こえるわけでもない。
ただ、
「空気の量」が合わない。
人間ひとり分、多い。
「……すみません。
やっぱり、帰ってもらったほうが……」
後ろで、女性の声がかすれた。
彼女の名前は佐伯美咲。
電話越しの声より、実物はずっと疲れて見えた。
目の下に沈んだ影。
睡眠不足特有の、焦点の合わない視線。
それでも彼女は、
必死に平静を装っている。
「大丈夫です。
ここまで来て、帰る理由はありません」
それは半分、彼女のため。
もう半分は、自分に言い聞かせる言葉だった。
第二章|写ったもの
テーブルの上に置かれたスマートフォン。
画面に映る写真は、
あまりにも普通だった。
夜の公園。
街灯。
ブランコ。
夏の終わり、
友人と帰る途中で撮ったという。
だが、
ブランコの下。
地面から数センチ浮いた位置に、
影だけが存在している。
輪郭は、人の形に近い。
だが、足がない。
影なのに、
光源の方向を無視している。
「……これを撮ったとき、
誰かいました?」
「いいえ。
確認しました。
私、怖がりなので」
写真を拡大する。
影の“首”の部分。
そこに、
わずかな歪みがあった。
見られている影。
背中を、冷たい汗が流れた。
「この日から、
写真を撮るのが怖くなりました」
美咲は、
唇を噛んで続ける。
「でも……
撮らないと、
増えるんです」
第三章|呼び水
心霊写真という言葉は、
便利すぎる。
それを言った瞬間、
人は“現象”を理解した気になる。
だが、
理解したつもりになることほど、
危険なことはない。
「これは、霊じゃない」
美咲の顔が、強張った。
「正確に言うと……
霊だったものです」
彼女は、
何も言わなかった。
説明を待つ沈黙の中、
部屋の隅で、
空気がわずかに揺れる。
「写真に写ることで、
存在を保つものがいる」
それは、
見られることで“自分”を保つ。
忘れられれば消える。
だが、
写され、意識されれば、
増える。
「あなたが怖がったことで、
気づかれた」
言葉を選びながら、
それでも真実だけを置く。
「この部屋は、
“溜まり場”になってる」
美咲の肩が、
小さく震えた。
第四章|青年の過去
僕は、
昔からこうだった。
小学生の頃、
誰もいない廊下で、
必ず足音が遅れてくる。
振り返ると、
一拍、空気がずれる。
それが、
当たり前だった。
大人になるにつれ、
それは「向こう」から寄ってくるようになった。
理由は分からない。
ただ、
境界が薄い。
霊能力なんて言葉で片付けられるが、
実際はもっと不格好だ。
見えない。
聞こえない。
ただ、
“呼ばれる”。
そして今、
この部屋は、
僕を歓迎していた。
第五章|儀式の始まり
塩を置く。
水を張る。
灯りを落とす。
やり方自体は、
単純だった。
問題は、
相手の数。
三つ……
いや、
もう数えられない。
空気が、
重くなる。
クローゼットの中から、
木が軋む音。
ギシ……
床が、
わずかに沈む。
「……動かないで」
そう言った瞬間、
美咲のスマホが、
勝手に震えた。
カシャ
シャッター音。
第六章|写る側
画面に映っていたのは、
僕だった。
だが、
首から上が、ない。
影だけが、
そこにある。
その背後で、
何かが肩に手を置いている。
息が、かかる。
生ぬるい。
湿っている。
振り返れない。
分かる。
これは、
今まで相手にしてきたものと、
格が違う。
霊ではない。
記憶でもない。
写るためだけに存在する悪意。
恐怖が、
背骨を這い上がった。
僕は、
初めて理解した。
――これは、
解決できない。
第七章|代償
灯りが消え、
音が止んだ。
部屋は、
静かになった。
美咲は助かった。
それは、間違いない。
だが、
僕は分かっていた。
役割が、入れ替わった。
最終章|その後
自宅に戻り、
スマホを確認する。
知らない写真が、
一枚。
暗闇の中、
こちらを見て笑う“僕”。
その肩に、
はっきりとした指の跡。
写真を削除しようとして、
指が止まる。
消せば、
次は、
どこに写る?
――選ばれたのは、
僕だった。
📷写る側の人間
――第二層
第八章|戻れない静けさ
家に帰ったはずなのに、
僕はまだ、あの部屋にいる気がしていた。
鍵を閉める音。
電気をつける動作。
コップに水を注ぐ音。
すべてが、
ワンテンポ遅れて響く。
まるで、
自分の行動を
“あとからなぞる存在”がいるようだった。
テレビをつけると、
音量が勝手に一段下がった。
リモコンには、触れていない。
「……始まったな」
声に出すと、
部屋が、
ほんの一瞬だけ息を止めた。
第九章|写真の増殖
スマートフォンを伏せていたはずだった。
なのに、
画面が点いた。
通知は、ない。
アプリも起動していない。
ただ、
カメラロールが開かれている。
写真は、
増えていた。
一枚、
また一枚。
部屋の天井。
洗面所の鏡。
閉めたはずのクローゼット。
どれも、
今、撮った記憶はない。
共通しているのは、
視点の高さ。
すべて、
僕より、
少しだけ高い。
「……見下ろしてる」
理解した瞬間、
喉が鳴った。
第十章|観測される恐怖
悪霊は、
何もしない。
触らない。
壊さない。
脅かさない。
ただ、
観ている。
観測されると、
人は無意識に“形”を保とうとする。
姿勢を正し、
呼吸を整え、
正常を装う。
それが、
餌だった。
美咲の部屋で、
僕はそれを止めた。
だから、
次は僕になった。
第十一章|境界の剥離
眠れなくなった。
目を閉じると、
シャッター音が、
頭の奥で鳴る。
カシャ
夢の中で、
誰かが写真を撮る。
起きると、
その写真が増えている。
だが、
おかしなことに気づいた。
写っている“僕”が、
少しずつ、
僕じゃなくなっている。
目の焦点。
口角の上がり方。
姿勢。
僕より、
“自然”だ。
第十二章|理解
ある夜、
鏡を見て気づいた。
鏡の中の僕が、
瞬きをしない。
それでも、
遅れて、
同じ動きをなぞる。
まるで、
先に存在している。
「……あぁ」
声が、
かすれた。
この存在は、
霊でも悪意でもない。
観測されることで、
現実を奪うもの。
写る側が、
本物になる。
第十三章|助けられない理由
過去、
僕が解決してきた案件。
救われた人間は、
全員、生きている。
だが、
写真を撮った者はいない。
僕は、
“写らない側”だったから
戻れた。
今、
その条件が、
崩れた。
第十四章|最後の抵抗
試した。
写真を消す。
スマホを壊す。
目を閉じる。
意味はなかった。
観測者は、
カメラじゃない。
意識そのものだ。
読んでいる誰か。
聞いている誰か。
想像した誰か。
最終章|ここにいる
もし、
この話を
「物語」だと思っているなら、
それはまだ、
安全な位置にいる。
だが、
情景を想像した瞬間。
部屋の空気を感じた瞬間。
あなたは、観た。
今、
あなたの背後には、
何もいない。
――まだ。
だが、
この文章を読み終えたあと、
スマートフォンを開いたとき。
カメラロールに、
覚えのない写真が一枚あったら。
それは、
あなたが、
“写る側”に選ばれた証拠だ。
――完
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